2-1 人の姿
誰かが囁いた。
「空の国が、近頃起きた異常気象に滅びたらしい」
誰かが囁いた。
「地の国は、最近異様に殺気立っているらしい」
誰かが囁いた。
「海の国は、この異変に他との関わりを隔てたらしい」
誰かが嘆いた。
「この世界は破滅に向かう。地は戦争による数多の血で穢れ、海は生き物が生きられなくなるほど汚染し、空は全ての命を絶やさんと襲いかかるだろう。全てが澱み、濁り、絶望と終焉が同時にやって来る」
誰かが、嘲笑った。
「全ては余興に過ぎない」
☆★☆★☆
自分が沈んでいく苦しさと溺れてしまう恐怖が同時に押し寄せてくる。
死にたくない一心で、泳げないけれども無我夢中で後ろ足をばたつかせ、メチャクチャに前足を動かして水を掻き分けた。しょせん、不恰好な犬掻きだ。
水を掻き分け、水面へと近づいていく。
徐々に近づく水面はキラキラと輝いて見えた。
綺麗と感じている余裕は微塵もなく、必死にもがきようやく水面から顔を出した。
「ぷっ、はあ! はっ、うぷ、し、死ぬ!?」
顔を出したのは良いものも、このままでは再び沈んでしまう。
足をばたつかせ、何とか近場の苔がびっしりと茂った陸に手を伸ばした。爪にヌルっとした苔が入り込むのも、土塊が入り込むのもこの際関係ない。地面に爪を立て、水に浮き沈みする身体を思い切り引き寄せた。
そのまま上半身に力を込めて、下半身を水の中から引き抜く。
一瞬の水の抵抗の後、激しい音と共に水が四方に飛び散った。
そのまま這い出るように少しだけ高い陸地をよじ登る。
「はあ……は、うくっ、ゲホゲホッ! うー、水飲んだ、最悪……!」
何度も咳き込み、口の中に入った水を吐き出していく。気持ち悪い感覚の残る喉を上下に動かし、酸欠になった肺に新鮮な空気を取り込んでいく。そうしてバクバクとうるさい心臓が落ち着くまで深呼吸を繰り返しながら、自分の失態に苦虫を噛み潰したような表情をする。
考えに夢中で、前が崖だった事に気がつかなかった。
もうすぐで大人の仲間入りなのに、恥ずかしすぎる。
水滴を垂らしながらやけに重たい頭を持ち上げた。
森だ。行方不明の兄妹を捜す為に入ったのだから当たり前だが、そこには森が広がっていた。
鬱蒼と覆い茂る木々は蔦が複雑に絡み合っており、伸びきって茫々の草薮には見た事もない花があちこちに鮮やかな色を咲かしている。水の澄んだ匂いと、果実や花の甘い香りが鼻孔を擽る。
更に視線を彷徨わし、ゴツゴツとした岩肌が露出した傾斜を見つけた。
「おほー……結構な高さじゃないか」
岩肌が剥き出しの崖は、とにかく高かった。百八十センチメートルある剣が一体何人いれば届くのかと、そんな馬鹿な事を思ってしまうほどの高さだった。そして何より、その崖はほぼ垂直に近かった。転げ落ちるというレベルではない。落ちたらそれこそ真っ逆さまに落ちる、それぐらいの傾斜だった。
よく怪我しなかったなあ。
他人事のように思った。
ふと森の様子を見回し、奇妙な違和感が心の中で芽生えた。緑の葉をつけた木々があり、草があり、花が咲き、普通の森にかなり怖い高さの崖があって、すぐ後ろには湖なのか池なのか分からない大きな水溜りがある。何ら可笑しくない、至って普通の森の光景。
しかし、と首を傾げた。
(森が違う?)
そう感じた。
最初入った時に身の毛もよだつような薄気味悪さがない。むしろここは空気が済んでいて、凄く心地良いぐらいだった。陽の光も遮ってしまうような木々の化け物がいた筈なのに、と頭上を見上げて目を瞬かせた。
湖か池の上には、照りつくように太陽が顔を覗かせている。
落ちたからかな、と思ったがそれはないとすぐに否定した。
いくらかなりの高さからここに落ちたとは言え、いきなりその場の雰囲気や空気が変わるのは可笑しい。
例えるなら、自分が全く違う場所に来てしまったかのようだった。
(ないないない、そんな筈ないって!)
自分の馬鹿さ加減に苦笑し、人間ならばここで後頭部を掻くように腕を回すだろうと考えて―――――そこで、自分の腕が後頭部に届いているのに数秒遅れてから気がついた。
「……え?」
犬の骨格は、人間のものと違い機密に動いたりない。
後頭部を掻くという動作さえも難しい。
それなのに今、自分の腕は本来してはならない動きをしている。
そういえば水の中に落ちた時も、いつもより手足の動きがぎこちなかった気がする。
そういえば陸地に上がる時も、いつもより動きにくかった気がする。
そして、いつもより視点が高い。
恐る恐るといった動きで、後頭部に回していた自分の手を目の前に持っていく。それだけの行為なのに、その一つ一つの動作がかなり鈍く、遅かった。
そしてようやく自分の手が視界に映った。
いつか夢で見たような、自分の飼い主と同じ肌色の腕が。
「っ……!?」
弾かれたように顔を上げ、すぐ後ろの水辺を振り返る。重たい身体が非常に億劫だが、思えばこの身体が重いのも体毛が水を吸ったからではないのかもしれない。
嘘であってほしいと願いながら、キラキラと輝く水面に顔を映し込んだ。
「え、ええええええええええええええええええええぇぇぇぇ!!!!!?」
そこに映っていたのは、驚きに満ちた人の顔のムクだった。
「ちょ、ちょっと! お、落ち着け、落ち着け俺! 俺は誰だ!? そう、俺はムク! ムクであって、ムク以上のムク以下ではない! んで、自分に理解できない事が起きたこーいう時は、深呼吸して精神とーいつすれば良いって、シーちゃん言ってたよね! よし! ふー、ふー……ふー。そして、もう一回俺を見る」
人間だ。
見間違える事もなく、今目の前の水面に映っているのは人間となったムクだった。
いつか夢で見た容姿そのままである。髪は全体的に白いが毛先だけ茶色で、肩まで乱雑に伸びている。目は濃い茶色で、角度によっては青く光るがそれは元からであった。全体的に白い肌は、うっすらとだが白いうぶ毛が生えている。輪郭の幼さが残る顔は、人間といえば十代後半といったところだろうか。白髪の上には、茶色い垂れ耳が犬の名残りの如くついている。そこに意識を持っていくと、ピクピクと動いた。ボサボサで白い尻尾も同様だった。しかし、尻尾はズボンの後ろにある穴から飛び出しており、ムクは人間と同じように服を着ていた。白いVネックの半袖シャツに、上からフード付きで黒のロングベストを着こみ、緑色のズボンを腰紐で止めて、茶色と白のスニーカーを履いていた。右手には革製の手袋が、左手には青く透明なリングが二つずつ填められていた。そして、首元には愛用の青い首輪があった。
それがムクの姿だった。
大きな瞳をこれでもかというぐらい見開き、、呆然としたまま恐る恐る自分の顔に指を這わす。
ペタリ、水で濡れた頬の感触は冷たくてとても柔らかい。詩恩は、よくムクの頬肉を引っ張り「餅みたいに伸びるー! 気持良い!」と言っていたが、人間の頬も柔らかいのではないだろうか。自分の頬なんて引っ張る事ができなかったので、その疑問に明確な答えは出せない。
青白い頬に宛がう手は、犬のように丸みを帯びたものではない。
爪だけは長く鋭く元の状態のままで、誰かを切り裂く事は難しくないだろう。
何だこれは。
混乱する頭を激しく振る。白と茶色の混じった髪から雫が飛び散り、草地や水の中に落ちていく。髪が肌に張り付く度、言いようのない気持ち悪さを感じた。犬の時には味わえなかったものだ。
突きつけられる現実に呆然と、再び水面に映る自分を見る。
至極困ってますといった感じに、眉をハの字にしている自分がいる。
「……俺、なかなかイケメンじゃん? これならママも惚れるんじゃないか」
混乱のあまり、思考がどんどんズレていくのに本人は気づいていない。
右から左からとうんうん唸りながら自分の顔を見下ろす。それから見よう見真似で水を吸って重たい服を雑巾絞りするように捻る。慣れない身体に筋肉が強張るも、服からドバドバと水が絞り上げられた。
そうして一息つき、ムクは足に力を込めて立ち上がった。
視界がぐんと高くなる。
多少バランスが上手く取れずふらつくが、何とか倒れずに済んだ。
そうして改めて、今置かれている現状に感嘆の息を吐いた。
「すごーい。俺、二足歩行してる」
最早、自分が人間になってしまったのがどうでも良くなってきた。多少大雑把な性格を持つムクは、むしろこの状況を楽しんでいた。
夢に見た、とまではいかないが少しは憧れていた人間。剣や三津波と同じ姿。自由に動き回れる足。
自由の身。
そこまで考えて、ムクは当初の目的を思い出し「あっ」と声を上げた。
「そうだ! これならママやパパに俺の声が届くかもしれない!」
犬耳や尻尾を除けば、今のムクは人と同じ姿だ。
これはきっと、神様が与えてくれた思し召しというものではないだろうか。
だったら、チャンスではないか。
思い立ったが吉日。ムクは家に帰ろうと辺りを見回した。そしてすぐ、途方に暮れた。
ここがどこなのか分からない。
森が延々と広がって、湖か池の目の前には崖がある。あの崖から落ちたのだから、そこから登れば家に着くかも知れない。しかし、いくら人間の姿になったムクでもほぼ垂直に近い傾斜をよじ登れるわけがなかった。むしろ、犬だった方がマシかもしれないと思った。
崖を登る事は無理。
進めそうなのは、鬱蒼と覆い茂った森の中だけだった。しかも、多少の獣道ができている。
金見沢家真正面にあった森より幾分かマシな道だ。ムクは迷わずその獣道へ入っていった。
中に入った瞬間、済んだ森の匂いが鼻腔を擽ってきた。木々の匂い、花の匂い、草の匂い、甘い果物の匂いもした。そうしてそれに紛れるように、微かに獣の臭いもした。
本来ならば獣の臭いに何らかの反応をするべきなのだが、今のムクにそんな余裕はなかった。ただでさえ慣れない二足歩行に、家に帰るという気持ちがムクの心を先立たせる。更には、随分前に走ったあの薄気味悪い森と裏腹のここに警戒する必要がないと判断したのだ。
ざくざくざく、と草をスニーカーで踏みつける。
木の根っ子が飛び出た所は、慎重に足を上げて乗り越える。
この獣道がどこに繋がっているのかは分からない。
奇跡的に見慣れた道、もしくは臭いに辿り着いたら万々歳だ。
ただ思うがままに、感じるがままに、歩み続けた。
★☆★☆★
「……はあ」
歩いてどれほど経っただろうか。五分。十分。結構な時間歩いた気はする。分からないが、森は終わりを見せようとしない。同じような景色が延々と続いている。
照りつける太陽と慣れない歩行による疲れに、舌を出す。舌で体温調整をしなくとも、人間となった身体は発汗機能が備わっており、現に額から汗が滲みでてきていた。
服はいつの間にか乾いており、乱雑に伸びた髪も少しだけ乾いていた。
空を見上げると、木々の葉の隙間から燦々と太陽が顔を覗かす。
そろそろうんざりしてきた。
「ちっくしょー……ここはどこだ」
一向に変わらない景色に、見知った道に出ない事に、嗅ぎ慣れた臭いが一切ないのに、ムクは次第にイライラし始めた。同時に、後先考えず行動に映った自分の馬鹿さ加減に落ち込みたくなった。
今は、葉や枝を踏む音さえ煩わしい。
もっと落ち着いて行動すれば良かった。
もし、と考えた。
このまま一生ここから出られなかったら?
このまま一生家族に会えなかったら?
このまま餓えと渇きに苦しみ、動けなくなったら?
今更ながら、恐怖がぐるぐると駆け巡っていく。そして、無性にあの表情筋の死んだが心優しい黒犬に会いたくなった。縋りつきたくなった。泣き喚きたくなった。全てが後の祭りだと分かると、涙が今にも零れてしまいそうだった。
きっと、「もっと落ち着いて考えろ。無茶ばかりするな」と親友は嗜めるだろう。今は、そのお叱りさえも愛おしく感じる辺り、自分の心理状態が末期だと悟る。
考えれば考えるほどきりがなくなってきた悪循環な思考に、自然と視線が足元へと注がれていく。
俯き、今にも足を止めてしまいそうになった時だ。
「あら? 迷子のワンコね?」
「……」
ムクの頭上から、女の声がした。
驚き、弾かれたように顔を上げる。
「見て、ナイトナイト!」
「……ああ、ダーククイーン」
「可愛らしいワンコが鳴いてるわ!」
「……ああ、鳴いている」
「でも変な子ね!」
「……ああ、変な子だ」
「嫌な臭いがするわ!」
「……ああ、するな」
「まるで―――――」
「まるで―――――」
「私達の大嫌いな人間の臭いだわ!」「俺達の嫌いな人間の臭いだ」
一本の大きな木の上。一人は太い枝に腰掛け、一人は木の表面に手をついて立っていた。
女性は、優雅に微笑んでいた。
男性は、無頓着に呟いていた。
二人は、ムクを見下ろしていた。