幼稚園年少生・遠足前編
かなり短くなってしまいました。
あとから編集で付け足す予定です。
遠足の日、朝五時に啓信幼稚園に集合である。時間をゆったり確保されているといっても、集合時間が早いのは教育の必要性からだと遠足の栞に書かれていた。
ちなみに遠足は二泊三日である。
一日目の昼食は各自用意するように書かれており、またこの遠足には保護者の同伴が求められていた。
そのため前日から楓が二人分の弁当を自ら作っていた。使用人に任せれば良いようなものだが、楓としてはそこは外せないものらしい。
そして今、幼稚園のビルの一室で子供たちは出発はいまかいまかと楽しみに待っていた。
それは正鳴も同じだった。気分的に高揚している。まともな行楽旅行は正吉時代にほぼしてないに等しい。それもあって非常期待していた。
「まさなり君、楽しそうだね。」
婚約者のななこにそういわれるのも無理はない。
「うん。初めて山中湖にいくからね。」
「わたしも初めてだよ。サクランボ狩りってどんなかんじなんだろう。」
サクランボ狩りをすることに保護者の一部が泥臭いことをすると批判していると正鳴は楓から聞いている。どうやら職種にたいする偏見が一部の上流階級にあるらしい。
正鳴からしてみればお金を稼ぐ手段の一つであるのだから、そこに貴賤があるわけではないと思う。国家元首の天皇家も必ず農業を行う公務を行っている。土に触れる事が産業の基礎だという事を示されているわけだが、土に触れる行為を否定するのはそれに対しての批判に当たるのではないかと思う。
日本の領土になって日が浅いといっても百年近くたちつつある朝鮮半島系の企業家にその傾向が強いらしい。どうも朝鮮民族は農民を最下層の存在として扱ってきた歴史があり、政治家を最上位に置いているので、職業蔑視が強いそうだ。
同化政策のおかげで文化の差はだんだんなくなってきている。しかし、その一方で、日本に対する反発のようなものを持っている人も少なくはない。
そういった勢力に対しては大日本帝国政府は厳しい。あちらの世界では政治弾圧扱いされるような行為も行っている。だがそれは国家が一つに纏まるためにはどうしても必要な事だろうと正鳴は思う。
あちらの世界の戦後日本が内憂外患を強く患った最大の原因が愛国心に対する強い拒絶反応を戦後教育で刷り込まれたことだと思う。
欧米のみならずアジア各国でも普通に教育に取り入れられている要素であるにもかかわらず、それイコール戦争と結び付けられてタブー視されていた。
国を愛することがなければ帰属意識も生まれず、公共観念も生まれない。そこにあるのは自分勝手で利己的な精神の持ち主になってしまう。
妬みや嫉み、僻みを全面に出すことすら容認されていた気がする。
生活保護者のエアコン問題から始まっているが、それだって自分より下にだれかを置いておきたいという僻みからきている。
障害者年金をもらっている障碍者が、苦労してためたお金で旅行したり、ブランド物の衣類を購入することに対しても批判があったりもしたが、その批判の根底には妬みの感情があったのは事実だ。
何も富める者、持つもの、高貴なるものが持たざる者に対してそのような感情を抱くのは公共観念がない証拠でもある。
むろん、年金や生活保護費は国が税金から出しているので湯水のごとく使い、働きもせず怠惰に過ごすのであればそれは許されないことだろう。だが、それに対して妬みを抱くのは間違っている。
富の寡占が必要とされるのは、そういった高等教育をうけた存在が国を動かす、あるいは経済を動かす歯車として必要不可欠だからだ。
だがそれもすぎるのは問題であるし、持たざる者、貧しき者が生まれるのもその必要性からの犠牲でもある。
それを勘違いして、自分より下の身分だ、なんだと言い立てるのは根本的に間違いである。
いまある経済の富のパイの大きさを維持あるいは発展させるのに寡占させた富を持っている存在が必要なのでそうなっているだけで、そのパイが十分に大ききればそこまで寡占を許す必要はないのである。
しかし、その事実から目をそらしている富裕層が多いのもまた現実だ。
特権意識というのは非常に厄介である実例でもある。
公共観念の欠如は国や国民に深刻な断絶をもたらす。
正鳴が思索に沈んでいる間、担任の川上教諭が教室に入ってきて、朝の会が始まった。
幼稚園のビルの前に横付けされたバスに正鳴と楓は乗り込んだ。その後ろには智子とななこの姿もある。
幼稚園の遠足のバスは幼稚園が所有しているバスだが、大型の観光バスだった。二階建てで、上の階がサロンのような配置になっている。
正鳴達は学級委員をやっている関係で二階のサロンが定位置と決められていた。そこで他の保護者や子供たちと話をすることになっている。
正直面倒だなと正鳴は思った。
そして予想通り、ほかの保護者から正鳴とななこの婚約についての当てこすりのような話題があった。
「此方では富田さんのお名前をあまり拝見することはないのですが、三井さんの関係されていたとは驚きですわ。」
そう言ってきたのは若干化粧の濃い婦人だった。わきに森岡和人がいた事から、森岡の母親だとわかった。
どうやらななこは三井家の傍流とはいえ本家と近いことから男性陣の結婚相手としては優良株とみなされていたことがわかる。
すこし考えればわかりそうなことだが、これからこのような当てこすりに毎回つきあわされるとなると正直気が滅入る。
「実は烏滸がましいですが、私としてはうちの英明にどうかとおもっておりましたの。」
そう言ったのは高田の母親だ。
しかし、その言葉に周りから反対の声が上がった。
「まあ!高田さんたら、ご冗談がすぎますわ。」
桔川雛乃という女子の母親だった。
「歴史ある三井さんには同じように歴史ある家の方がふさわしいですよ。新し方は新しい方どうしのほうが良縁となるでしょうし・・・・。歴史があるとなにかと柵もおおいですからね。」
その言葉に高田夫人が若干気分を悪くした様子だった。
「まあ!それなら富田さんはどうなのですの?」
その言葉に今まで微笑して黙っていた楓がくすっと笑い声をあげていった。
「富田家は廻船問屋として住友家とほとんど同時期に開業しておりますの。前田家の勘定所兼御用商人としてはそれより前から商売をはじめておりますからね。何分上方のことはあずまの方には伝わりにくいですからね。住友家の台帳にもうちの名前が残っているはずですよ。」
自分の母親の切り返しに唖然とした正鳴だった。意訳すれば『うちはきちんとした歴史がある家ですよ。』である。
考えてみれば楓はかつての大名家の毛利家の息女だ。幼稚園の受験のときの試験官の様子から社交界でそれなりに名が知られていた様子だ。この手の事はお手の物だろう。
しかし、あきらめが悪かったのが高田夫人だ。
「まあ!それは失礼いたしましたわ。歴史あるお宅なのですね。でもねぇ。やはり血筋がよくないといけませんでしょ?血筋がね?」
森岡夫人が渋い顔をした。どうやらうちの歴史を若干知っていたらしい。高田夫人の袖を引っ張っている。
あきれた様子でそれを見ていた智子が息を吐いた。智子は割とずばずばいう口であることは正鳴も分かっている。
「・・・うちのななこをごひいき下さるのは嬉しいのですけど・・・。富田家の始まりはみなさんご存知ですか?」
あ、相当頭にきてるなと正鳴は思った。息の継方がまずい・・・・。
「富田さんがおっしゃられないようなので。うちが代弁するのも烏滸がましいですが・・・。富田家の始まりは戦国大名の朝倉家の分家として名前を与えられた事からはじまります。その朝倉家はご存知の通り織田信長公に滅ぼされましたけど、朝倉家は孝徳天皇の皇子が日下部の名与えられ臣籍にくだり、平安時代末期に但馬国朝倉に居を移したときに朝倉に改姓したのが始まりです。」
説明が続く。
「日下部の名前の通り、日である天皇家の下の、部は姓名や家を表し、この場合は家ですね。滅ぼされた朝倉本家と違って難を逃れた富田家は、列記とした天皇家の末流です。うちは別に血筋で選んだわけじゃないですけどね。性格の問題かなぁ。」
最後のひとことが余計である。
楓が引き継ぐ。
「越中三大山城のひとつ守山城を築城し、そこの城主をしていた関係で浄土真宗門徒と関係がふこうございましたけど、その関係で寺にいて難を逃れたわけですがね。朝倉本家が滅ぼされて在野してたのを前田家に浄土宗門徒とのつなぎとして登用されたわけです。」
長くなるなと正鳴は思った。
「前田家が加賀と越中を平定するときに、浄土真宗門徒と年貢を取らない取り決めをしたのはその関係でですね。代わりに鉄砲の生産といざという時の戦力の提供、富田家がその分金子で財政に寄与する・・・これが前田家の貿易や勘定所のはじまりとなったわけですけどね。下地は朝倉氏時代の貿易からですけどね。その関係でうちの実家とも関係があったわけです。」
うちになぜ楓が嫁いできたのか疑問だった正鳴だったが、その言葉でようやく理解した。蝦夷地と呼ばれた北海道と越中こと富山県の伏木、それに山口県の下関、大阪府の堺を結ぶ菱垣廻船の航路がこの関係だ。
富田家は国内以外にも朝鮮半島や清、果てはロシア帝国とも貿易していたのだからほかにも関係はいろいろありそうではある。
最も森家による焼き討ちで氏寺の誕生寺が焼かれて商売台帳をほぼ失ったわけだから詳しいところは分からずじまいだろう。
こちらの世界でも幕末の混乱期に富田家と森家の前田家内での権力闘争で寺は焼かれているのだから数奇なものである。
あちらの世界では権力闘争に負けてお家取りつぶしの憂き目にあったわけだから、それから比べればましといえばましだが。
表向き、ロシア帝国の船が伏木に来航し、物資の補給と貿易を求めたことを幕府に内密にするため富田家を取りつぶしたことにされている。さらに建前的に幕府から富山藩への高山割譲を前田家本家の加賀藩に相談もなく進めたからだというのが理由にされてはいる。
実際は何のことはない権力闘争の結果である。勝てば官軍、負ければ賊軍の例である。
ただ、この時に向こうの世界で富田家がとりつぶされた結果、加賀藩・富山藩とも財源を失う結果になって、浄土真宗門徒との取り決めを破って年貢をとることになり、結果的に農家と武家双方の没落を生んでいる。
函館開拓の原因となるわけだ。
一方で富田家は取り決めが破られたことにより逆恨みされたりしたりもしたが、それ以上に森家が恨まれていたのは事実である。
ふとななこが正鳴の袖を引っ張ってきた。
「お母さんたちなんだかへん。」
「難しいお話してるね。」
「なんだかやだ。」
まさなりはウェストバッグから飴を取り出した。コーラの飴だ。
ななこに渡すとななこは肩をすくめて、それの袋を破って口に入れた。
「ぉぉきぃ・・・。」
確かに幼児の自分たちの口には大きな飴だった。
婚約者をごまかしているようでなんだか気分は悪いが、説明してもかえって気を悪くしそうで正鳴も肩をすくめるしかなかった。
あちらの世界の第二次大戦前後のアメリカ合衆国の対応をみてみよう。対ソビエト社会主義共和国連邦対策で日本へ財政支援を行いつつ、中国進出を狙っていた政府に対し、財政的支援を行っていたのがモルガン財閥、ロックフェラー財閥とイギリス系のロスチャイルド系財閥である。
日本からの満州引き渡しが満州事変で不可能になると、ロスチャイルド系はすぐに日本へのオイルの禁輸を働きかけた。しかし、オイルが財源の主であるロックフェラー財閥はこれに反発した。ライバルだったメロン財閥もこの時はロックフェラー財閥と同調している。日本への出資が一番大きかったモルガン財閥は見切りをつけてロスチャイルド系に同調した。
結果的に禁輸に踏み切られるわけだが、ここにロックフェラー財閥とロスチャイルド系財閥の対立の根源が生まれることになる。
もちろん、ロックフェラー財閥も満州の利権を得ることができず、満州への投資が焦げ付くことで日本へのいら立ちは高めていたが、満州の利権は取り返せると見ていた。
そして一方の日本はオイル禁輸を受けて南方作戦策定と太平洋戦争へ舵をきるわけでである。
此方の世界で日本が中国とシベリアの制圧に成功するのは、太平洋方面に振り向けている兵力をそちらに集中できたからともいえる。
あちらの世界ではアメリカ合衆国の信託統治領だったフィリピンの攻略で手こずってずいぶん被害を出したことからも断言できる。
此方の世界ではそのうえアメリカ合衆国は対ソビエト社会主義共和国連邦という対応において財政的支援を大日本帝国に継続していた。
使える戦力、財源が全然違うのである。アメリカ合衆国から石油の供給を受けていることも大きい。
フランス領インドシナへの対応も異なる。そちらに手を出したのはドイツがグレートブリテン島の制圧を完了したあとである。一時期、フランスの亡命政権が作られていたことからの影響でもある。
フランスのレジスタンス活動の制圧にドイツが手間取った影響もある。
イギリス領だったマレー半島シンガポール要塞の攻略での被害もないわけである。
一式陸上攻撃機によるイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈もこちらではないわけだ。
アメリカ合衆国主体のノルマンディ上陸作戦が行われなかった影響も大きい。
あちらの世界でアメリカ合衆国が対ドイツ戦に舵を切るのはイギリスへのV2号ロケットによる攻撃に危機をつのらせたイギリス系ロビーに押された結果だが、それに加えて国家社会主義労働者党ドイツとソビエト社会主義共和国連邦の戦争がソビエト社会主義共和国連邦勝利で終わったことが影響している。
一方こちらの世界ではドイツの辛勝である。
これはモスクワでの焼き討ちを代表とした焦土作戦がソビエト社会主義共和国連邦側が大日本帝国のシベリア進出で徹底的に行えなかったことも影響している。東西で攻められて補給線が寸断された影響だろう。
こちらの世界ではポーランドのアウシュヴィッツ収容所などのユダヤ人収容所にKGBよって持ち込まれた細菌兵器はペストの変異種だったらしい事も分かっている。
感染を止めるために隔離して見殺しにするしかなかったというドイツ人医師の報告もなされている。
もっとも早期の隔離で感染はそれほど広まらなかったとされる。
あちらの世界でのユダヤ人の虐殺の真実がこれならば、責められるべきはどこだろうか?歴史の重みが積み重なる。
浴室に見せて作られたガス室は入浴のあとに殺菌するためのものだったらしい。水回りの浴室の機能を戦後にソビエト社会主義共和国連邦の機関が排除する工作をしてから、施設を公開したらしい。
塩素ガスが使われたとされたが、実際は固体の塩素サラシ(次亜塩素酸カルシウム等)であり、あくまで入浴の前後であり、換気をよく行うだけでなく、石灰で中和してから入浴を行っていたそうだ。
ガス室としての機能はもともとなかった線が濃厚だ。
このあたりの記録も戦後にソビエト社会主義共和国連邦に改ざんされている。
虐殺の被害者とされる人物たちのDNA鑑定を行った結果、ユダヤ人のみならずドイツ人もかなり被害者にいたことがソビエト崩壊後の調査で分かっている。それに加えて共通して数種の病気の痕跡が見つかっている。これについてはアメリカ合衆国公文書図書館に記録があるそうだ。
歴史のドミノとは恐ろしいものである。