第一話
暗い世界の中、私の先にあの子の後ろ姿が浮かび上がる。私がいくら呼びかけようとももう返事をすることは二度とない、笑いかけることも二度とない。でもそれでも希望が残っている。あの子はそれを望まなかったけれども私は希望が来てくれることを二年という歳月が経った今でも諦める事ができない。やがて世界はあの子の姿をぼかし始め視界を白く塗り潰していく。
ゆっくりと瞼を開け体を起こす。頬に伝う二筋の跡を拭ってベッドから抜け出し、洗面所に早足で向かい顔を洗い、跡を流した。思考がクリアになっていくと共に鏡に映る自分の顔を認識して少しショックを受ける。切れ長に整った自慢の蒼玉の様な蒼の瞳は泣いたせいで瞼は腫れ充血しその色を濁らせ、いつもは綺麗な桜色の唇も今は心無しかくすんで見える程ひどい有り様だった。私はすぐに自分の両頬をピシャっと叩き気分を入れ替える。
自室に戻り制服に着替え腰まで伸びたダークブラウンの髪をあの子からもらった青いリボンでポニーテールに結ぶ。結び終わったとこで扉がノックされ、扉の向こうから声が掛ける。
「リンカさん起きてらっしゃいますか?」
柔らかい春の陽だまりのような声が聞こえてきた。私は扉を開け朝の挨拶をする。
「おはようホタル。相変わらず早起きね」
「おはようございます。リンカさんこそいつも同じ時間に起きていらっしゃいますじゃないですか」
扉の向こうには制服の上にエプロンを身に付け朗らかに笑うもう一人の私・ホタルがいた。顔の造形はそっくりだが瞳の色は琥珀の様に透明な茶色、そして腰まで伸びる髪は濡れ羽色と違いはあるが最大の違いは大和撫子の様なお淑やかな雰囲気を身に纏いつい守ってあげたいと思ってしまう子なのだ。まぁ本当は私達が守ってもらう側なのだが。
「私はただの習慣だから。ところで何か用?」
「あ、そうでした。コウさんを起こして頂けますか。昨日の約束を破ってまだ眠ってらっしゃるんです」
「いつもの事とはいえあいつも良くグウグウ寝てられるわね」
「寝る子は育つと言いますがコウさんは寝すぎですので。それでは私は下で朝食の仕上げをしてきますのでお願いしましたよ」
「了解」
下へ降りていくホタルを見送りながら私は隣の部屋の扉をノックもなしに開け開口一番叫ぶ。
「コウ! いい加減起きなさい!」
ベッドの上ではこんもりと布団が丸まり団子を形作っていた。その中からくぐもった声が聞こえてきた。
「後一時間……寝かせて~……zzz」
私のこめかみが自分の意志とは無関係に引き攣るのがわかった。
「長い!」
突っ込みを入れ布団を剥ぎ取る。コウは布団にしがみついたまま一緒に宙を舞い布団と一緒に地面に叩きつけられる。それでもコウは己の怠惰を全うしようとする。
「じゃ三十分でいいから」
と言い、布団を自らの体に巻きつけ始める。
「ぐだぐだ言わずさっさと出なさい!」
布団の端を持ち上下に振りまわす。布団ははためきそれにつられてコウも上下に振られ埃も一緒に舞う。勢いで床に落ちたコウは寝ぼけ眼と恨みがかった目で私を睨みつける。ホタルと同じ濡れ羽色の髪を肩のあたりで切り揃えているそれをボサボサにし、黒真珠の様な何物にも染まらぬ純粋な黒の瞳を半開きに開き眦には涙を湛え、私の顔よりも若干男の子っぽいが女と言っても区別が付かない顔を渋い表情を作って宣った。
「リンカ~……何すんだよ~……頭がクラクラするじゃないか」
「あんたは自分のアホさ加減が分からないの。私がまだあんたに直接手を挙げてないだけマシだと思いなさいよ」
私は冷たく冷たく言い放つ。ここで更に止めの一言を加えればこいつは確実に堕ちる。
「朝食が要らないっていうなら寝てていいわよ」
決定的な言葉、こいつは人の命や世界の命運よりも一回の食事の方が大事というなんともまぁ本能に忠実な作りをしている。
「それはダメ! 絶対ダメ!」
とコウが怒鳴った。すると下からのどかな声が聞こえてきた。
「コウさ~ん。起きたなら支度を済ませて降りて来てください。朝食が出来てますよ」
その声にさっきまで涙を浮かべていた眼が輝きを取り戻しコウが素直に返す。
「は~い、すぐ行くよホタル」
と言ってわずか二秒で着替えを終わらせ階下に降りて行った。するとまた、
「リンカさんも早く降りてきてくださいね」
と同じ調子で聞こえてくる。
「はいはいっと」
ため息を吐きながら階段を降りていくとすでに食卓に着いて朝食のパンを口いっぱいに頬張る意地汚いコウの姿があった。
「コウもっと落ち着いて食べなさいよ」
「いいじゃん。好きなように食べさせてよ」
コウが口を尖らせながら反論してくる。
「コウさんマナーを守って下さらないともうお食事作って差し上げませんよ」
ホタルは整った顔を微妙に引きつらせてコウに笑顔を向ける。
「ホタル! それだけは許して!」
その顔を見たコウはすぐさま椅子から滑り降りホタルの正面まで行き縋りつく。
「コウさん。マナーを守って食べてくださいますね」
ホタルの確認にコウは首を縦に振る以外選択肢がない。席に戻ったコウは先程よりはおとなしくだが食べる量は変わらず食べ続ける。
私も席について用意されてる朝食を頂く。食事をしながらも私はついつい今朝見た夢を思い出してしまいため息を吐いてしまう。
「リンカさんどうかしましたか? お口に合わなかったでしょうか?」
ホタルが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「いや、そういうわけじゃかくて今日ちょっと夢見が悪くてね」
心配させないように軽く微笑みながら言ってみたもののホタルには通じなかったみたいだ。
「リンカさん。無理に笑わなくていいですよ。今すぐ何か心が安らぐものをお作りします」
そう言って席を立とうとするホタルに私は両手を振って止める。
「ホタル。心配してくれるのは嬉しいけど本当に大丈夫だから」
「そうですか。で、その夢とはどのようなものだったのでしょう?」
ホタルは興味本位で聞いてきたのだろうが私にはその質問は酷すぎるしホタルも普段は気にしないようにしているかもしれないあの子の事。
「ホタル。パンのおかわりってあるかな?」
朝食をがつがつ食べていたコウが空になったバスケットを指しながら言った。
「ハイ、すぐに持ってきますね」
パタパタとキッチンにパンを取りに行くホタル。私は思わず安堵の息を吐いた。
「どうせ、あいつの夢だったんでしょ」
ホタルに聞こえないように小声で話しかけてきたコウは私の心中を察して聞いてきた。
「そうよ……ありがとねコウ。ホタルに聞かれた時は正直焦ったわ」
「気にしなくていいよ。僕はただパンのおかわりが欲しかっただけだから」
そう言ってまた食事を再開するコウ。こういう気遣いが男女共に人気を集める理由かも知れないと思う。
「それでもありがとう」
私は静かに感謝の言葉を述べた。
「お待たせしました。どうぞコウさん。クロワッサンで良かったですか?」
「ホタルが作ったパンならどれもおいしいから問題なし!」
グッと力強く親指を立てるコウ。嬉しそうに微笑み再び席に着くホタル。
いつもの風景。コウが会話もせず無我夢中に料理を貪り、私がホタルと他愛もない会話をする。血に塗れた宿命を忘れられる日常の一時。その時間も唐突に破られる。視界から色が失われ黒で覆われ白で覆われそして仮初の色が世界に与えられる。私達、運命に選ばれた者にしか感じ取れない世界がねじ曲がる不快な感覚。
「無粋な連中ね。時間を考えて欲しいわ」
私が立ちながら何気なく呟くと、
「仕方ありません。先方にも都合というものがあるのでしょう。例えそれが人殺しの為といえどもです」
いつの間にか席を立っていたホタルの手には私の愛刀〝清水〝と漆黒のマントが用意されていた。
「それでも私達はこの宿命を受け入れどうにかしなければなりません。あの方との約束の為にも」
悲しげに顔を伏せるも笑おうとするホタルに私はかける言葉が見つからない。そんな私達の頭にコウの温かい手が乗せられる。
「それでもあいつの望みを叶えてやるのが残された僕達の役目だよ」
こいつのこういう時々見せる優しさはホントずるいと思う。普段がだらしないからこそ余計際立って見えるからだ。
「あんたやっぱずるいわ」
「たまには兄らしいとこも見せとかないとね」
その言葉を無視しマントと刀を身に付け私は、
「さぁ行きましょうか。戦場へ!」
同じように刀とマントを身に纏ったコウとホタルは力強く頷き、異界への門を潜る。
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