第三話:不覚
駐車場の中央に現れた炎の塊は、誰もがよく知っている動物の姿をかたどる。
「い、犬……?」
耳に届いた自分の声は、酷く強張っている。そのことに気付いて、朱鳥は表情を引きつらせた。
魂の存在である焔魔は、生前の姿に酷似した姿で現れる。
今回の発火事件の焔魔は、犬の姿をしていた。大人の中型犬くらいの大きさはありそうだ。まとう炎の大きさを見る限り、そんなに大物というわけではない。ないのだけど。
「……怖っ」
牙を剥き出しにして低く唸られたら、さすがに恐怖を感じる。よだれのかわりか、牙の隙間からぼたぼたと零れ落ちる炎が朱鳥の恐怖感をさらに増幅させる。
特に犬嫌いなわけではないが、犬に対してトラウマを抱いてしまいそうなほどの迫力だ。
焔魔はまっすぐに朱鳥を睨み付けていた。いや、正確には朱鳥の持つ剣を。これに焔魔を打ち滅ぼす力があると本能的に感じているに違いない。
周囲は焔魔の放つ殺気で満ちている。自分の目的の邪魔をするなと、その瞳が語っている。その痛いほどの気配に、朱鳥は我知らず息を呑んだ。
この日の為に訓練を積み重ねてきた訳だが、やはり訓練と実戦は違うのだと痛感してしまう。
恐怖で動けないということはないけれど、確実に萎縮してしまっている実感はある。
焔魔が、体勢を低くした。飛び掛ってくるつもりだ。
朱鳥は小さく深呼吸をして、落ち着けと心の中で繰り返した。視線は、焔魔から外さない。隙を見せれば、一瞬で殺されてしまう。そう判断できる程度には、まだ冷静だった。
焔魔の炎に包まれた足が地面を蹴ったと同時に、朱鳥は全力で地面を蹴ってその場から真横に飛び退く。朱鳥が今までいた場所を駆け抜けていく炎の塊に、朱鳥は冷や汗を流した。
全く動けないわけではないが、やはり緊張と恐怖のせいか動きが鈍い。動きに注意さえ払っていれば、攻撃をかわし続けることは可能だろう。けれどそれにだって限界はあるし、そもそもそれでは仕事にならない。
攻撃に移る必要があるのは分かっているが、今の朱鳥が近づいても攻撃を当てることはきっと難しい。
「ど、どうしよう……」
冷や汗をかきつつ、剣を握りなおした。その時だった。
「……おいおい、大丈夫かよ」
そんな言葉とともに、青年が朱鳥の目の前に降り立ったのは。
空から降ってきたとしか思えない登場の仕方をした青年は、朱鳥を軽く振り返ると、笑った。
「この程度の相手に苦戦してるようじゃ、先が思いやられるぜ? 新米焔薙ぎさん?」
軽い口調とともにそう言う青年を、朱鳥はまじまじと見つめる。
一般人を巻き込むなど論外だが、今のセリフから考えてこの青年も焔薙ぎに違いない。けれど、この地区を担当する焔薙ぎは朱鳥一人のはずだ。
「う、うるさいわねっ! 何なのよ、あんた!」
「俺? 焔薙ぎ」
「分かってるわよ、そんなこと! あたしが聞いてるのはそういうことじゃない!」
朱鳥の叫びと被るように、焔魔の低い唸り声が響く。朱鳥ははっと我に返った。
「おいおい、相手から注意をそらしちゃダメだぜ? 焔薙ぎの基本だろ?」
「だ、誰のせいよっ! もう、邪魔しないでっ!」
焔魔から注意を逸らした自分が悪いのは分かっているが、飄々とした青年の調子に腹が立って朱鳥は剣を握りなおしつつ怒鳴った。しかし。
「いや、俺も大丈夫そうなら邪魔するつもりはなかったんだけどさ。気が変わったっつーか、見てられなかったっつーか。……見せてやるよ、焔薙ぎの仕方」
軽くそう言った青年のまとう空気が、一瞬で変わる。瞬時に変化したその空気に、朱鳥は小さく息を呑んだ。そして、それは焔魔も同じなのだろう。警戒するように青年を睨みつけ、低く唸った。その身体から炎が立ち上る。
「ちょっと……! まずいわよ、これぇぇぇっ!」
焦って声を上げる朱鳥に、しかし青年は小さく口の端を上げただけだ。
そして焔魔から炎が放たれる、瞬間。
「紅蓮っ!」
青年の声に応じて、炎の塊が焔魔につっこんだ。その正体を知った朱鳥は目を見開く。
「焔魔が……もう一匹!?」
「俺の契約してる焔魔」
さらりと青年が言った言葉は、朱鳥を驚愕させるのに十分な威力を持っていた。
「焔魔と契約!? ……もしかして、安曇さんの!?」
焔薙ぎの中に、焔魔と契約を交わし焔魔を使役する焔薙ぎがいる。安曇とは最強と謳われているその焔薙ぎの名前だ。
青年は小さく笑っただけだった。
「紅蓮、動きを封じろ」
「承知いたしたっ!」
青年の指示に返った声に、朱鳥は本日何度目か分からない驚きを味わった。
「しゃべるし!」
「まー普通は焔魔はしゃべらないわな。……さて、行くぜ?」
青年が、地面を蹴る。見たところ何も武器を持っている様子はない。どうするのだろう、と朱鳥が疑問に思った瞬間。不自然に風が吹いた。
同時に、青年が高く跳躍する。二階の屋根くらいなら簡単に飛び乗れそうなほど、高く。
「えええっ!?」
風と高さと万有引力の法則を引っさげた見事な蹴りが、犬の焔魔の頭に見事に決まり、紅い炎が白く変化する。
朱鳥も初めて見る、焔魔の魂が打ち滅ぼされる瞬間だ。
「……っと、まあこんなもんかな」
何でもない様子で着地した青年が、やはり何でもない様子でそう呟く。大鷲の焔魔が無言でその場から飛び立った。
あまりにあっさりとした焔薙ぎに、朱鳥は呆然とするしかない。
「じゃあなー。次からはしっかりやれよー」
そう言い残して青年は再び跳躍し、朱鳥の前から姿を消す。
「……つぎ?」
事態についていけずにぼんやりと青年を見送った朱鳥は小さく首を傾げ、青年の言葉を反芻し――重要な事に気付いた。
「ああああああっ!? あたしの初仕事がっ! 初手柄がぁぁぁぁっ!!」
朱鳥は思わず頭を抱える。
「あの男に横取りされたぁぁぁぁぁっ!」
深夜の駐車場に、朱鳥の叫びがむなしく響いた。