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Animal Moon-ムクと絶望兄妹-  作者: 神無月空
第一章:日常からの転落
3/5

1-2 夜の底

 ごぼごぼと。

 空気の泡が零れていく息苦しさに、目を開く。

 そこは深海の底。闇の果て。夜を塗りつぶしたような水の中。遥か彼方、上の方で碧い海がたゆたっている。

 碧々しい海の光景と裏腹に、身体は鉛になったかのように動かない。

―――――苦しい。

 足を必死にばたつかせようとも、身体は沈む。沈むだけ。ぶくぶくと、空気の泡を吐き出しながら。

―――――苦しい!

 肺が軋みを上げる感覚に、思わず空気を吐き出す気管を、喉を掴んだ。

 そして、驚愕する。


 人間の手だ。


 白い毛に覆われた手ではなく、五本の指がスラっと伸びた肌色の手がそこにあった。それは、日頃から見ている飼い主の手と全く同じものだった。ただ唯一違うのは、爪が鋭く尖っている事だけだ。

 呆然と自分の腕を見つめ、それから顔に触れて、初めて異変に気づいた。


 人間になっている。


 触れた顔の感触、鼻や口の形、闇の中でもその色彩を放つ肩まで伸びた茶色い髪、抑えていた喉、腕や足、犬ではなく人間へと変わり果てていた。それでも名残りとしてなのか、茶色い頭のてっぺんに生えた犬耳と、白い尾だけが自分は犬だったと確かに教えてくれる。

 ゆらりと、海に漂う身体に紐のような物が浮かぶ。

 服についている紐だ。気づけば、衣服も身に纏っているではないか。

―――――何で人間に……?

 驚き、呆けた口から更に空気が溢れ出る。

―――――くる、しっ!? 息が、助け、て……!

 今にも死んでしまいそうな気持ちにもがき苦しみながら、身体は無情にもゆっくりと深海の底へと落ちていく。


『声を聞け。白き子、白き神子よ』


 やがて、落ちる身体に逆らう事もできず、いよいよ呼吸も絶え絶えになってきた時だ。

 闇しかない底に、光が迸った。

 強く雄々しい、闇を覆してしまうような輝かしい光だ。

 その瞬間、今までの息苦しさが嘘のように身体がフッと軽くなった。

 横になっていた身体は自然と立つような体勢になり、ふよふよと浮かぶ形になった。

 突然の事に目を白黒させていると、再び声が聞こえた。


『声を聞け。白き子。時は近い』


 声は、海全土に行き渡るような不思議な響きを持っており、耳というよりは脳に直接言ってくるかのようだった。

 光の方に目を凝らす。

 光の中に微かだが、“何か”がいる。

 あれは人影ではない。

 あれは―――――


―――――犬? 狼?


 声を発したつもりだったが、口からは空気の泡が上方へと上がっていくだけで、音は出なかった。

 しかし、光の中の主には伝わったようで、落ち着き払った声が再び聞こえた。


『私は何でもない。今やここに閉じ込められたモノでしかない』

―――――モノ?

『ああ』


 頭の中で呟いた言葉に、返す声。どうやら会話は通じるらしい。

 それに一種の安堵を覚え、少しだけ佇まいを直し光の先を見据えた。


―――――ここはどこ?

『ここは、どこでもない。あの世でもなければ現世でもない。お前のいる世界でもなければ、彼らが住まう楽園でもない』

―――――それって、どういう……。

『白き子よ。時間はない。ただ、私の言葉に耳を傾けるのだ』


 そう言われると同時に、光が急激に弱まり始めた。萎んでいくようなそれは、いつしか見た線香花火にそっくりだった。今にも闇の海水に浸されて、その火を消してしまうような脆さ。

 胸にどうしようもにない焦りが浮かび、慌てて光の元へと向かおうとした。

 しかし、それよりも早く光が、淡い光が自分の元へと差し迫ってきた。


―――――!?

『白き子よ』


 声は至極落ち着き払った調子で、言葉を紡ぐ。


『二つの卵が割れし時、楽園と混沌交じり合い、終焉は産声を上げる。

 白き子、白き神子。牙を剥け。唸りを上げろ。終わりは既に、宝を蝕み始めている』


 そして、光は自分の胸へと吸い込まれるように消えていき、後に残るのは深海の闇だけだった。

 胸の中に、ただ微かな温もりが灯っていた。悲しいようで、寂しいようで、温かいのに泣きたくなるような衝動。こみ上げてくる感情の渦に、眉根を寄せて胸を服の上から鷲掴みにした。

―――――!

 すると、再び身体が沈み始めた。

 胸の中に宿る温もりも消え失せ、いつの間にか息苦しさが蘇っていた。胸を圧迫する感覚に、口から残りの空気の塊が溢れ出る。

 目の前が霞む。眩む。いよいよ目の前がぼやけて見えてきた。

―――――イヤ、だ。くる、し! 死……や、だ。

 抗う術もなく、深海の底に沈む。落ちる。

 無抵抗な自分の先の運命を想像し、とてつもなく恐怖した。

 縋るように人間と同じ手を上へと伸ばし、やがて意識は落ちていき、そうして、そうして―――――


 ★☆★☆★


『ムク!』

『うわっ!?』


 耳元で吠えられて、四肢をだらんと投げ出し完全にリラックスして寝そべっていた体勢から、勢い良くムクは飛び起きた。焦げ茶色の瞳をカッと見開き、警戒を露にキョロキョロと辺りを見回す。

 フサフサの毛並みの見慣れた黒犬が、親友のジャルがムクを見下ろしていた。その表情は相変わらず無で、素晴らしいぐらい表情筋が死んでいるが、どこか心配そうな目をしていた。

 時間は、いつの間にか夜となっていた。

 ジャルが闇に溶け込んでしまいそうな錯覚を覚えながら、ムクは今し方吠えたのはこの親友なのだと理解した。


『ビックリしたんだけど、ジャール』

『悪い。俺が来ても起きなくてな。珍しい……と思って』

『あー、いや。ごめん。何か、爆睡してたみたいだな』


 改めて辺りを見回し、空を見上げる。満ちかけた月と、チラホラと輝く星空。

 確か最後に起きていたのは、じっちゃんとの散歩を終えてばっちゃんからオヤツの菓子パンを貰った後だった気がする。ムクは思い出す。それから凄まじい睡魔に襲われ、普段ならうたた寝程度で終わらすつもりの睡眠も、深いものへとなってしまったようだ。

 飼い犬は、飼い主と同じ時間に眠るのが多い。また、人以上に睡眠を要する為、大抵の時間をうたた寝や浅い眠りで過ごしてしまう。深い眠りにつくのは夜、数時間だけの事だけなのだ。故に、周りの音にも警戒し、いつでも反撃するように備えているのが犬の習性でもあった。

 しかし今日、珍しく昼頃に眠ってしまったようだ。

 そうすると、詩恩が帰ってきた事も秋太が帰ってきた事にも気づかなかったのか。

 居た堪れなくなり、ムクは黒目の大きな瞳を彷徨わせた。


『時折、前足がぴくぴくしてたけど、夢見てたのか?』

『あ? あー……うん。変な夢』


 ジャルの問い掛けに、ムクは未だぼんやりとした頭で頷いた。

 夢―――――深海の底。溺れていく自分がいて、抵抗もできないまま下へと落ちていく。息のできない苦しみと、何もできない恐怖に陥る中、そこで光と出会った。

 不思議な声。男とも女ともつかない、不思議な響き。

 あれは何だったんだろう、そこまで思ってふと、腹が盛大な音を鳴らした。


『……』

『……』

『……お腹空いた』


 昼から爆睡していた為、夕飯なんて食べていない。

 ムクはしっかりとした足取りで居間のある窓から少し離れた所にある、和室のある窓に向かう。その前のコンクリートの地面に、いつもエサ皿があるのだ。青いエサ皿は、詩恩が可愛いとの理由で選んできた物らしい。ムクにはその感覚がよく分からないが、ご主人が買ってきた物だ。それなりに気に入っている。しかし薄汚れたエサ皿には噛み跡が幾つもあり、これはまだムクが子犬だった頃に齧ってしまったものであった。

 やけに重い鎖を引きずって、エサ皿の前に到着する。

 今日の飯はどんなものかとエサ皿に目を向けて、その量が若干少ない事に気がついた。


『あれ? 少ないな』

『あ、すまん。ムク。三津波さんが蟻が来るから早く食べろって……すまん』


 ムクの言葉の意味にすぐさま気づいたジャルが、心底申し訳なさそうな声で謝ってきた。鳴き声にするなら『くぅーん』だ。


『あ、そうなの? うーん、ジャルなら別に良いや。今日は鮭トバ入ってるし!』

『そうか……』

『そうだ。鮭トバは幾つ入っていた?』

『四枚』

『ここにあるのは三枚……なら』


 ムクは鮭トバ(鮭を小さく切って、乾燥させた物。人間も食べられる)の一つを口に上手に加えると、すぐ近くまでやってきたジャルの前に置いた。きょとんとする親友の首筋に鼻を押し付け、一回だけ鳴いた。親交の証だという意味を込めて。すると途端、無表情のまま硬直していた顔が微かに明るくなった。そうして二匹で、軽い談笑を交えつつ食事に夢中になっていると、


「ムクー、っと……黒いのも来てたのか」

『あっ』


 平屋の窓と網戸が開かれて、一人の中年の男が現れた。青い仕事着を着た、やけに長身の男だった。金見沢家の大黒柱事、兄妹の父親である金見沢家剣(四十三歳)である。剣は、深夜から夕方近くまでパンをコンビニやスーパーなどの店に運ぶトラックの運転手をやっており、家族一多忙な人でもある。しかし、だからと言って家族を蔑ろにせず、子供をからかったりそれで妻に怒られたり、ふざけたりはするも家族を大切にする良き男であった。

 それは、ムクにも当て嵌まる。

 今し方仕事から帰ってきたばかりなのだろう。剣は、疲れた表情にそれでも笑顔を浮かべ、手に小さな銀色の袋を見せた。


「よし、お前らに鮭トバをやろう」

『鮭トバ!?』


 何て今日は裕福な日なのだろう。

 ムクは大急ぎで剣の元まで駆け寄り、尻尾をちぎれんばかりに振った。

 すると、剣はニヤリと意地悪く笑い、何をするかと思えば今開けた網戸を閉めようとした。所詮、ムクに対する悪戯だ。


『させるかあああああああ!』


 素早く鼻先を網戸と網戸の間に挟ませ、荒業とばかりにこじ開けた。そして、目の前にあった鮭トバに喰らいつく。さながら今のムクは、獲物を目の前にした狼のような気分だった。嗅覚を擽る香ばしい匂いに、満足感を覚える。剣もムクの行動が分かっていたのだろう、網戸を器用にこじ開けたムクの頭を無骨な手が乱暴に撫で回す。


『ジャル、お前も食べろよ!』

『うん』


 そうして親友に声を掛け、ムクとジャルは暫し楽しい時間を過ごしていった。


 ★


 そうして時間は過ぎていき、時間は零時を回っていた。

 外は元々自然に囲まれた田舎である事もあり、外灯が少なくほぼ闇に近かった。今にも野生のフクロウが鳴き出すのではないかと、野犬が遠吠えするのではないかと思うぐらいだ。

 家の中は電気も消され、薄暗い闇だけが広がっていた。

 ムクは居間がある窓のすぐ傍で眠りについていた。先程深い眠りについていたせいもあり、ジャルや家族がぐっすりと眠る中、自分だけ浅い眠りを繰り返していた。

 ちなみにこの犬、多少とある家族の性格が伝染り、ビビリである。

 少し離れた裏庭から、ネコでもいるのか薮が揺れるその音だけで全身をびくつかせた。


(あー、何で昼から寝ちゃったんだろう! ジャルは爆睡してやがるし。日頃遅くまで起きているシーちゃんもシュウちゃんも今日は早くに寝たのか、家の中は真っ暗だし~! 怖い怖い怖いいいいいいいいぃぃ)


 もしもムクが人間だったら、耳を塞ぎ目をきつく閉じて縮こまっていただろう。いかせん犬なので、そんな器用な芸当はできず、ただジャルの隣に伏せて目を閉じるしかなかった。早く朝が来るのを祈りつつ、若干空き始めた腹に情けなく鳴きそうになった。


 カラカラカラッ、


 すると、窓を開ける音がした。


(うぎゃあ!?)


 とうとう我慢できず、ムクは飛び起きた。

 音はすぐ傍の居間に繋がる窓からではなく、庭の更に奥にある和室に繋がる窓からだった。

 聞き間違えようのない音に、弾む心臓。ムクは、隣でジャルが起きていないのを確認すると安堵し、それから音の出所に恐る恐る目を向けた。正直見たくなかった。しかし、怖いもの見たさが優ったのだ。


『あれ? シーちゃん? シュウちゃん?』

 

 かくして、そこには二人の兄妹が立っていた。

 それぞれ何故か制服を着ており、虚ろな目を夜空へと向けている。表情に生気は感じられず、例えるなら人形が歩いているような不気味さを漂わせていた。

 二人は、全開に開いた窓から裸足で庭へと降りた。その足取りも覚束ない。

 ムクは、急激に言いようもない不安に襲われた。


(シーちゃん! シュウちゃん!)


 急ぎ二人の元へと行こうと足を動かそうとしたが、あろう事か足は地面に縫い付けられたかのようにビクともしなかった。

 ならば近所迷惑も気にせず大声で吠えてやろうと口を開くも、そこから音が発せられる事はなかった。  

 脳裏に、深海の底に沈むあの忌々しい光景が鮮明に思い浮かぶ。

 しかし、そんなバカな事があるかとムクはその映像を打ち消した。今は、目の前の“異常”な雰囲気の兄妹が優先だ。


(どうしちゃったんだよ!? 二人共!)


 声にならない訴えをするも、無論届く筈がない。

 一匹狼狽するムクをよそに、二人はやけにフラフラと身体を左右に揺らしながら近づいてきた。

 身構えるムクの横を、二人は素通りしていった。まるでムクの存在など、見えていないかのように。

 そのまま玄関前を通り過ぎ、三津波の止めてある車の横を通り、裏庭への道を超えて、塀と塀の間を抜けた。


(シーちゃん! シュウちゃん! 駄目だ、戻ってきて! シーちゃん! シュウちゃん!)


 やがて二人の姿は、家の前の田んぼを超えて、川の橋を渡って更に向こうの山へと消えていった。

 それを呆然と見守るムク、そして無情にも見つめる満ちかけた月。

 その日の朝、金見沢家の兄妹は行方不明となった。

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