1-3 旅立ちの昼
「最低! 二人がいなくなったのに仕事を優先するの!?」
「二人を捜す為にも、俺達の生活の為にも金は必要だろ!?」
「そんな事より、早く秋太と詩恩を見つけてよ! 本当はどうでも良いと思ってるんじゃないの!?」
「っ、お前……そんな事言っている暇があったらさっさと捜してこい!」
「私だって疲れているのよ! それもこれも、あなたが怠けて二人を蔑ろにしているからでしょ!」
「俺だってなあ……疲れてるんだ! 家族を支えなきゃいけないんだ! お前だけが苦労していると思う、なっ!?」
「っ、痛……最低ね!」
「お前だって!」
嗚呼、またか。とムクは見えない窓の向こう側の惨状を思い浮かべた。
―――――金見沢家の兄妹が行方不明となって、一週間経った。
大きな欠伸を漏らす事で『不安』を露にして、ここ数日間の事を思い返す。
一週間前、ムクは森へと消えた兄妹を無情にも見送った。石のように固まった身体は見えなくなる頃になってようやく動き、しかし首輪は鎖に繋がれてしまっている為追う事は叶わなかった。何度も吠えて、兄妹を案じた。騒ぎに目を覚ましたジャルが、その異様な雰囲気に怪訝そうな表情をした。一方で、あまりにもムク声がうるさくて、目を覚ました三津波や剣が兄妹の不在に気づいた。そのうち明かりがついて、中はにわかに騒々しくなり始めた。
そうして事態は一変した。
消えた兄妹。どこを捜しても見つからない。
その行方を知るムク。しかし、彼の叫びは人間に通じる筈がなかった。ただ「うるさい!」と怒鳴られ、相手にされないで終わった。
その日の朝、警察がやって来た。事情徴収が行われ、近くの山や林、裏の森を重点に捜索が開始された。
見つかる筈がないと、ムクは分かっていた。
兄妹が消えたのは、家から真正面の田んぼと川を超えた森の中だ。
けれど、そこに警察の手は届かなかった。ただでさえ金見沢家が住む周辺は森や山が多く、中は入りだっており険しい。時間がもう少し経てば届くかもしれないが、ただでさえ一週間経ったのにそれでは遅すぎると、ムクはもどかしさに苛まれた。食欲も失せてしまうぐらいに。
それもこれも、ムクのお気に入りの青い首輪に繋がる太い鎖のせいだった。
『代わりに俺が捜してくる』
ムクのその心情を悟り、真っ先に力になってくれたのは親友のジャルだった。
ジャルは首輪を付けていない。野良犬、というわけではないらしい。何やら込み入った事情があるらしい。それでも、自由に身動きのできないムクにとってその提案は正直有難がった。
二人が消えた森へ入っていく黒い後ろ姿を見送ったのが、一週間前の出来事だった。
そうして今に至る。
『……』
視線を家の中に注ぐ。
物が割れる音、落ちる音、叫び声、怒鳴り声、金切り声、様々な音を優れた聴覚が捉える。
この一週間で、家族は変わってしまった。優しかった三津波は優しくなくなった。暴力を振るわない剣は暴力的になった。散歩が大好きだった亮は家の中に引きこもるようになった。喜怒哀楽の激しい初恵はぼんやりする事が多くなった。そして、常に葬式に見舞われたような陰鬱とした重苦しさがあった。
ムクは、自由に散歩さえもできなくなってしまった。一日に一回連れていってもらったとしても、近場で簡単にトイレを済ませたら終わりだ。兄妹が消えた森に行きたくとも、強引に戻されてしまう。犬に割く時間さえも今は惜しいか面倒なのだろう。
何とも投げやりで、無気力的な生活の日々。
昼の強い日差しを浴びて、ムクは『ウォーン』と吠えた。
その時、家の真正面に聳える森から一匹の黒犬がのっそりと姿を現した。それは金見沢家の方向に近づいていき、やがて敷居を跨ぎ庭に入り、ムクの目の前で立ち止まった。
『ムク』
『ジャル……』
ジャルが捜索から帰ってきた。フサフサの黒い毛には、枯れ葉や蜘蛛の巣がくっついていた。どれほど中が険しい道だったのか、それだけで理解した。同時に、その無感情に近い目の奥に灯る落胆の色を感じ取った。
『駄目だった?』
『すまない』
『ううん、ありがとうね。ジャル。ママもパパも、俺の声が聞こえないし……俺は、見ての通り鎖に繋がれた身だから、ジャルには感謝してるよ』
ジャルは真っ黒な目を静かに伏せ、尻尾を何度か力なく振った。気休め程度とは分かっているがムクはそんな親友に近寄り、体毛についた枯れ葉や蜘蛛の巣を鼻で落とした。ついでとばかりに乱れた毛並みを軽く整えてやり、綺麗になったのを確認してから身体を離す。
二匹は限りなく近い距離でお座りをし、背を丸めた。
『あの二人が消えた後に降った雨のせいで、臭いはもう辿れなくなっていた。足跡もない。完璧に分からなくなったから、近場の兎や狸に聞いてみた。……けど、皆見てないと言った』
淡々と簡単に結果を報告するジャルの話に耳を傾けて、ムクはよりいっそう強い不安感に苛まれた。何度も瞬きし、落ち着かない様子で身体をしきりに震わす。
『ムク。俺また捜してくる。今日は、とりあえず報告に来ただけだ。……大丈夫、すぐ見つかる』
『ジャル。……ごめんな』
『気にするな』
牙を剥き出しに少しだけ笑い、ジャルは再び立ち上がった。そうして、再び森のある方向へと歩き始めた。ムクはそれを申し訳なく思いながら見送る。今は、この親友に頼るしかないのだ。
再び上がる喧騒。
喚く声。
聞きたくない現実。
ムクの神経をすり減らしていく。
『ムク』
ふと、家の敷居を出る直前でジャルは立ち止まった。
『えっ、あ……何?』
『……この近くに、大きな池ってあるか?』
『え?』
突然の問いかけに、何度も目を瞬かせた。
それから散歩で歩いてきた記憶に家族が話した記憶を瞬時に引っ張り出すが、そこに大きな池はなかったのを確認する。緩々と首を振ると、「そうか」と呟いた。
『どうかした?』
『いや。何でもない。……お前は、少し眠ろ。あまり寝ていないだろ? 寝るのは、大事だ。だから寝ろ』
途切れ途切れにそう告げるとジャルは前に向き直り、今度は一度も振り返らず家から出ていった。田んぼの狭い土手を器用に進み、川に掛かる橋を渡り、鬱蒼と覆い茂る森の中へと入っていき、すぐに真っ黒い姿は見えなくなった。ここまでひと通り、全く疲れた様子を見せないその姿に少し感心する。
同時に、今の会話に首を捻った。
『いけー……池?』
しかし、意味がよく分からない為これ以上考えていても仕方ないと思い、ムクはその場に伏せした。
暫くは憎々しいほど青い空を見上げ、遠くに鮮やかな緑色に育った田んぼの稲を見て、鴉の雀をバカにする鳴き声を聞く。
最初は全く起きなかった眠気も、ジャルに言われたからか次第に意識がまどろみ始め、やがてムクは静かに目を閉じた。
朝から感じていた頭の重さを最後に感じ、眠りについた。
☆★☆★☆
ウ――――――――――――――――――――!!
甲高くなる警報の音。
『あっつ!?』
身体に凄まじい熱を感じ、ムクはその場を飛び跳ねた。眠気も完全に吹き飛ぶ熱さに、目を白黒させた。
そこそこに長い白い毛に当たるか当たらないかの距離にパチリと火の粉が舞う。また、白い毛に赤い影が差し込み、時折熱風が全身に吹きつける。
熱い。
ムクは舌を出して、体温調整を試みる。しかし。それも徒労に終わる。こういう時に人間のように汗が掛けないのは不便であるが、そんな事ムクが知る筈がない。
辺りを見回す。
『……ここ、どこ?』
目をこれでもかというぐらい見開き、ムクは呆然と立ち尽くした。舌の先から溢れる汗が地面に落ちては、すぐさま蒸発して空へと消えていく。
家が、燃えていた。一棟だけではない。多くの家が、木々が、花が、動物が、人間が盛んに燃え上がりとてつもない悪臭を漂わせていた。
噎せ返るほどの火の臭い。木々の燃える臭い。人の燃える臭い。吐き気が起こりそうなほどの悪臭が辺りを立ち込めて、今にも鼻が曲がってしまいそうな錯覚を覚えた。
逃げ惑う人々。炎を見て吠える犬。火に囲まれた木の上から飛び降りられなくなった猫。灰色の煙から逃げる鳥。燃えて灰となった花や木。耳を劈く、おぞましいほどの人の断末魔。助けを請う叫びと、我先に逃げようとする人の叫びが混ざり合う。それから、炎に包まれて消えていく命の声も聞こえてきた。
火の海が広がっていた。
ムクがいる家の周りも、火が全てを呑み込もうとしている所だった。
近くで炎を纏った材木が爆ぜる。その音に身体が竦み上がる。
『っ、逃げなきゃ……』
何故ここにいるのか、それは分からない。
ただ、直感的にそう判断したムクはその場を見回して、すぐ後ろにある立派な門の建った屋敷にまだ火が完全に回っていない事に気がついた。他は既に火の海に呑まれて進めそうにない。
直ぐ側で、炎の渦に身を包めた人間だったものが倒れてきた。
呻きのような咽び泣くような声ではない声に、背筋が凍る。
ムクは弾かれたかのように門へと駆け込んだ。
門を超えると、立派な松の木が植えられ、大きな池のある屋敷があった。大きな庭を囲むように廊下が続き、その奥には和室がいくつも連なっていて、右側に石畳の丸石と砂利の敷かれた玄関がある。風流で、雅な日本屋敷。木の芳しい香りが、火のこもった臭いに混じって微かに鼻腔を擽ってくる。
まるで、外の世界から切り離されたかのような錯覚。
全ての時間が止まったような、静けさの中―――――
「☓☓☓!?」
女性の叫び声が聞こえた。
庭の中心で立ち止まったムクは声のした方向、左手の廊下を見据えた。
あずき色の小袖を着た妙齢の女性が、切羽詰まった表情に驚きを交えてムクを見つめていた。本来ならば綺麗に整えられていただろう艶のある黒い髪は、手入れする暇もなくボサボサで酷い有り様だった。
「嗚呼……☓☓☓! 来てくれると信じていたさ!」
『え?』
女性は、ムクを見るやいなや裸足もそのままに駆け寄ってきて、小袖が汚れてしまうのも構わず抱きついてきた。まるで縋り付くような抱きつき方だ。ムクは驚き全身固くさせながらそう思った。
同時に、何故か女性のムクを呼ぶ名が聞こえない事に気がついた。
『え? ええ? あ、あれ? 誰!?』
女性に抱きつかれるのは嬉しい。こんな状況でなければ手放しで喜んでいただろう。しかし、今は状況が全く分からない上に、辺りは火の海だ。
ムクは女性の腕から逃れようと身動ぎして、それから啜り泣くような音が聞こえて動きを止めた。
女性は、泣いていた。
「嗚呼、☓☓☓。うら子が見つからないんだ。あの人も捜しに行ったまま、行方が分からないんだ!」
『な、何!? 誰!? あの人? うら子? ちょ、ちょっとおばさん、話が見えないんだけど……』
「☓☓☓! お前さんだけが頼りなんだ! 後生だ、私の大切な人達を捜しておくれ!!」
必死の叫び。今にも喉が張り裂けんばかりの声に、ムクは言葉に詰まった。
ポロポロと。溢れる涙が地面に落ちて、滲んで消えていく。
ムクを抱きしめた腕は小刻みに震えて、涙に混じった声がしきりに「お願いだ」と繰り返す。
困惑する。この展開は、まさしくムクが先程味わったものと同じではないだろうか。
大切なものを捜せない、ムクと―――――
「☓☓☓……宝探しだよ、お前の大事な宝物を……持ってくるんだ」
困惑したまま反応ができないムクをよそに、女性は不意に首元へ手を伸ばして。
青い首輪の鎖を繋ぐ銀色の輪っかの部分に指を這わし。
真っ赤に腫らした目に透明な涙を幾つも零して。
最後に耳元で「いってらっしゃい」という囁きを貰って。
そうして―――――
★☆★☆★
カシャンッ、と地面に重たい物が落ちる音がした。
ムクは目を開けた。時間はそんなに経過しておらず、夏の強い陽がまだ頭上に上がっていた。
倦怠感のあった身体は少しだけ軽くなっており、靄の掛かっていた頭も幾分かすっきりしていた。
今のは夢だったのか。
妙に生々しい感覚が、ムクの身体には残っていた。炎の熱さに、焼け焦げる鼻の曲がるような臭い、人の阿鼻叫喚、そして女性の抱きしめるその温もりと涙。耳元で囁かれた声も、未だしつこいほどにこびりついている。
全てが夢だったのかとムクは眠気をを吹き飛ばそうと頭を振ろうとして、頭を傾げるという不自然な形でその動きを止めた。
『……?』
目を瞬かせる。
視線は軽い首元から、音のした地面へと注がれる。
鎖があった。やけに大きくて、ゴツゴツとした鎖が地面に転がっていた。
まさかと、ムクは確認するように恐る恐る首を振った。
軽い。
いつも振る時に感じる鎖の重たさが微塵もなかった。
ただ、少しだけ草臥れた青い首輪が、誇らしげにムクの首についているだけだった。
鎖が、首輪から離されていた。
『……! シュウちゃん! シーちゃん!』
その現実に最初は呆然とした。
しかしすぐに、ムクは駆け出した。
やるべき事があった。
すっかり静かになった居間のすぐ横を走り、玄関の前を通り過ぎて、三津波の車の隙間を縫うように抜けて、家から飛び出した。
これは脱走だ。怒られるかもしれない。
もしかしたら、こんな非常時にと見飽きて捨てられるかもしれない。
それでも、別に良かった。
秋太と詩恩が戻ってきて、それで家族が元通りになるのなら構わなかった。
ムクは走った。
滅多に車の来ない道路を渡り、田んぼの狭い土手道を進み、勢い良く流れる川に掛かる橋を超えて、先ほど親友が消えた、そして大好きな兄妹が消えた森を迷う暇もなく突き進んだ。
獣道もなく、枯れ葉や泥で足場の悪い森の中。草は茫々に生え、陽は高く高く生える木々に隠れている。森はどこか暗く薄気味悪く、化け物が出ても可笑しくないと思うぐらい辺りはしんと静まり返っていた。いつもは嫌でも聞こえてくる動物の声が、今は聞こえてこない。
生者などいない、死の森を連想させる。
ムクは大きな音で驚かされるのと、雪や大雨、雷が大嫌いだった。同時に、真っ暗闇や薄気味悪い場所も大嫌いで、怖くて仕方なかった。
丁度、目の前に広がる光景がそうだった。
(シーちゃん! シュウちゃん!)
大好きな兄妹の笑顔が脳裏に浮かぶ。
尻込みしそうだった後ろ足を根性で踏み止まらせる。それからハッと大きく息を吐き出し、唸るように眼前を睨みつけた。道はない。あるのはムクよりも背丈の高い草薮と木々だけだった。
もう一度荒い息を吐き出し、鋭い爪を柔らかい地面に強く喰い込ませて、ムクは意を決して力強く地面を蹴った。
びゅん、と毛を逆立たせる風が異様に冷たい。
時折、風に弄ばれた葉が顔に当たる。草露が白い毛につき、ツンとする臭いを残していく。
道無き道は、予想以上に険しかった。動物のムクがこんなにも厳しいと思うのに、こんな所を進んでいった兄妹は一体どうしたのだろうか。
不安が、恐怖が、焦燥が、胸の中を渦巻く。
その感情に流されるまま、ムクは天を見上げて吠えた。
―――――わおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!
吠えて、吠えて、森全体に響き渡りそうなほど吠えた。
何度も何度も、吠えた。
あまりにも吠える事に夢中で、兄妹を思うのに夢中で、目の前の薮が途切れるのに気づいたのは一泊置いてからだった。
森を抜けて拓けた場所に飛び出す。
足場は、いつの間にかなくなっていた。
傾斜が見える。
そして最後に見えたのは大きな池とその池面に映る、今の時間ある筈のない黄色い―――――月だった。
それを最後に、ムクは全身が濡れる感覚と共に意識を手放した。
激しい、水音が上がった。