ガンジス川
早朝のガンジス川の岸辺を歩く。
まだ日の出が始まっていないにも関わらず、結構な人がいる。
ガンジス川に向かってお祈りをしているところを見ると、敬虔なヒンドゥー教の人々なのだろう。
僕は勿論そういう習慣がないのだけれど、できるだけ彼らの邪魔にならないよう進んだ。
ガートと呼ばれる沐浴所の一つに腰を下ろす。
メテムも隣に座り、お互い静かに日の出を待った。
しばらくしていると、ガンジス川の対岸からゆるやかに太陽が顔を出し始める。
少しずつ辺りの景色が赤く染まり始める。
悠久の時の流れを超えて存在し続けるガンジス川。
その前では僕たち旅人はとても小さく見えた。
「メテム」
僕は隣りに座っているメテムに話しかけた。
「ん?」
「ここはどう?」
「どうって? 探してる場所かどうかってこと?」
「うん」
「んー、不思議な力は感じるね。これが長年の人々の思いで構築されたものなのかはわからないけど、確かに惹かれるものはある」
「え、じゃあ」
「いや、違う。ここは私の場所ではないよ」
「やっぱそうか……」
「うん、ここはさ、もっと沢山の人の為にある場所なの。沢山の人に向けて開かれ、受け止める場所だと思う。まあでもニュアンス的にはこれに近いんだろうね、私の探している場所って。もっとパーソナルなガンジス川と言えば良いのかな」
「なるほど。見つかればいいねえ」
「そうだね、ゆっくり楽しんで探そう」
そう言うとまたメテムはガンジス川を眺め、どこか憂いのある表情へと戻っていった。
ガンジス川に来ようと思ったきっかけは、その得も言われぬ魅力にある。
どんな旅人に聞いても、一度だけは必ず行くべきと言われ続けてきたし、勿論僕自身もいつかは行くだろうとは思っていた。
それでいざ到着してみると、そのゆるやかに経過する時間に、僕は驚きを隠せなかった。
ここでは明日を気にする旅行者はいない。
全員がガンジス川に身を委ねて休んでいるのだ。
旅人が最後に行き着く場所、そう言われる所以が分かった気がする。
ガンジス川の岸辺には沐浴所であるガートが60個程並んでいる。
一つ一つ大きさは違うが、それぞれ川に向かって階段が出来ていて、そこを降りていって身を清めるというわけだ。
どのガートでもいつも体を洗っている人々がいる。
が、一つ注意をしなければない事がある。
それは、ガンジス川は確かにインドの人にとっては聖なる川だけれど、免疫のない僕のような日本人が沐浴をすると、かなりの確率で体調を崩すということだ。
ひどい場合だと1ヶ月近く入院するほど深刻な事態になることもあるとか。
だから大半の旅行者がそうであるように、僕も身を清めようかどうかには迷った。
一応、靴を脱ぎ、ズボンと上着も脱いで下着一枚にはなってはみたが。
「ユウキ、何してんだよ。早くザブーンって感じで入れって」
「そんな簡単に言わないでよ。どうしようか悩んでるの!」
後ろから囃すように声をかけるメテム。
さて、どうしようか。
沐浴したいのは山々なんだけれど、その後の体調が怖い。腰だけ浸かるだけでもお尻から雑菌が入るというし……。
悩んだ末に僕は足だけ浸かることにした。
これならば一応ガンジス川に入ったことになる。そう思って恐る恐る足をつけた。
ヌメッ。
ひんやりとした感触があった。
もう少しぬるいのだとばかり思っていたので意外だ。
だけどそれでいて少し変な粘っこい感じがある。
明らかに普通の川じゃない。
「ユウキ、なにそれ?」
後ろから呆れたようにメテムが声をかけた。
「え、いや、ほら、全部入るのは勇気がないから、ちょっと足首だけ浸かってみようかな、なんて……」
慌てて振り向いて言い訳をする。
「おまえねえ、それでも旅人か? 憧れの聖地に来たってのに、なんだよそれ」
「そう言わないでよ。ほら、ちょっと写真、写真撮ってくれる?」
メテムに頼む。
そうするとメテムはカバンをゴソゴソして何かを取り出した。
てっきりカメラだと思っていた僕は笑顔でポージングをした。
が、それはカメラではなく呪文書だった。
「え、え、どうしたの? ちょっと、なに、こんなとこでやめてよ?」
意味もなく焦る僕。しかし、次の瞬間メテムは僕に向けて何かの魔法を唱えた。
「……ムニョムニョ……テレキネシス」
あっと思う間もなく、僕の体は後ろにふっ飛ばされた。
ザッバーン。
ガンジス川に頭から突っ込む。
「……ッゲホッゲホ」
水から急いで顔を上げた僕の目の先には、ニヤニヤしているメテムがいた。
これはまずい。
大慌てでガートに向かった。
幸いなことに飛び込んだ先はまだ地面があり、落ち着いて立てば腰ほどしか水位がない。
でもその時の僕は焦ってるもんだから、地面がぬかるんでることもあってなかなか岸辺へ辿りつけない。
水を飲まないように極力注意しながら何とか上がった。
「メ、メ、メテム、流石にちょっと洒落にならないよ。水だって飲んじゃったし……」
「何情けないこと言ってんだ。ガンジス川で死ぬのが最高の名誉なんだろ?」
「それは旅人じゃなくてヒンドゥー教の人たちのこと! 病気になったらどうするのさ」
「まあもう過ぎた事クヨクヨしてもしょうがないだろ。ほら、そこ立てよ、写真撮るから」
「今更言われても……」
しょうがなくずぶ濡れの状態で僕は念願の写真を撮った。
まだ確認していないけれど、随分情けない顔をしているに違いない……。
こうして図らずともガンジス川の沐浴を済ませた僕は、真っ先にホテルに帰り今度はシャワーで体を清めるのだった……。
ガンジス川を体験した僕たちだが、時間はまだまだ十分ある。
その足で向かったのはヨガ、そしてアーユルヴェーダだ。
せっかくインドに来たのだから行かない手はない。
事前に調べていたお店に入り二人分の料金を支払う。
ヨガは一時間で一人300ルピー。
アーユルヴェーダは2時間で一人2500ルピーだった。
まずはヨガの教室に入り、シャツを着替え、準備をする。
バラナシ自体決して五月蝿い街ではなかったが、この部屋はさらに輪をかけて静かだった。
これならば集中できそうだ。
そうしてメテムと二人でレッスンを受ける。
まずは先生から呼吸法を学び、精神を落ち着かせる。
それからゆっくりと動きを真似ていく。
最初は胡座をかいて親指と中指で丸を作るというお決まりのポージングから入った。
この時点では十分余裕がある。
「……ユウキ、ユウキ」
「……なになに?」
「……このポーズ、何だか典型的で格好よくない?」
「……そうだね」
「……ちょっと、写真撮ってよ」
なんてやり取りをしていたら先生から怒られた。
ヨガというものは禅と同じく精神に重きをおいてるものだから当然といえば当然か。
それから少しずつポージングが難しくなってくる。
何やら心臓の位置を鑑みて左に重心を置いて~云々。
もともと体の硬い僕は途中からついていくことができなくなった。
メテムはと振り返ってみると、猫の様に柔らかいので上手くこなしている。
結局1時間の間、体がつりそうになりながら何とか耐えたところで終了となった。
先生曰く、最後まで頑張ったメテムは体の調子がこれから良くなるだろうとのことだった。
逆に体が硬すぎる僕は、もう少し日頃から運動を取り入れなさい、だって。
「キシシ」
メテムが僕を見ながら笑う。
やれやれ。
続いて部屋を変えてアーユルヴェーダを受けた。
ベッドが二人分並んでいたので仰向けになって横たわった。
そして頭上に丸い形をした金属の入れ物を吊るす。
底の蓋を外すと、それからポツンポツンと油が落ちてきて、ちょうど額に当たる様にセットされる。
その油を使ってひたすら頭のマッサージをされるわけだ。
これはこれでやってみると実に気持ちが良い。
油を大量に使って髪の毛やら何やらをダイナミックに揉まれるので、気づくとウツラウツラとしてしまう。
途中メテムを見ると、クークーと可愛い寝息をたてていた。
一時間ほどしてだろうか。
今度はうつ伏せになるように指示される。
それからまた油を使って今度は全身を揉まれる。
いや正確に言うと揉まれるというか、こねられるというのが正しいかな。
子供が泥をこねる感じ。
これもこれで初めての体験だが悪くなかった。
それからしっかり2時間程マッサージを受ける。
最後はシャワーを浴びて終了。
とてもよいリラクシング効果だった。
そうそう、ここらでちょっと美味しいグルメの情報も書いておこう。
その日お腹を空かせた僕たちは、ベンガリートラと呼ばれるメイン通りを歩いてお店を探した。
インド料理屋や洋食屋等が並ぶこの通りで、僕たちはスパイシーバイトというお店を選んだ。
決め手となったのは、名物料理と銘打ってるマッシュポテトだ。
マッシュポテトに目がない僕としては、まさかインドの片隅でこんな専門店に出会えるとは露にも思わず、見つけた時は文字通り飛び込むようにして入った。
注文したのは、オニオン・チーズ・マッシュポテト。
フライドオニオンがたっぷり入り、上にチーズをまぶしている代物で、もうこれが美味しいのなんのって。
かきこむようにしてあっという間に完食してしまった。
「おまえね、少しは、一口どうですか? とか聞かないの?」
そう非難するメテムをよそに、僕はすっかり大満足だった。
マッシュポテトでお腹が満たされたところで、ベンガリートラを歩いていると、今度はメテムが声を上げた。
「ユウキ、あそこ入ろう」
一つのお店を指す。
ソナズカフェと書かれた看板は、文字通りカフェのようだ。
「いいね、ちょうどコーヒーでも飲みたかったところだし」
そういう僕の返事を待たずに、さっさと中に入るメテム。
慌てて後を追うと、入り口で靴を脱ぐよう言われて、部屋へ案内された。
アジアンテイストの座敷のようで、なるほど、これなら寛げそうだ。
早速メニューを見てみると、どうやらここはカフェと言ってもラッシー専門店のようだ。
ありとあらゆるフルーツを乗せたラッシーの写真がある。
どれにしようか悩んでいたら、店員がきてオススメを教えてくれた。
どうやら杏とココナッツのラッシーが人気らしい。
特にこだわりはないので僕はそれにした。
メテムはパパイヤにしたようだ。
少しゆっくりと休んでいると、ラッシーが運ばれてきた。
陶器の器に入ったラッシーは並々に注がれ、上にフルーツとココナッツが色鮮やかに散りばめられていた。
「うわー、綺麗~」
思わずメテムが叫んだ。
本当にこういう時だけは可愛らしい顔をするんだから……。
そんな僕の気持ちを余所に、スプーンで食べ始める。
「んっんー、甘くておいしい~」
どうやら、なかなかにして当たりのようだ。
それではと僕も食べてみると、絶妙に冷やされたラッシーの酸味と、粉砂糖と果物の甘みが絶妙に合わさっていて、とても美味しい。
これで一杯40ルピーなんだから驚きだ。
同じものを日本で食べようとすると、多分10倍ぐらいするんじゃないかな。
それぐらいのレベルだ。
こうして僕たちはすっかり満足した。
さて、すっかりバラナシを満喫した僕たちだが、残念ながら幸せ気分だけでは終わらなかった。
それは……やはりガンジス川に飛び込んだせいで僕の体調が悪くなったのだ。
ホテルに帰って横になってると、妙にお腹が痛くなり、体が寒く、震えが止まらなくなった。
慌ててトイレに駆けこむも一向に良くならない。
「……ほら、だから言ったじゃないの……」
クラクラになりながら僕はメテムに非難がましい目を送った。しかし当のメテムはどこ吹く風だ。
「なるほどねー、やっぱダメなんだねえ」
なんていい加減な事を隣の部屋から言ってくる。
これは正直洒落にならないぞ。
入院あるいは帰国も考えなければ……。
そう思っていた矢先、メテムがバスルームに入ってきた。
「おい、ユウキ。大丈夫か?」
「……全然ダメ……」
死にそうになりながら答える。
そうするとメテムは、仕方ないなという感じで僕の頭に手を置いた。
「……モニョモニョ……キュアー」
メテムが声を発すると同時に僕の体が光に包まれる。
時間にして一秒程だろうか。
光は僕の体内へ収まるようにして消えていった。
すると、今までの痛みが嘘のように消えた。
「え、もしやこれ、治ったの?」
驚きを隠せず聞くと、得意そうな顔をしてメテムが言った。
「フフン、感謝しろよな」
「……いや、もうさ、こういうのが出来るんなら早めにしてもらえない?」
「いやほら、実際水飲んだらどうなるのか見てみたくてさ」
「結構洒落にならない状況だったんだけど……」
そう非難をしたのだけれど、すでにメテムは部屋へ戻っていった。
まあ体が良くなったのだから別にいいか。
すっかり調子を取り戻した僕は、ベッドに横たわり体を休めた。
旅人を魅了してやまないガンジス川。
確かに噂に違わぬものだった。
やれやれ、僕も虜になったかな。
ベッドで天井を見ながら僕はそう思った。