第三章(1)
「早く帰って洗った方がいいよ」
中川が笑顔で食事をしている。遼太郎は辺りを見渡し、自分の手がフォークをつかんでいることに気付いた。ミートソースのかかったパスタは湯気をあげている。美味しそうに見えるが、今はそれどころではないことを思い出した。
「奈々恵は!」
「うわ! びっくりするなあ・・」
中川の肩が縮こまり、開ききった目で遼太郎を見つめていた。全てを理解できてはいないが、遼太郎は本能的に察していた。
「今は何日だ?」
「急にどうしたのさ」
「だから・・」
説明するのが面倒になり、遼太郎はどこかにあるはずのスマートフォンを探した。テーブルの端に置かれているのに気付き、慌ててホーム画面を開く。
―――五月十四日、日曜日。
昼の十二時四十三分ということは、まだ奈々恵は無事な時間だ。成功した。遼太郎はあの日に戻ることができている。
「ナナがどうかした? さっき叫んでたけど」
「今どこにいるんだろうって。図書館に行ってるんだよな」
「へえ、ナナからきいたの?」
「あぁ。連絡とってみてくれよ」
中川の表情がゆるみ、からかうように笑った。
「ほんとにどうしたの。不安になったの?」
「そう。だって田所は殺されてんだぞ」
遼太郎の言葉に、中川の表情が引き締まった。
「いや、理由はどうでもいいから早くしてくれ」
眉間に小さな皺を寄せながらも、中川はすぐにスマートフォンを取り出した。親指で画面を操作していたと思いきや、それを遼太郎に差し出した。
「ん?」
「ナナに掛けてる。自分で話しなよ」
まさかいきなり電話を掛けるとは思っていなかった。確かに画面を見ると、奈々恵を呼び出していることがわかる。そして、その画面もすぐに切り替わった。遼太郎は慌ててスマートフォンを耳に当てた。
「はーい、どうしたのぉー」
聞いたことのないような奈々恵の声に、遼太郎は自然と笑ってしまった。正直、嬉しかったのだ。
「お前、そんな声出すんだな」
「・・はあ!? リョウ?」
「そう、俺。今どこにいるんだ?」
「なんであんたなの。ハルの携帯だよね」
画面を確認しているような間があった。
「ちょっと話がある。そこから動くな」
「なんで命令されなきゃいけないのよ」
「いや、ごめん。頼むからそこにいて。金山にだけは行かないでくれ」
「・・・」
「聞いてる?」
「うん。リョウ、あんたなんで知ってるのよ」
「知ってるよ。お前のことは何でも知ってる」
目の前にいる中川が不思議な表情をしていた。様々な疑問が頭に浮んでいるような、ぎこちない笑顔だった。
「話って何よ。急ぎなわけ?」
「そうだ。今すぐ家に帰って欲しいけど、それも怖いから俺が行く。絶対に図書館から出るな」
「だから・・」
「動くなって言ってんだ。下手なマネしたら殺されるぞ」
「誰によ」
「犯人にだよ」
奈々恵の息を呑む音が聞こえた気がした。突然こんなことを言われたら、誰だって困惑して当然だ。
「・・リョウ、あんた何を知ってるの?」
「さあな。いいからたまには言うこときけ。絶対にそこから動くな。中川も一緒に行く」
中川が驚いた顔を見せた。遼太郎はスマートフォンを彼に返し、「お前からも言ってくれ」と念を押した。
「ナナ、ボクだけど。・・うん、なんかよくわからないけどそこにいて。遼太郎と一緒に行くから」
遼太郎の様子を伺うような視線を向け、中川は電話を切った。遼太郎は目の前のパスタが半分以上残っていることを確認しながら、伝票に手を伸ばした。
「行くぞ」
「え? まだ残ってるよ」
「そんなもん後でいくらでも食わしてやる。早く」
一方的に言い、遼太郎は立ち上がった。背後で中川がどんな表情をしているのか確認する間もなく、支払いへ向かった。
奈々恵の顔を目にしたとき、遼太郎はようやく肩の力を抜くことができた。自分がこれほどまで彼女のことを心配していたのかと実感させられる。とても本人に言うことなどできないが。
「で、私が犯人に殺されるってどういうこと?」
図書館のロビーを歩きながら奈々恵が訊く。周囲に子供がいないことが救いだった。
「田所は金山で殺されたんだぞ。お前もこの後行くつもりだったんだろ?」
「知ったような口きかないでよ」
そう言いながら、奈々恵は行く先の右手にある喫茶店を指さした。安心したことで空腹を思い出した遼太郎は、おとなしくそこへ向かうことにした。
「なんで金山に行こうと思った。事件の捜査でもする気だったのか?」
「さあね。特に考えてなかった。美希が殺されて、このままじゃ嫌だなとは思ったけれど」
「だからってほんとに行くな」
「行くって決めたわけじゃないし」
「まあまあ」
中川が二人の間を取り持つようにして喫茶店へ入った。
窓際の席に腰掛け、三人は飲み物を頼み、中川と遼太郎は先程の食事のリベンジを注文した。
「リョウ、本当は何か知ってるんでしょ? 美希を殺した犯人のメドがついてるとか?」
「いや、それはない」
「あんた自分がおかしなこと言ってるってわかってる? 美希のときだってそう。野田さんとかいう人が襲われたはずだって言うし、美希は公園にいたってことも。今度は私が殺されるとか、病院勧めようか?」
「やめろ。あのな、今まで秘密にしてたけど俺って天才なんだよ」
「いや、バカでしょ」
間髪入れずに言い捨てる奈々恵が悪魔に見えた。彼女のために遼太郎はここまで来たというのに。
「ホントのこと言うとな。―――俺、未来のことがわかるんだ」
「おまたせ致しました〜」
店員が三人の飲み物を運んできた。目の前にそれらを置かれながら、三人の視線は交わっていた。一人は真剣に、二人は軽蔑の眼差しだった。
「俺、未来のことがわかるんだ」
「二回も言わなくていいから。わたしたちのことバカにしてる?」
「してない。本気だからこんなこと言ってんだ」
二人には伝わらないだろう。遼太郎にだってそれはわかっている。だが、こうしてぶつけていくしかないのだ。真実を話せなくとも、逃げ出したくはない。
「・・自分が未来から来たって言う人がいたよね。海外の誰か忘れたけど」
突如、中川が口を開いた。
「ジョン・タイターのことね」
「そうそう。自分が未来の2036年から来たってインターネットに書き込みをした人」
「そいつは本物だったのか?」
二人は知っているようだが、遼太郎には初耳だった。
「何も証拠はないみたい。未来にはこんなことが起こるんだ、って言ってたけど、その内容に整合性が取れていないものも多いから」
「俺はジョン・タイターじゃねえぞ」
「わかってるわよ」
奈々恵から鋭い視線を受けた。ツッコミにしては愛情がなかった。
「でも、あんたが言ってるのはその人と同じようなこと。相手を納得させられるだけの証拠もないのに、自分だけはわかってる風なことを言う」
「もし本当に何か知っているなら、ボクたちにきちんと説明してよ。遼太郎が一人で抱え込んで解決できる問題なの?」
「いや・・」
「まぁ、わたしはリョウが嘘をついているとしか思ってないけれど。本当は事件に関与してるとかで、わたしたちには言えない秘密を抱えてる」
「当たらずとも遠からずってことにしとく」
遼太郎だって、どうすべきかわからないのだ。なぜか過去に戻る力が手に入り、今回が二回目。前回は田所を助け、今はこうして奈々恵を救っている。そんなことを伝えて、二人は信じるだろうか。現に、未来のことがわかるという嘘をついてみても、二人は信じようともしないのだ。
「わたしがこのまま家に帰って金山駅に行かなければ、事件に巻き込まれずに済むっていうのよね」
「そうだ。信じなくてもいいから言うこときいてくれ」
奈々恵と視線がぶつかる。彼女の心の内ではどんな言葉が浮んでいるのか。それはわからなくとも、遼太郎は譲るつもりなどなかった。
「いいわ。家にいてあげる。でもさ、そうなったら別の誰かが襲われたりするんじゃない?」
「どういうことだ?」
「だって、犯人は今日金山駅に行く。さすがにわたし個人を狙っていたとは思えないし、となると別の女性を狙うんじゃない?」
奈々恵の言葉を耳にし、遼太郎は自分がその可能性を考えていなかったことに驚いた。奈々恵を救うことで頭がいっぱいだったようだ。
「そうなる可能性は高いな」
「でしょ。リョウはそれでいいの? わたしが被害に遭わなければいいの?」
「いいよ」
迷いなくその言葉が出たことが、遼太郎は自分でも信じられなかった。
「お前が殺されなきゃ、俺はそれでいい」
誰も、何も言わなかった。中川は喜びの混じった顔で苦笑いをし、奈々恵ですら、目を見開いて固まっていた。
仕方ないのだ。これが遼太郎の本心だった。事件を解決できるとは思っていない。となれば、せめて身近な者だけは守りたかった。
「・・なにそれ。バカじゃないの」
「何とでも言え。その代わり、今日はもう家から出るな」
奈々恵は返事をせず、気まずさをごまかすように飲み物に手を伸ばした。
とりあえずは納得してもらえただろうか。遼太郎は中川がニヤニヤしていることから目を背けつつ、今日という日が無事に終わることを祈った。
その晩、中川が遼太郎たちの自宅へ泊まりにきた。ちょうど父親が学会発表で外泊することになっていたのだ。夕食は三人でお好み焼きを作り、酒を飲んで愚痴を言い合った。皆、現実逃避をしたがっていた。二日前には田所の遺体が発見されている。とても盛りあがる気分ではなかったが、そうでもしなければ耐えられなかった。二人は哀しみを癒すために、遼太郎は奈々恵の身を守るために。この時間さえ抜ければ、彼女が犯人に襲われることはない。
夜の十二時を回った頃、遼太郎の案で三人はリビングで布団を並べた。奈々恵は酷く嫌がったが、中川の「合宿みたいだね」という言葉に負けた。翌朝八時に目覚ましをかけ、三人はいつの間にか眠りに落ちていた。