「牛」
男は白と黒の境目に舌を這わせはじめた。
その奇怪な行動に息を飲むオーディエンス達。
「モ〜」
乳牛は初めての感覚に身を悶えながらはっきり、「モ〜」と鳴いた。
ホールの空気が止まる。
私は心の中でゆっくりと素数を数え始めた。
これ以外に、馬車馬のように脈打つ心臓の鼓動を止める術が思いつかなかった。
一瞬の間を置いてその均衡はやぶられた。
ゼンマイ人形のように止まっていた学者陣が息を吹き返したように弁論を始めた。
「馬鹿げてる」
「学会で何をやってるんだ」
「このサイコパスおやじ」
「逆少女漫画か」
怒号にも似た声が雷沼教授に浴びせかけられる。
それでも雷沼教授は舌の動きを止めなかった。
ゆっくりとその範囲を広げていき、牛の左側面で濡れていない部分はもうわずかとなってしまった。
「モ〜」
私にはわかった。
牛は感じている。
齢50を超えた白髪ジジイに舐められて、牛は感じている。
舐める側から舐められる側への転身。
牛にとってはとんでもない生命危機だったに違いない。
「いい加減にしろ」
「学会の恥さらし」
「逆金八先生か」
ホール中の怒りが雷沼教授と牛に注がれる。
もう、ダメだ。
止めに入ろう。
私が決心を固めたその瞬間、時が止まった。
「ちょっ、やめてください」
え?
「本当に、モウ、やめてください」
牛が、喋った。
「鳴いた」のではない、「喋った」
モウ、という発音に牛の残り香がある程度で、それ以外は人間と変わりはなかった。
ざわつき出す学者陣を尻目に、唾液で汚れた口元を拭きながら雷沼教授が正面を向いた。
「牛はある一定数の感度を超えた瞬間、喋ります。
・・・以上で東京大学動物生態学研究学会の発表を終わります。」
颯爽と白衣をひるがえし、教授は私の隣に着席した。
不安と興奮が入り混じる私の眼を見て教授はこう呟いた。
「大丈夫。明日から全てが変わる」
そのセリフをきっかけに、ホールが拍手の渦に包み込まれた。
割れんばかりの拍手の中で、壇上の牛だけが不自然に取り残されていた。
「モウ、帰ってもいいですか?」
完




