コンノートプレイス
最悪だ……。
僕は思わず天を仰いだ。
正直インドに来る前、沢山の人から様々な忠告を受けたが、僕は大丈夫だと思っていた。
海外渡航経験は十分あるし、何よりメテムという頼れるパートナーもいる。
多少のトラブルぐらいはものともしないだろう。
そう思っていた。
しかし、現実に今僕は絶望している。
ここまでのトラブルに合うとはとても考えていなかった。
本当にまさかここまでの……。
隣でケタケタと笑うメテムを横目に、僕はなすすべもなく立ち尽くしていた。
今日は一日デリーの中心街、コンノートプレイスを見学する予定だった。
天気もよく朝からでかけた僕らは、まず朝食にカフェでほうれん草とコーンのチーズパニーニ(90ルピー)を食べた。
インドといってもカレーばかりではなく、植民地時代の名残で洋食も豊富で美味しい。
特にパスタなんて種類は沢山あり味も見事なものだった。
これはインドに来て知った発見だ。
お腹が満たされた後はウィンドウショッピングを楽しむ。
といってもショーウィンドウを覗くのではなく、屋台で商品を物色する感じだけれど。
途中かっこいい指輪があって買おうか悩んだけれど、メテムがあまり良い顔をしてなかったのでやめた。
まあ150ルピーだったから買っても良かったなと今となっては思う。
それからインドと言えば外せないのが映画。
コンノートプレイスにも大きめな映画館があって、僕らは早速チケットを450ルピーで買って見てみることにした。
中に入るとインドの映画館のイメージを覆すようにしっかりした作りだ。
待合室は重厚で、ふかふかのソファーがあり、水は飲み放題。
これはなかなか侮れない。
肝心の映画はというと、残念ながらインド語のみの英語字幕が無しだったので、僕らには内容がほとんど分からなかった。
ジャンル的にはコメディだったようで、観客がゲラゲラと笑っていた。
時折ダンスが交じるのがやはり印象的だった。
結局一時間半見て、途中の小休憩の時間に僕たちは外へ出た。
すっかり満喫した僕たちは、ランチでも食べようかとコンノートプレイスの中心地を通って、前に見定めていたカレー屋へと向かうことにした。事件が起きたのはその道中での事だった……。
コンノートプレイス中心地はバザーのようなものが開かれている。
洋服を売る人や飲み物を売る人、マッサージ屋から大道芸人まで様々だ。
「メテムー、人が多いからはぐれないようにしないとね」
「分かってるよ。ちょっと待って待って」
そう言いながらメテムは僕の手を握りしめた。
態度に合わず、小ぶりでいつ見ても可愛い手だ。
しっかりと握り返し、僕は人をかき分けながら先導した。
「ユウキ、アレ見てよ。道端で家電売ってるぞ」
「うんうん、何でも売ってるね。ほら、人多いからよそ見しないでね」
「ちょっと、あの靴磨き屋見てよ。繁盛してるなあ」
「そうだね、そんなに磨いてもらいたい人いるなんて驚きだね」
これから大事件が起こるとも知らず、僕はメテムとそんなやり取りをしていた。
そしてコンノートプレイスの中心地を通りすぎようとしたその時だった。
ドンッ
僕の肩に急にぶつかって来て、そのまま駆け足で通り過ぎていった老人がいた。
同時に足元にヌチャっと嫌な感触が走る。
スリか! とすぐ思ったのだけれど、大切なモノは全部ポシェットに入れていて、特に腰に触られた形跡もない。
それならば一体どうしたんだ、と思ったら、足元に変な感覚がある。
もしや足でも刺されたか!
嫌な予感をしてすぐに足元に目を落とす。
すると……。
なんと、僕の靴が汚物まみれになっているではないか!!
そう、あの老人、すれ違いざまに僕の靴に牛の汚物を投げつけていったのだ。
もうこの時点で頭パニック状態。
なんで? 一体なんで靴に汚物を投げるの? 一体何がしたいの? 冗談だろ?
そんな事を思っていたら、ふと先ほどのメテムとのやり取りが頭をよぎった。
「ちょっと、あの靴磨き屋見てよ。繁盛してるなあ」
「そうだね、そんなに磨いてもらいたい人いるなんて驚きだね」
そうか、そういう事だったのか……。
汚物まみれの靴に絶望していると、メテムも気づいたようだ。
魔法で何とかしてくれるのかと思っていたが、どうやらそうではないみたいだ。
お腹を抑えてうずくまっている。
「っはっはっは、おまえ、一体何されてんだよ。一体全体何されてんだ?」
てっきり悲しんで泣いてるのかと思えば、そんな可愛いところあるわけもなく大爆笑だ。
こちらはあまりのショックで言葉が出ない。
「いやー、しかしあの爺さんやるなあ。まさか靴磨くためにうんこを投げるだなんて。こんなこと日本じゃ考えないぞ。あっはっは」
そういうメテムに僕は泣き出しそうに訴えた。
「メテム、爆笑中に申し訳ないんだけど、一刻も早く魔法でなんとかしてくれない?」
「ま、魔法で、何とかって、何とかってどうすんだよ。魔法でって、おまえ」
「いやほら、靴を綺麗にしてもらいたいんだって。クリーニングとか何とか言う魔法ない?」
「ないない。おまえさ、魔法を、便利な、何かと、勘違い、してないか?」
と、一々笑うもんだから、セリフも途切れ途切れになりながらメテムが答える。
僕はメテムの態度にムッとしながらも、必死で懇願を続ける。
「いやほら、こないだビリヤニ食べた時にやってくれたセーフティーとか使ってよ」
「いやいや、あれはそういう魔法じゃないから。うんこだけ靴から器用に退ける魔法じゃないから。うんこだけ、退ける。あっはっは。しかしこれは傑作だ。はっは」
と、もうまるでお話にならない。
さて本当にどうしよう、と思っていたところ、道ですれ違った人が靴磨き屋を指差した。
……はぁ、そうだよな、それしかないよな。
僕はもう完全に諦めた状態で靴磨き屋へと向かった。
靴磨き屋は中心部の至る所にある。
路上に座ってワックスやら何やらを地面に広げていて、ココらへんは日本とさほど代わりはない。
さて、なんて説明したらいいのかな、と思いながら近づくと、僕の靴を見るなり手を振ってきた。
もうこの手の事は慣れっこなのだろう。
いやおそらくさっきの老人とグルに違いない。
よっぽど怒鳴りつけようかと思ったけれど、ここで揉めてもろくな事にならない。
結局黙って洗ってもらうことにした。
ブラシでゴシゴシと表面をこすり、布で綺麗に拭いていく。
紐もきちんと洗って、最後はワックスで一丁上がり。
心情的には全然スッキリしないが、見た目的には十分マトモになったように思える。
ちなみに料金は20ルピー。
日本円にして40円。
はぁ……なんでそんな金額のためにわざわざ人の靴に汚物なんて投げるのか。
僕は未だもって理解し難いよ……。
すっかり気落ちした僕は、この場にいてまた投げつけられたらたまらないので、逃げるように帰路へとついたのだった……。
(メテム視点)
ショックを受けたユウキが足速に帰ろうとしている最中、コンノートプレイスの端で先ほどのじいさんを見かけた。
ユウキに一声かけようと思ったが、あいつ、私を置いてドンドン先に行ってる。
さて、どうするか。
しばらくじいさんを眺めていたが、何か様子がおかしい。
じっと一点を見て立ち止まっている。
そしてまた汚物を柄杓にいれだしたじゃないか。
おそらく次の獲物が見つかったのかね。
やれやれ、仕方ない。
ここは一人でユウキの仇討でもするか。
「……テレキネシス」
私は遠くから柄杓に魔法をかけた。
途端、柄杓が大きく動き、中身が全部老人に降りかかる。
「うぎゃーー」
大きな悲鳴がコンノートプレイスに響いた。
……これで少しは懲りればいいんだけど。
そう思うと自然に笑えてくる。
インドの世界は今日も広く、混沌としてる。
この雰囲気が、まさにインドなのかもな。
一頻り笑った後、ユウキの後を追った。