犬養首相(当時)黙示録
一九三二年、犬養剛首相(当時)は「話せば分かる」と主張し、当時クーデター中であった青年将校らと舌戦を繰り広げた。
これは当時毒舌で知られた犬養首相(当時)の、
「話せば誰でも分かるのに、お前らはこんな事も分かんねぇのwwwwwだっせぇwwwwwテラワロスwwwwww」
という煽りであり、よく分かってなかった陸大卒のエリートである青年将校らは自らの頭脳と皇国軍人としての誇りを懸けて、これに応じざるを得なかった。
プライド高いインテリの習性を利用した犬養首相(当時)の高度な交渉戦術だったわけである。
弁論合戦は一昼夜掛けて行われた。
犬養首相(当時)の対中融和路線と軍部の満洲国承認を求める意見が激突した。
この弁論大会に関して、当時首相官邸を張っていた新聞記者らが青年将校らの利用したルートを用い、官邸内へ無断侵入を果たし観戦した。
途中、各新聞本社へと連絡を繋ぎ、機材を持ち込んで両陣営の主張を詳細に記録した。
犬養首相(当時)も慶応儀塾卒のインテリであったため、インテリ対インテリの構図はウケると睨んだのである。
一部始終を記録した各新聞社らはこれを大きく取り上げ、聞き付けた知識人らは凄まじい舌論を巻き起こした犬養首相(当時)と青年将校らを絶賛し、世論はインテリ万歳へと傾いた。
このインテリ賛美はやがて大きな潮流となり、全国各地へと広がっていった。
インテリを目指していた全国受験生らは勿論、お父さんやお母さん、おじいちゃんおばあちゃんに犬や猫までもが大学への興味を示し、願書請求を行い、一時期全国から紙が不足する事態に陥った。
当時、照和恐慌の最中にあった大日本皇国は高橋之清大蔵大臣(当時)の金輸出再禁止、管理通貨制度や赤字国債の発行などの積極財政で不況を克服したかのように思われがちだが、実際は紙の需要上昇による製紙業と関連技術、それを支える重工業などの市場の異常な活性化によって乗り切ったところが大きい。
なお、募集要項発行は十一月以降なので、請求に対し送られたのは入学案内のみであった。
世論その他の煽りを受け、犬養内閣(当時)の支持率は爆発的に増加した。
余談だが、あまりの人気ぶりから同年十二月、「話せば分かる」が流行語大賞にノミネートされたほどであった。
人気は留まる事を知らず、犬養首相(当時)が何か発言する度に記者らが取り上げた。
挙句の果てに数々の政敵を作り上げた毒舌ですらウィットに富んでいると称賛し、こればかりは犬養首相(当時)本人も閉口した。
騒がしい世間に嫌気が差したのか、犬養首相(当時)は度々利用していた富士目高原の山荘に引きこもろうとするも、先回りしていた記者団らが行く手を阻み、取材を強行した。
先のクーデターより首相(当時)周りの警備を強化しすぎたことが原因と思われる。
犬養首相(当時)は引きこもりを断念し、警備をある程度緩めるよう指示を出した後、取材に応じたという。
また、この騒ぎを聞き、駆けつけた地元民らはこれを機に観光客の呼び込みを始めた。
犬養首相(当時)の別荘付近の山荘が賑わい、犬養まんじゅうが飛ぶように売れ、犬養せんべいが同量の紙幣に変わった。
第一次町おこしブームの到来である。
犬養首相(当時)の生家、母校、近くの駄菓子屋、消しゴムを買った文具店、慶応儀塾付近の食堂、行きつけのバー、漫遊先の土地などあちこちで宣伝が行われ、首相(当時)御用達の店舗が全国で無数に立ち誇った。
観光業界が大きく潤ったのを見るや、それに追随する形で各生産業も広告に力を入れ始めた。
首相(当時)の使用するものと同型の鉛筆、万年筆、毛筆やインクに注文が殺到し、お気に入りの箸やナイフ、フォークにスプーンがデパートの目立つ箇所に配置された。会社に出れば社員全員が同じスーツ、ワイシャツ、革靴にネクタイでいる光景が度々見られた。
まさに、犬養ブランドが一世を風靡した瞬間である。
しかし各生産業が大きく販売数を伸ばす一方、学習帳や和紙、作文用紙などの製紙業界だけは臍を噛む思いであった。先の紙不足の影響から未だ脱し切れておらず、売れると分かっているのに手元に商品がない状態が続いたのだ。
同年五月六日、犬養首相(当時)に正二位・勲一等旭桐花大綬章が皇帝より授けられた。
内閣総理大臣の優れた政策統治に対するものと当時の官報に記載されたが、実際の所は国民全員が知り得ていた。
皇国の平和な日々が続いた。
国内のあらゆる産業が充実し、消費者の需要は高い水準を保っていた。
人々は前を向き、インテリを目指して努力を重ねた。
同年五月一五日は曇りひとつなく、よく晴れた日曜日だった。
犬養首相(当時)は総理官邸でゆっくりとした休日を過ごしていた。
夫人、秘書官、護衛らも外出しており、騒がしい記者もいない。
犬養首相(当時)は当時往診に来ていた医者に鼻の治療を受けていた。体に一切の異常もなく、犬養首相(当時)は担当医に、
「体中調べてどこも異常なしじゃ。あと百年は生きられそうじゃわい」
と言った。
夕方五時半頃。警備が手薄の中、青年将校ら一団が、ピストルをふりかざして官邸内に乱入してきた。
陸大卒のエリート達である。
犬養首相(当時)は慌てたそぶりを見せず、将校たちを応接室に案内した。
犬養首相(当時)は「話せば分かる」と、先で用いたのと同じ手法で交渉を試みるも、前述の弁論でよく分かっていた陸大卒のエリートである青年将校らは、これ以上は時間の無駄であると判断し犬養首相(当時)を射殺した。
インテリの過度な合理的思考を理解し損ねた犬養首相(当時)の失敗であったと言われている。これがのちに言う五・一五事件である。
犬養首相(当時)が煽り過ぎたのではないかという学説も存在する。
また、流行語大賞については、不謹慎であるという理由から却下された。
むしゃくしゃしてやった。
あらかじめ断わっておきますが、作者の好きな政治家は犬養毅です。
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