無意味な心を持つ人形
1
さて、今回の僕はなんとも不細工な腹話術の人形に宿ってしまった。
背丈は三十センチほどで、古臭い青のオーバーオールを着ている。馬鹿みたいに両頬が真っ赤で、手動により目と口を動かせる。性別は男のようだ。僕の存在する場所は日本なのに、髪色はなぜか金髪。子供を象った人形らしい。
この世には何千万、何億という、数え切れない人形やぬいぐるみが在る。おかっぱ頭で薄気味悪い笑みを浮かべる市松人形、モデル体系で全員同じ名前の美少女人形、芸者風の人形、メイドの服を着たフィギュア、熊のぬいぐるみ、アニメキャラのフィギュアやぬいぐるみなどなど。そのなかには幸か不幸か、なんらかの作用で心を宿してしまう者がいる。新しい心として出現した者もいれば、前世がちょんまげの博多人形からパンチラと巨乳を兼ね備えた萌え系フィギュアに成り代わったやつもいる。僕の前世は三味線を持った綺麗な芸者の人形だった。手は動かないので三味線は弾けなかった。ガラスのケースに入れられて、物置の片隅で埃を被っていた。最終的には物置のスペースを確保したい持ち主が僕を供養するため神社に持っていって、宮司が適当な読経を上げた後、僕は見事に炎上した。別に苦痛ではなかった。温度というものは一切感じられないのだから。所詮僕らは体温を発さず生理作用を営まない無機的な人形に過ぎない。燃えていく間は、次はどんな物体に自分が宿るのかと考えていた。
勝手な決め付けとなるが、心を持つ人形やぬいぐるみというのは、不幸だと思う。大切にされるされないというのは関係なしに、心を持った時点ですでに不幸。人間が情の湧くようなモノとして造形した物体の中で、未来永劫を囚われの心として過ごす。稀に、奇跡的に動くことのできるやつも居るが、悲しいことにそういったやつほど呪いの人形などと勝手な解釈で忌み嫌われて、仲間たちが無数に集まる神社へと「供養」という言い訳によって厄介払いされる。僕はそういうやつを同情する。
そもそもなぜ、人形やぬいぐるみが心を宿すようになったのか。僕にはわからない。人間もそうだろう、どうしてそこに居るのかなんてわからないはず。多分理由なんてない。世界が奇跡的な偶然で出現したことと同じ。僕の心も、途方もない奇跡の産物なのだろう。
僕は腹話術の人形だが、なぜかいつもベッドに居た。僕の持ち主は腹話術師ではなく小さな女の子で、僕は喋らされる人形なのにも拘わらず、常に彼女が喋りかけていた。
「ねえタクヤ、どうしてお父さんとお母さんは喧嘩ばかりするんだろう……」
僕はタクヤという名前になっているらしい。どうみても日本人の子供を象ったものではないが、それを僕が理解していてもどうしようもなかった。
遠くの方では男女の罵声が聞こえる。この家は壁が薄いせいか、会話が筒抜けだった。この家の人間は不仲で、生気溢れる力強い罵り合いがよく飛び交っている。最終的には力でねじ伏せるDV夫と、一生懸命些細な抵抗を示す妻。それと僕の持ち主である女の子の三人家族。昔は女の子の四つ年上の兄も住んでいた。兄は女の子と同じ腹から生まれた子だが、父親が違う。この家の妻は離婚経験があり、兄は最初に結婚した旦那との子供だった。妻は自分で育てると言って元旦那からかなり強引に親権を勝ち取ったのだが、後に現旦那と結婚して同居を始めると、夫との血の繋がりがない息子は邪魔な存在となってしまった。最初のうちは現旦那も兄に優しかったのだが、そもそも自分の子ではないので、女の子が生まれると疎ましくなり、堂々と暴力的な態度で接していた。状況を知った前旦那が親権を奪い返し、兄は去っていった。
元々、僕は兄の所持品だった。偽善的に優しい態度を取っていたころの現旦那が誕生日プレゼントに買い与えたのが僕だった。けれど僕は兄に大切にはされず、かなり暴力的に扱われていたなあということをいまでもぼんやり覚えている。現旦那に痛めつけられた結果、兄のぶつけられぬ憤りが僕に向いたのだろう。別に僕は体温も痛みも感じない無機物の人形なのだから、どうでもよかった。腕を持って兄に振り回されているときも、逆に、超高速で世界がぐるぐると回っていることが楽しかった。思いきり壁に投げつけられても、一瞬だけ空間を舞えることが嬉しかった。壁に激突したってなんの痛みもない。僕の身体が傷つくことよりも、兄の憎しみがちょっとは晴れたかなあ、ということをいつも気にかけていた。
女の子は僕が暴力的に扱われていることを知って、兄から僕を必死に奪い取ろうとしていた。兄は一応、お母さんと実の父親から愛情を受けていたので、その甲斐もあってか女の子に暴力を振るうことはなかった。女の子に持っていかれた僕は夜になるとこっそり兄が持ち出して、現旦那にされた暴力の数だけボコボコに殴りつけられていた。その度に僕はダンスを踊っているような気分になるので愉快だった。
後に兄は実父に引き取られ、女の子が僕を欲しがったので、兄は僕をあげた。
現旦那はもしかしたら血の繋がっていない兄でストレスを解消していたのかもしれない。兄が居なくなってからは酒に溺れるようになった。すると酒乱になり、結果的によく暴れた。現旦那は兄という人間サンドバッグにストレスをぶつけてバランスを保っていた。それを失ったことで均衡は崩れ、旦那が会社で受けるストレスの捌け口は妻と女の子にも向いた。毎日暴れ狂っているわけではない。機嫌のいいときは別人かと思うほど家族に優しかった。機嫌が悪いときは、まるで力を兼ね備えた子供のように家族に当り散らしていた。旦那の育った家庭環境のことなんてよく知らないが、生きてきた環境の中で人間としての器を拡げられなかったのだと思う。
というわけで、この家は喧嘩が絶えない家庭となったのだった。事細かい状況や心理、背景を推し量れない幼い女の子は、ただ仲が悪い家族、という見方しかできなかった。女の子が納得するまで僕がなにもかもを説明してあげたいのだけど、残念ながら僕の口は手動でしか動かないし、そもそも僕の思考を語ることはできないのでどうしようもなかった。女の子は、どうして、どうして、と毎日のように僕に愚痴などを零した。話しかけられるのはいいのだけど、毎日同じ話をされてもつまらない。できれば兄のように僕を振り回して壁に投げ飛ばし、時にはボコボコに殴りつけてダンスを踊らせてほしかったのだが、心優しい女の子はそういうことをしてくれなかった。ただ僕を抱きしめて、頭を撫で、喋りかけ、夜になると添い寝をするだけだった。腹話術の人形として一切機能もしない。
これから先、果てしなく退屈で怠惰な日々を送るのかと思うとゾッとしてしまう。ゾッとしたところで僕は心以外に表現を持てぬ無機的な人形なので、どうしようもなかった。
2
女の子が学校で虐められるようになった。小学四年生のことだった。
女の子は感情を制御できぬ起伏の激しい子となっていた。安定した両親の愛情を受けてこられなかったから仕方がない。代わりに僕が安定した愛情で女の子に接してあげたいと常日頃思っていたのだが、心を外部に吐き出せず動きで表現できない僕にはどうしようもなかった。
女の子は周りの子と反りが合わないらしい。いつしか避けられるようになって、孤立してしまったのだという。客観的な見方でいえば女の子の容貌は十人並みなので、外見は虐められている原因ではない。だが女の子は男の子からも攻撃的な虐めを受けるらしく、ブスとかキモイなどと言われることが多々あるのだという。兄がそうだったように、あの時期の男の子はやたらと敵を作りたがる。周りの女子たちが虐めるので女の子は格好の的になっただけ。
虐められる根本というのは、虐めを受ける当人の心の在り方が周りに理解されないだけだ。仮に容姿が悪くても、心の在り方でいくらでもカバーできるが、生きてきた過程の中で心の在り方を身につけられずに周りとどう接したらいいのかわからず、当人は反発して生意気な態度を取ったり黙り込んだりする。結果として敵視されやすくなり、虐められてしまう。
問題は、当人だけでもなく相手側を含む双方の心の在り方であって、女の子もそれを理解していたのだが、醜女扱いをされ続けた結果、女の子の自画は醜く歪んでしまい、いつしか自分が不細工なせいで虐められるんだと思うようになっていった。個人的な見解で言わせてもらえば、僕は女の子を可愛いと思う。思っても口に出せないのでどうしようもないけれど。クラスに僕みたいな理解者が傍に居れば女の子の状況を変えられるのだが、残念ながらいないようだ。僕が生徒となって常に女の子の傍に居てあげたいとも思うけれど、思ったところでやはり僕は物言えぬただの人形に過ぎないので、どうしようもなかった。いくら女の子がひっそりと泣いて僕に擦り寄り、抱きしめて撫でたとしても、愛情を返してあげられない。いくら打ち明けられても言葉を返せない。僕にできることといえば、頭上の存在に女の子を幸せにしてくださいとなんとなく祈ることぐらいなのだが、そういうものの大概はまず叶うことがないものだ。もし願いというものが叶う仕組みがあったとしたら、世界は呪いの人形や呪いのぬいぐるみだらけになると思うし、人々から恨まれて敵視されている人間がいつまでも生存していられるはずもない。誰もが豊かに過ごせるようになっているだろうし、児童虐待が年々右肩上がりにはならない。つまり、心に願うだけでは物事はほぼ叶わない、ということだと思う。それを知れても僕には公言や実行ができないのだから、ものの見事にどうしようもなかった。女の子は誰にも甘えられず、淋しさを募らせる一方だった。
3
女の子が中学生になるとようやく両親が離婚した。もっと早く別れていてもよかったと僕は思う。女の子は不仲な両親を目の当たりにし続けずに済んだのに。もっと小さなころから母親と二人きりでつつましく愛情を受けながら育っていたら、ちょっとは心が安定していたと思う。このころになるともう人格形成の大半が完了しているので、いまさら女の子の基本的人格はあまり変更が利かない。先の人生で女の子は苦労が絶えなくなるだろう。
母親と女の子は違う土地に引っ越していった。住んでいた場所から八十キロ以上離れた所の、2DKの賃貸マンションに移り住んだ。家賃は六万八千円。七階建てで、住む部屋は四階。女の子はちゃんと僕を連れていってくれた。
離婚の決定的な理由は旦那が他の女性を妊娠させたことだった。旦那がそっちの女性と暮らしたいということだったので別れることとなった。元々が不仲だったので、女の子は二人がいつか別れることになると思っていた。思っていたのだけど、両親が離れ離れになったことに関しては悲しみを抱き、夜は僕の前で泣いていた。女の子の涙は僕のオーバーオールによく染みを作った。女の子は父親の浮気について理解していたし、父親を憎みもしていたが、それでも親の離婚というものに悲愴を感じた。僕はそれに関してだけ理解できない。理解してもしなくてもなにもできないただの人形なので意味はないのだが。
母親は働きに出て、女の子は独りで居る時間が多くなった。すると、もう自然の摂理といえるのだろうが、女の子は男を家に引き込むようになった。
こちらに移り住んで数ヶ月後、女の子は同じマンションのエレベーターで一緒になった、三階に住む十七歳の高校生のことが好きになり、告白しようか僕に相談していた。エレベーターで一緒になったからといって、会話は交わしていないらしく、時々鉢合わせることがあっても話をすることはない。こういった、淋しさを抱える女の子というのは妄想に耽るか恋愛に突っ走る傾向にある。優しくしてくれそうな誰かに惚れっぽくなり、はまると抜け出せなくなる。依存してしまう。果てしない時を過ごして様々な人間たちを見てきた僕はそういうことをよく知っていた。知っていたところでなんの意味もないが。
その高校生は茶髪でピアスをしていて、私服のときはかなりファッションに気を遣っているということをよく聞かされていた。あまりにも外見に気を遣いすぎている相手はよしたほうがいい、というのが僕の持論だ。そういう相手は最初のうちだけ面が良く、だんだんと磨かれていない薄汚れた内面が浮き彫りになってくる。だが一度も恋をしていなくて、更に育ってきた家庭環境が複雑な女の子にとって、そういった相手は光り輝いて見えるものらしい。遊ばれて飽きたら捨てられるのが目に見えていたが、女の子は勇気を出して告白してしまった。そうして高校生はよく家にやってきて、僕の目の前で猿のようにヤっていた。
男は絵に描いたようなナルシストだった。実際のところ、男の容貌は十人並み以下だったのだが、恋の盲目に入った女の子は男の並べる薄っぺらい言葉のなにもかもに魅了され、日毎に男への恋愛感情を強くしていった。本当は日毎に内面の粗さが際立つようになっていたのだが、女の子には欠点が一切見えていなかった。男の疵を詳細に教えてあげたかったのだが、僕には傍観し続けることしかできない。
男は明らかに女の子を愛していなかった。お前は俺のための存在だ、だから俺がお前を愛する必要性はない、というような感じだった。釣った魚に一切エサを与えないタイプなのだが、女の子は一緒に居られるだけで充足していた。たとえ男に非があることでも、男は女の子に原因を押し付けて反省させた。多分、男は家庭内で全く重宝されてこなかったのだろう。歪んだ願望が膨れ上がった結果、傲慢な性格になっている、と僕が推し量ったところで、結局影響は与えられないのだから無意味なのだけど。
五ヵ月後に二人は別れた。お前はガキだしつまらない女だから飽きた、と男は言った。別れるころには他に付き合っている女がいたらしい。女の子はつまらなくて不細工な自分をとことん責めながら泣きじゃくった。全くもって彼女に非はないし、顔は十人並みで僕は君のことを誰よりも可愛いと思うよ、と伝えたかったのだが、僕のオーバーオールが女の子の涙で濡れる一方だった。
これを機に女の子は変貌した。どちらかというと、間違った方向に。
僕と同じような金髪になり、ピアスをして、男のようにファッションに気を遣うようになった。つまらない女だと言われない努力を重ねるようになった。結果、ダサイ僕は女の子の部屋の、押入れの中に仕舞われた。
4
それから長い間、女の子がどんな人生を辿ったのか、僕にはわからなかった。僕に一切喋りかけることがなくなったし、女の子は母親ともあまり言葉を交わさなかったようだった。家の中で女の子の声はあまりしなかった。たまに声が聞こえるかと思えば、それは部屋に連れ込んだ男と愛を囁く声だった。
押入れは時折開けられた。その度に高そうな服やバッグなどが放り込まれたので、女の子がどんな人生を送っているかなんとなく想像することはできた。押入れが開いて僕と目が合う度、女の子の瞳は冷たさを増していた。そして押入れが開く度、女の子は女の子と呼べない容姿になっていった。大人びていった。僕にとっては押入れが開くことだけが唯一の娯楽となっていた。おそらく湿っぽいこの暗闇に光が射すたび、今日はなにが投げ込まれるのか、女の子はどんな姿をしているのか、ということを楽しみにして過ごしていた。時に女の子はやつれ、時に肉付きがよくなっていた。かなり精神が不安定のようだ。過食と拒食をいったりきたりしているのかなあ、と、僕は押入れの中で想像した。闇の中に女の子のしている行為や女の子の容姿を思い浮かべた。だがいつしか僕は女の子が投げ込む物の中に埋もれて、光や女の子の姿を見ることすらできなくなった。物を退かしてほしい、できることならまたベッドに置いて欲しいと切に思っていたのだが、思ったところでどうしようもない。動けない、口にもできない。だから伝えられない。もし僕が有機物なら、女の子の心に寄り添い、支え、変わらぬ愛で接し続けて、不安定な精神を安定させてあげたい。と、思う。
思ったところでやはりどうしようもない。なので仕方なく、有って無いような頭上の存在に僕と女の子の状況が変わることを願い続けた。
5
どれだけの歳月が流れただろう。一切ものを見られぬ状況というのは苦痛でしかない。だから人形に心があるのは不幸だと僕は思う。人形やぬいぐるみというのは最終的に飽きられて、当人にとって見えない空間に追いやられる運命にあるのだから。もし心を宿したのが神の仕業とでもいうのなら、その神というのは頭の悪い性根の腐った空気の読めない最低の下衆野郎だと思う。そんなはずはないので、やはり僕らの心が生まれたのは天文学的な偶然の産物だろう。
押入れ生活は唐突に終わりを迎えた。物が投げ込まれ続けていたのに、物が段々と減っていくようになった。女の子が次のステップに移ったのだろう。僕の上に載っていた服が持っていかれた瞬間、ついに待ち望んでいた光が射した。もし僕の口が自らの意志で動き、なおかつ言葉を発せられたなら、僕は「ヒャッホォォォォォォ!」と叫んでいたことだろう。手が動いたなら万歳をしただろう。脚が動いたなら、押入れから飛び出して走り回ったことだろう。そもそもそんなことができるのなら自分からここを出ていくのだが。
視界には、見たこともない女性の姿が飛び込んできた。一瞬誰なのかわからなかったが、彼女が僕を見て「あ、タクヤ!」と笑みを浮かべながら声をあげ、あの女の子だということがわかった。金髪だったミディアムヘアは落ち着いたブラウンのロングヘアになっており、メイクにより彼女はかなりの美人に変貌していた。雰囲気が格段に大人になっていた。
彼女は僕を押入れから引っ張り出して、懐かしんでくれた。彼女は半袖を着ていて、左腕にはいくつもの古傷がついていた。彼女のような人生を送った女の子にはよくあることなので、僕は特別驚くこともなかった。それ以前に驚きを表現することもできないのだけど。
彼女は僕を押入れに入れたことすら忘れていたようだ。そんなふうに扱われるのは慣れていた。彼女は僕の身体に手を突っ込み、目と口を動かして、そこで初めて僕が腹話術の人形だということに気づいた。適当に台詞をつけて喋らされた。十分くらいすると飽きて、僕は部屋の片隅に放置された。
それから、彼女は忙しそうに部屋の中を歩き回った。ダンボール箱が僕の周囲を埋め尽くしていき、部屋の物がどんどんなくなっていった。賢い僕は彼女がなにをしているか察した。
彼女と母親のやりとりでわかったことなのだが、彼女だけが引越しをするらしい。専門学校へ進学するために上京して、一人暮らしをするとか。
部屋の荷物が全て運び出されると、僕だけが取り残された。僕は荷物ではないらしい。この場に残されてしまう。
と思いきや、僕以外なにもなくなった部屋に彼女が戻ってきて、僕は持ち上げられた。身体に手を突っ込まれ、部屋を出るとそこには母親と、見たことのない中年の男が居た。
「お母さん、行ってくるね」
彼女はほとんど口を動かしていない。代わりに僕の目玉と口がよく動いた。母親と男は愛想よく笑った。
男は母親の恋人らしい。近々結婚するとか。眼鏡を掛けていて、雰囲気が柔らかかった。男は、悪い男には捕まらないよう気をつけるんだよ、と彼女にアドバイスをしていた。母親と男は生涯を添い遂げることとなるだろう。僕の直感がそういった。いったところで口にはできないが。
僕は捨てられることなく、彼女に抱きかかえられ続けた。どうやら大切にしてくれるみたいだ。彼女の行く末をもう少し見ていたかったので、僕はほっと溜め息をついた。もちろん心の中で。
6
移り住んだ場所は二階建てアパートだった。1Kで8畳の洋室。ベランダもついている。家賃は四万二千円。彼女の部屋は一階にあった。
僕の居場所は押入れではなく、ベッド脇の棚の上に座らされた。闇の中に放りこまれなくて一安心だった。
しばらくは人がアパートに訪れることがなく、新しい恋人ができなくて淋しいのか、彼女はやがて昔のように、僕をベッドに入れて眠るようになった。時に僕の頭を撫で、時に僕を抱きしめ、時に僕をベッドから出して膝の上に乗せながらテレビを観ていた。いつしか、彼女は以前のように僕にいっぱい喋りかけていた。腹話術の人形だということを知った彼女は、僕の身体に手を突っ込んで適当に会話を繰り広げた。
「タクヤ、私、もう恋人なんて一生いらないって思ってたけど、やっぱり淋しいよぉ」
「それなら俺で手を打たないか? 一生幸せにしてやるよ」
「……嬉しいけど、タクヤはどうみても子供じゃん」
「あっちの方は立派な大人なんだぜ?」
そう言って彼女は独りで吹きだして笑っていた。「タクヤって面白いね」などと言っていた。面白いのは僕ではなく、彼女のほうだ。僕は心の中で腹がよじれるほど笑っていた。半分くらいは彼女を馬鹿にしている。もう半分は、彼女のユーモアを評価して笑っている。僕が熱を放つ生命体なら笑いすぎて涙すら零していただろう。
そんなふうに、彼女の孤独な生活は半年ほど続いた。その辺りを過ぎたころ、男の影がちらつくようになった。八ヶ月目にしてついに男が連れ込まれた。
男の外見は母親の恋人に似ていた。眼鏡を掛け、柔らかそうな雰囲気を醸し出している。腕力はなさそうだが、痩せこけているというわけでもない。彼女よりも十センチほど背が高かった。
この人なら大丈夫。彼女はそう思ったのかもしれない。恐らく恋愛で多くの失敗を重ねたことだろう。優しそうだから、という理由で相手を選んだに違いない。しかし残念ながら彼女は本質というものを見抜けていなかった。僕は心だけの存在だから、見えない内面を見抜くのが大の得意だ。男を目にした瞬間、なんて薄っぺらいひ弱な奴かと思った。魂の力強さみたいなものがまるで感じられない。彼女を守ってはいけないだろう。そもそも男には彼女を守る気などないかもしれない。
男は二週間に一度のペースでアパートにやってきた。男はよく、自分の知識を彼女にひけらかしていた。その度に彼女が男のことを賢いと褒めていたが、男がひけらかす知識の全てを僕はすでに知っていた。もちろん知っていたところでなんの意味もない。誰にも伝えられないのだから。
男は中々尻尾を見せなかったが、ある日片鱗が見えた。男がこのアパートに住みたいと言った。男は現在一人暮らしをしていて、バイトだけでなんとかギリギリの生活を送っているのだという。男は写真家になることをずっと夢見ていて、詩も書いているとか。そもそもそれが彼女と出会ったきっかけのようなものだった。彼女が携帯のサイト上で彼と知り合い、彼が管理しているサイトの写真や詩を見て好きになったのだという。たまたま、あまり離れていない地域に住んでいたので、二人は会うようになった。
男は、生活費を折半すれば君も楽になるよ、と持ちかけた。独りが淋しかった彼女は喜んで男を招きいれた。
男の本性が現れたのはそれから間もなくのことだった。アパートに遊びに来ていたときは、男はあまり僕を気にかけなかったのだが、住むようになってから彼女の前で僕の身体に手を突っ込んで腹話術をした。初めのころは戯けて遊んでいただけで、彼女は楽しそうに笑っていた。だがある日、男が腹話術で彼女に言った。
「バイト、辞めちゃった」
一緒に住みはじめて一ヶ月が経ったころのことだった。男は次のバイトをすぐに探すと腹話術で言ったのだが、二ヶ月経っても三ヶ月経っても働かなかった。そうしてついに、男は腹話術でこう言った。
「貯金が底を突いちゃった」
僕はこういう男をよく知っている。人に依存できそうなものならとことん依存していくタイプのダメ男だ。早々に縁を切った方が彼女にとっては良いのだが、男に妙な愛着をもってしまった彼女は自分が生活費を賄うから大丈夫だと言った。元々は両親の仕送りと喫茶店のバイトで生活していた彼女は、キャバクラのバイトを増やした。存分に夢を追ってほしい、と彼女は言った。男は腹話術で「ありがとう、愛してるよ」と言った。
男は、存分に夢を追った。一ヶ月ほどだったけど。
段々家に居る時間が長くなり、昼間から酒を飲んだりゲームに没頭したり、ごろごろとテレビを観ているようになった。男のほうが八つも年上なのにも拘わらず、彼女が帰ってくると子供みたいに甘えていた。彼女は男を存分に可愛がった。
新しいカメラが欲しい、写真を撮りに出かけるための費用が欲しい、そういった名目で彼女にお金をせびるようにもなった。お金をせびるときはいつも腹話術でお願いしていた。彼女は「しょうがないなぁ」と言いつつも嬉しそうに口元を綻ばせながら金を渡していた。
人形の僕が見たって明らかにヒモ化しているのだが、どうやら共依存に入っているらしく、第三者の手が介入しなければ彼女は破滅の道を辿ることになるのが目に見えていた。見えたところで僕にはどうしようもない。心があってもなにも伝えられないのだから。
彼女がきつく咎めないものだから、直に男は調子付き、頻繁にお金を求めるようになった。彼女の持ち合わせが少なくて「渡せるお金がない」というときは男も諦めるのだが、子供のように拗ねて彼女の心を痛ませていた。彼女が居ないとき、金を貰えなかった鬱憤を僕にぶつけた。僕の外見は腹話術の人形にすぎないのに、彼は「お前が悪いんだぞ畜生!」と声をあげながら僕をボコボコに殴った。久しぶりにダンスを踊らされたのだが、それは心が躍る楽しいものではなかった。別に痛みはないのだが、暴力が彼女に向いてしまうことを心配した。心配してもやはり意味は皆無なのだが。
恐れていた事態は起こった。当然の流れのようなものだった。お金を渡せない期間が長くなってくると、男はいままで抑え込んでいた情動をついに彼女へ向けて解放した。僕を投げつけ、彼女に殴りかかって「身体を売って金を作ればいいだろ!」と怒号を浴びせていた。僕は一応、彼女の味方だったので、このときばかりはたとえ無意味だとわかっていても「やめろ!」と叫び声をあげた。心のなかだけで。
結局僕にはなにもできず、彼女は身も心も手酷く傷つけられてしまった。
ある種、こういう男のパターンのようなものだが、彼女を傷つけるだけ傷つけたあとコロッと態度を一変させて優しくなった。自分がした過ちを、まるで大罪に扱い、執拗に謝罪していた。男は「時々自分を抑えつけられないことがあるんだ……ごめんよ。俺に冷めないでくれ」と彼女に言い、縋っていた。心優しい彼女は男を一切、咎めなかった。
7
彼女は風俗の面接に行ってしまった。しかし、講習を受けたときに「こんなことやれない」と泣き出してしまったらしく、逃げ帰ってきた。男は彼女を優しく説得した。「君ならやれる」「俺との明るい未来のため、稼いできてほしい」「頼れるのは君しかいないんだ」という言葉を並べていた。僕はとにかく、心の中で逆の言葉を述べた。「君はそんなことができるような女の子じゃない。誰のためでもなく、君の未来のためにこの男と縁を切ったほうがいい」と。
「いま、ヘンな声が聞こえなかった?」
不意に男が言った。
「変な声?」と、彼女は目元を拭いながら聞き返す。
「なんか……君に説教するような声」
それはもしかして、僕の声だろうか。全くもって説教しているつもりはなかったのだが。
「ほら、聞いたか? それはもしかしてボクの声だろうか、って」
「ううん、聞こえなかった」
さすがの僕も驚いた。もし身体で表現ができるのなら、手で口を覆って目を見開いて、男と彼女を交互に見遣っていただろう。
「おい、誰だ! 出て来い!」
「……ねえ、急にどうしたの? なにも聞こえないよ?」
どうやら男としか繋がっていないようだ。人形やぬいぐるみの心が何者かの心と繋がる、という事例は過去にあった。多くは一時的なものだ。強い憎しみや、持ち主を守りたいという強烈な意志などがその状態を引き起こすのだが、僕の場合は守りたい意志と男を憎む意志が混同して、男とだけ繋がったらしい。
「ぶつぶつなんか言ってるぞ、これやばいって……」
「私はなにも聞こえないよ? 変なクスリでもやったの?」
「いや、本当に聞こえるんだ」
男は焦りと怯えの混じった声で言った。部屋を見回しだして、怪しい場所を片っ端から探り出す。押入れ、部屋の壁、ベッドの下、衣装ケースの中、本棚などなど。
やがて、ベッド脇の棚に座っている僕を手に取った。
「これか?」
そうだよ。
「お前が喋ってるのか?」
そうだって言ってるじゃないか。
男は小さな悲鳴をあげて、僕をベッドに放り投げた。僕は軽く弾み、人間では中々曲げられないような方向に手足が曲がった。
「こいつは呪いの人形だ!」
「えぇ? タクヤが?」
「俺の言葉に受け答えしてるんだ!」
僕にとったら、男の方が僕の言葉に受け答えしているという感覚だ。
「ほら、喋ってる、聞こえないのか?」
「私には聞こえないよ……。本気で言ってるの?」
「本気で言ってるさ、この人形が喋ってるんだ!」
男はかなり取り乱していた。僕は男に向けて、思っていたことをぶちまけてやることに。
彼女を困らせるようなことはやめろ、アパートから出ていけ能無しのクズ。
「タクヤは、なんて言ってるの?」
男は彼女の言葉に答えず、茫然とこちらを見つめていた。僕はこう続ける。
僕は全てを知っているんだぞ。軟弱なお前は、彼女が居ないとなにもできない。彼女の優しさにつけこんで、振り回して、とことん寄生し続けるつもりだろう。彼女と縁を切れ。でなければ、僕はお前を呪い殺す。
「ねえ、タクヤはなんて言ってるの?」
「……君のこと、怨んでるって言ってる」
はっ?
「君、昔この人形になにかしただろ?」
彼女は戸惑いだして、過去に僕を押入れに放置しつづけたことを口にした。僕は必死になって、その件に関して一ミクロンも怨んでいないと言い続けた。
「やっぱりな。昔、君は精神がおかしくなって、摂食障害になっていたときがあったんだろう?」
「うん……」
「それはこの人形が君に呪いをかけていたからなんだよ」
「そんな――」
「こいつは捨てたほうがいい」
ちょっと待て、無茶苦茶言うな、僕は心を持つだけの腹話術人形であって、誰かを呪う力なんて持ち合わせていない、本当はお前を呪い殺すことなんてできないんだ!
心の中で叫び声をあげたので、男は両耳を塞いでいた。それでも声ははっきりと聞こえていただろう。
「君と一緒に居る俺のことも怨んでるらしい。俺を殺すと言ってる」
「そんな、怖い……」
彼女はそう言った後、僕が兄に無茶な扱いをされていたことを思い出して口にした。男は、それが呪いの人形と化した理由だと決め付けた。僕は兄を一ナノメートルも怨んでいないと言い張った。
男は僕をゴミ袋にぶちこんだ。彼女は唇に指を当てながら、僕がぶち込まれた瞬間は手を伸ばしたのに、僕が救い出されることはなかった。
男と彼女は一緒に外へ出て、ゴミ捨て場に向かった。明日は燃えるゴミの日だ。明らかに僕は燃えるゴミの部類ではないが、袋の中は生ゴミとか雑誌とか、様々なゴミが入っていて、僕はその中に埋もれた。袋は半透明だが、気づかれずに持っていかれるだろう。
せめてもの抵抗として、「このまま捨てたらやっぱりお前を呪い殺してみせる」と叫び続けた。男は怯えながらも、僕をゴミ捨て場へと捨てた。
「ごめんね、タクヤ。ばいばい」
去り際、彼女の声が聞こえた。もうどうすることもできないので、僕は受け入れて、せめて男に向かって、「彼女に『いままでありがとう、さようなら』と伝えて欲しい」と言った。男がそれを伝える声は聞こえなかった。
季節は初秋で、夏の余韻がまだ残っているせいとゴミ袋が長らく野外に放置されていたせいで、生ゴミに蛆虫が湧いていた。僕のオーバーオールの上で蠕動している。それを最悪とか、気持ち悪い、なんて思わない。悪臭がするのだろうが、なにも感じない。
所詮僕はただの人形。いつかは捨てられる運命だった。長い間持ち主に大切にされたほうだと思う。そんな持ち主のことを、僕も自分なりに大切にしたかった。手を動かせるのなら優しく髪を撫で、抱きしめたかった。添い寝をして、彼女を胸に抱いて眠ってみたかった。繋がったのがあの男ではなく、彼女のほうだったなら……。
けれど、どうしようもない。そんな後悔は意味がない。僕は思考を止めた。成るがままに委ねるしかないのだから。
ゴミの隙間から、微かに夜空が拝めた。僕ら人形やぬいぐるみはほぼ室内にいて夜空を見られることはないので、小さな光の並ぶ空間に目を凝らした。
時間が経つにつれ、やがて空は薄明るくなっていき、星が見えなくなった。陽が昇り、ゴミ袋の中を赤い光が満たす。蛆たちがオーバーオールの上で嬉しそうにダンスを踊っていた。
更に時間が経つと赤みは消え、空の青さが際立っていく。良い天気だった。
人々が起きだし、僕の入っている袋の周辺には新たなゴミ袋が追加されていく。天上が塞がった。ゴミ袋が載せられて、薄暗くなってしまった。
それから間もなく、普通車ではない車の音が聞こえた。ゴミ袋が投げ込まれる音と、ミシミシと潰れる音がする。僕の入っているゴミ袋の上に載っていた袋が持っていかれ、再び青空が見えた。
次はいったい、なにに宿るだろう。もしかしたらこれっきりかもしれない。そんなことはわからないが、心が宿ったとしても、宿らなかったとしても、僕は不幸だと思う。だって、どっちも嫌だから。どこかに心が宿ったとしても、同じようなことが繰り返されるだけ。だからといって、僕の心が終わってしまうのも嫌だった。
だからこそ、人形やぬいぐるみに心が宿るのは不幸なんだ。
ガサッ、と音がして、ゴミ袋の中身が少し動く。持ち上げられたようだ。隙間からごみ収集車の後姿が見えた。ゴミが次々と押し潰されていた。僕も押し潰されるんだ。だがグチャグチャに潰れても、ある程度形が残っていれば僕の心は腹話術人形に在りつづける。しっかりと焼却されて、ようやく消えるだろう。
ゴミ袋を持っている清掃員が、腕を後ろに引き、勢いをつけて――
「タクヤ!」
彼女の声が聞こえた。清掃員の動きが止まり、彼女は「タクヤが、タクヤが」と連呼しながら駆け寄ってくる。僕が入っている袋が投げ込まれる寸前だったことに気づき、清掃員からゴミ袋を奪った。無理に引っ張ってビニールを破り、ゴミの中に手を突っ込んで、僕は掴まれた。持ち上げられると、オーバーオールに乗っていた蛆虫がぽろぽろと落ちた。
彼女は薄っすら涙を浮かべていた。蛆を払い、生ゴミに埋もれていて汚いにも拘わらず、僕を力いっぱい抱きしめた。
「ごめんね、タクヤ……本当にごめんね……」
僕は温かさなど一切感じぬ無機的な人形。けれど、このときばかりは彼女の温かさを感じられた。心の温かさを。
アパートに戻ると、ベッドではまだ男が寝ていた。僕が男に向かって適当に罵倒を浴びせると、叫び声をあげて飛び起きた。僕の姿を見つけると、どうして捨てたはずの呪いの人形を持っているんだ、と怯えながら言った。
「たとえ呪いの人形でも、私はいままでタクヤを大切にしてきたの。だから、あんな粗末な捨て方はできない」
「じゃあどうする気なんだ、俺たちは呪い殺されるぞ!」
可能ならばお前だけを呪い殺したいが僕にはそれができない、と心の中で言ってみせる。
彼女は僕を抱えなおし、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
「ここに置いておくつもりはないわ」
へっ? 男も同時に口にした。
「神社かお寺へ持っていって、供養してもらう」
ああ、なるほど。
結局捨てられるわけだ。彼女にとって、満足のいく捨て方によって。
エピローグ
供養、という展開は慣れている。僕はいつだって、いずれそうなることも考慮していた。もう少しだけ彼女といられるかと期待していたが、残念だ。
彼女は人形供養をする寺を適当に見つけ出した。男はついてこなかった。住職に僕を捨てることになった経緯を説明し、彼女は何度も僕に謝りつつ住職に手渡した。彼女はなにも悪くない。兄だってなにも悪くない。僕の心は、これから先の彼女の幸福を胸いっぱいに祈っているのに、呪いの人形としてお別れさせられることが辛かった。住職は感情移入して彼女に同情していた。それだけ謝意があるのなら人形もきっとわかってくれますよ、と勝手な解釈をしていた。
僕は祭壇に置かれ、住職が経を唱えだす。一文字一文字に堅苦しい意味が籠められているのだろうが、聞いていても疲れるだけだ。そんなことで僕の心が浮かばれるはずがなかった。彼女は住職の後ろで正座をし、瞼を閉じて両手を合わせている。その姿を見ているだけで、僕は胸の痛みというものを感じた。
長ったらしい経が終わり、彼女は痺れた足を揉み解したあと、住職に奉納金を渡した。彼女にとってそのお金というものは、自分の中にできあがった罪悪感を清算するようなものなのだろう。僕の視点から冷静に見れば、ただ勿体ないだけだった。恵まれない子供たちに募金してもらったほうが僕は浮かばれる。ついでにその子供たちに僕を渡して欲しい。
そんなふうに平和を願ったとしても、やはり意味はない。僕はなにも言えず、なんの行動もできず、ただ人間たちの手によって成すがままにされる人形。どんな心もちゃんとした形にできなければ、無意味なだけだった。
彼女は最後にもう一度だけ、僕を撫でた。住職は、六日間安置室に放置した後に僕を焼却処分する、というようなことを言っていた。彼女はよろしくお願いしますと頭を下げ、お寺を去っていった。
安置室というのは陽も射さぬ薄暗い物置だった。あまり人気のない寺なのか、木製の棚には立派な日本人形が二体とクマのぬいぐるみが一体置いてあるだけ。僕は大きいから、積み上げられているダンボールに放置された。
物置の扉が閉まると、完全な闇に包まれた。僕は押入れに閉じ籠められていたころを思い出した。終わりの日まで時間がある。暇なので、話ができるやつと会話でもしようと、みんなに語りかけた。だが、誰からも返事を得られなかった。心を持っている気配も感じられない。どんな理由でこの場に連れてこられたのかはわからないが、こいつらは心を持たぬ幸せな人形とぬいぐるみのようだ。
心があれば時間の経過を感じていなければならない。心があれば、入り込む情報を処理してしまう。物事に感情を湧かせることもある。なにかをしたいと思うこともある。だが、行動ができなければなにもかも無意味だ。あの男と意志の疎通ができた分、僕は幸せな方なのかもしれない。ほんのわずかだけ僕の心の存在を知らしめたのだから。
なにもできないので僕はただ待った。いや、「待つ」というのも違う。僕はここに居ることしかできない。わずかな光もない暗闇なので、時間を計ることもできない。計れたとしても意味がないのだが。
僕は思考を停止させ、ただ闇に目を凝らすだけにした。
唐突に扉が開き、光が入り込む。住職が物置に入ってきて、雑に人形とぬいぐるみを掴んで持ち出していった。六日が経ったらしい。僕は大きいので最後に持ち出された。時間の感覚はなかったのでよくわからないのだが、六日というのが随分と短く感じた。本当は六日なんて経ってないのかもしれない。一日しか経ってないような気がする。気がしても、確認する術はない。そもそも、そんなことはどうでもいいことだった。
先に持っていかれた人形とぬいぐるみが、境内の地面に盛られたゴミの上に載っかっていた。紙束や乾いた葉、古びた竹箒など、寺から出たゴミへ僕も投げ捨てられる。クマのぬいぐるみの上に、大の字で乗っかった。空は灰色の雲と白い雲が折り重なった曇天。遠くの、雲が薄い場所は真っ白に輝いていて、微かに青空も覗いていた。
あまりよくはない天気だが、住職は僕らを燃やすらしい。撒いた油が、僕のオーバーオールに染みこんだ。雑な供養の仕方だと思う。思ったところで意味はない。それに、僕は供養すること自体に意味を感じない。人間というのは僕らを造形したり勝手に忌み嫌ったりと忙しいな、と思った。
住職がマッチを擦り、下に敷かれている紙束に火が点く。
僕は無意味な思考を止めた。
火が、撒かれた油をたどり伝って、僕のオーバーオールに引火する。火勢が増し、パチ、パチ、と音が鳴る。燃料に燃え移っては火柱が高くあがっていき、僕の素材が溶けていく。おそらく、僕は燃えきらない。多少は残ってしまうだろう。
傍らでは一応、住職が経を上げていた。そういうことはするらしい。してもしなくても、僕にとってどっちでもいいけれど。
住職の経のことよりも、部位が中途半端に残って人形から心が解放されないことよりも、僕は燃え盛る炎の中で彼女の行く末を一番に案じた。案じたところでなんの意味もないけれど。わかっていても、やはり案じずにはいられない。だって彼女はこの先、男に愛されることなく、愛とお金と人生を搾取され続けるのだから。最悪の場合、自殺してしまうかもしれない。
できることなら僕が彼女の恋人になり、一生守り抜きたい。不可能だと知れても、そう願わずにはいられなかった。
届くことのない僕の想い。なぜこんな心を持ってしまったのか。それは、何度だって解釈してきた。ただの偶然だと。それでも、同じ自問自答を僕はやってしまう。
久しく感じたことのない、深い悲しみというものが僕の胸を締め付ける。意味がないのに。表現もできないのに。
金髪もオーバーオールも燃え尽き、僕はハゲの素っ裸になった。醜い、馬鹿げた姿をしていることだろう。もし僕が生理作用を営む有機物なら、自嘲している。そうして、涙を零している。笑いながらボロボロと涙を溢れさせている。炎の中なのですぐに蒸発するだろうけれど。
ジュゥ――
不意に、音が鳴った。僕の想像していた蒸発の音。溶けていく目元が濡れて、頬を伝って、蒸発する。
自分の涙かと思ったが、違う。そんなわけがなかった。天から降り注ぐ雫だ。何度も僕の目に直撃して、わずかに頬を伝い、蒸発する。ちょうど泣きたいと思っていた。タイミングのよさに感謝の念が湧いた。その感謝はどこに向ければよいのだろう? やはり神様だろうか。
これが本当に神の仕業なら、その神というのは中々粋なことをする奴だ。下衆野郎であることには変わりないけれど。
雨はポツポツと弱く降る程度だった。炎が消える気配はない。住職は濡れたくないからか、経を中断してお寺に入っていった。
僕は燃え続ける。しかし、この炎は僕を燃やし尽くすには至らない。僕は惨めな姿で残る。心は囚われ続ける。彼女の行く末を案じてはいるが、やはりこの人形からさっさと解放されたいと思う。
思ったところで、やはりどうしようもない。
結局のところ、僕は物言えぬただの人形に過ぎないのだから。