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Animal Moon-ムクと絶望兄妹-  作者: 神無月空
第一章:日常からの転落
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1-1 朝の温もり

 スズメが鳴いている。

 他愛もない世間話から、軽い喧嘩、寵愛の言葉を囀り続けている。

 空は夏特有の強い日差しが、朝からギンギラと地面を照りつけている。

 今日もまた、平和な朝がやって来たのだ。


『ふあぁ~……ぐあー、ぬあー、スズメがウルサイなー。焼くぞチクショーコノヤロウ』


 人間からしてみれば可愛らしい囀りも、犬であるムクにとっては喧しい喧騒でしかない。もし人間のように器用だったら眉を大いに顰めながら、悪態をぶつくさと呟いた。心なしか、近場の電柱の電線に止まったスズメたちが押し黙った気がする。

 ちなみに現在空腹だったので、スズメが美味しそうに見えたのは内緒だ。

 寝起きのせいで筋肉がガチガチに固まっているのを、前足と後ろ足を地面にピンと伸ばし解していく。

 犬歯を覗かせて欠伸を漏らしてから、ふと騒がしい平屋の家を見る。

 オノマトペで例えるならドタバタ。

 そんな音が聞こえてきそうな勢いで、居間を誰かが忙しそうに走り回っていた。残念な事に窓は曇りガラスなので、家の中を覗き見る事ができない。仕方ないので、耳を済まし会話に集中する事にした。


「秋太ー! 遅刻するよ。早く車に乗っちゃって!」

「母さん、俺の携帯知らない? 後財布も!」

「ベットの上でしょ! ほら、電車乗り遅れるから」


 声は、母親こと金見沢三津波(四十二歳)と、長男で高校三年生の金見沢秋太(十八歳)であった。

 ふと耳にした話では秋太は大分遠い県立の高校に通っているらしく、毎日始発の電車に乗って登校しているらしい。しかし、我が家から最寄りの駅まで大分距離がある。故に、毎朝早くに母親に車で送ってもらっていると聞いた。

 ムクは車が苦手というよりも、大嫌いである。あの不規則な振動が気持ち悪いの何でもない。まだ小さい頃は、怖くなってお漏らしをしてしまったのが恥ずかしい思い出だ。

 苦い思い出に唸っているムクをよそに、秋太と母親のドタバタとしたやり取りは続く。

 彼は根っからの朝が苦手な男で、文武両道、成績優秀、才色兼備といった言葉が当て嵌まる割にはどこか抜けている。忘れ物ばかりする困った男だと、秋太の妹は語る。しかし、そんな秋太の彼女はかなり可愛いとも語ってくれた。

 ムクには、高校も電車も聞いただけの物で詳しい概要は分からないのだが(ただし、彼女という言葉にだけ敏感である)、それでも家族の話を聞くのは好きだし、大好きな家族の事を知るのはとても楽しかった。

 ただ不思議に思うのが、秋太がそんなに優れている完璧人間なのか、だ。

 家にいる時の彼は、やれ忘れ物をしたり、やれ人に命令したりと、唯我独尊を貫くあまり母親や妹を困らす常習犯のような人だ。

 それでも、そんな男のゴツゴツした手に撫でられるのが、ムクは好きであった。

 秋太の不器用な優しさが、心に温かく染みこんでくる。


「んじゃ、行ってきます!」


 物思いに耽っていると、引き戸の玄関から秋太が出てきた。後に母親が続き、ムクが見ているのに気づくと「ムク。後でご飯あげるからね」と朗らかに言ってきた。とりあえず、家族の中で一番大好きな母親とご飯という両方の幸せに尻尾を振り小さく唸っておく。

 すると、目の前に影ができた。


「ムクー。行ってくるな」


 秋太だ。高校生になってから異様に伸びた長身を屈ませ、ムクと目を合わせると口の端を吊り上げながら頭に触れてきた。


『おはようシュウちゃん! ベンキョー頑張るんだよ』


 今年は金見沢家の兄妹にとって大事な年だ。そう言っていたのを、これでも記憶力は良いムクはしっかりと覚えていた。だからそう励まし、鼻先を腕に擦りつけてた。

 秋太は小さく笑み、それから母親が待つ白い車の中に消えていった。

 車は恐ろしい唸りと共に動き出し、後ろへ下がり、遠くに続く道路へ走らせていき、やがて見えなくなった。

 満足いくまで見送ったムクはお座りしようとして、ふと聞こえた足音と感じた気配に半分垂れた耳をピクリと揺らした。


「倅め。散歩に行くぞ」

『じっちゃん! よし、行こう行こう!』


 平屋をグルって囲うようにある庭。その裏庭からツナギ服を着た小柄な老人が現れた。優しそうな顔立ちとは裏腹に、声は嗄れていながらも荒々しい。秋太の祖父、金見沢亮(七十歳)だ。

 毎朝のムクの散歩は、この老人の役目でもあった。


『今日は前の田んぼ道? それとも裏の宮林さん家の山方面? それとも坂の先の畑か? 俺的には、蜂の巣ブンブンの橋方面も良いな。あそこはそろそろマーキングが薄れる頃だし……』


 散歩する事が大好きなムクは、ピョンピョンと祖父の周りを忙しく跳ね上がった。興奮が隠し切れないのだ。

 祖父はその姿に皺くちゃな顔を更に歪めて、声を立てて笑った。それから、聞こえている筈がないのにムクの問いに応えてみせた。


「今日は蜂の巣の方面が良いな」

『よっし!』

「ミツバチに刺されるんじゃねえぞ」

『うっ、それはもう嫌ってほど経験したから……』

「ほら、大人しくしねえとリードが付けられない」

『はーい』


 青い首輪に青いリードを付けられる。ムクとしては行動が制限されるのは些か不便で仕方ないのだが、それでも散歩ができるので決して嫌がろうとはしない。むしろ、程良く溜まった尿意を早く放出させたい事もあり祖父を急かす。その後すぐ、危ないと注意された。

 三メートルぐらい伸びるリードをブラブラ揺らし、ムクは祖父との散歩を満喫したのだった。



 ―――――それからニ時間後。秋太が家を出て、時間はかれこれ八時を示していた。



 他の犬より聡明なムクは、開けられた窓の隙間から時計を確認して「そろそろかな」と居間の向こう側にある和室に目をやった。

 程なくして、母親の第二波の叫びが家中を包む。


「詩恩ー! しーちゃん! もう八時よ、そろそろ身支度しなさい! 二度寝は終わり! 起きて!」

「んー……後五分したら、起きる。起きるから、うへへ……」

『……この兄にこの妹ありー、ってか?』


 和室は寝室となっており、秋太を除いた父、母、妹の親子三人がそこで眠っていた。ちなみに秋太は更に隣の和室を独占しているらしい。そして今、金見沢家の長女こと秋太の妹、金見沢詩恩(十五歳)が夢の世界に旅立っている真っ最中であった。

 今年で中学三年生になる彼女は、恐らく兄よりも寝起きが悪いに違いない。母親の叫びを意に介さない様子でうつらうつらしている。

 文武両道で才色兼備の秋太に比べて、詩恩は平々凡々、非の打ち所のない普通の少女だ。ただし、性格は少々逸脱しており、楽しい事と面白い事が大好きな破天荒娘である。人を笑わせるのが大好きらしい。そして、これは彼女の特技であるが演技力が半端ない。妹のおふざけには少々困ると、彼女の兄は語る。

 ムクはそれを聞き、何故かすぐさまそう言われる詩恩に納得した。

 彼女は演技こそするが、根本的な部分で自分を偽らない人なのだ。

 どこまでも真っ直ぐに優しい少女なのだ。

 天真爛漫な勢いで飛びかかってくるのは少しだけ痛いが、それでも嫌な気がしないのは、詩恩特有の無邪気な想いがあるからなのだろう。


『けっきょくのところ、似たもの兄妹だよな。ふふー』

「ムク、おはようさん」

『あ、ばっちゃんおはよう!』

「今日は暑いからね、水はしっかり飲んどくんだよ」

『ばっちゃんもね!』

 

 家の中でようやく動き出した詩恩と、それを呆れ気味に見ている母親を見守っていると、玄関の方から割烹着を着た老人が出てきた。金見沢家の祖母、金見沢初恵(六十六歳)である。一際小柄な体格をしているが、皺くちゃな顔に埋もれた目な気が強そうな色を湛えていた。実質、祖母は家族一気性が荒く、祖父を尻に敷いていた。祖母の一方的な怒鳴り声は金見沢家では当たり前の事だから、ムクは最早気にせず昼寝をしているのが常であった。何だかんだ言い、家族の中で一番オヤツをくれるのがこの祖母なのである。

 祖母の手には枝切りハサミが握られている。植木の手入れかなと、ムクは祖母に近づき小さく鼻を鳴らした。すると皺くちゃな手で頭を無造作に撫でくり回された。


「それじゃ、行ってきまーす! って、婆ちゃん。外にいたんだ!」


 撫でられる感覚を目一杯堪能していると、今し方祖母が出てきた玄関から今度は詩恩が飛び出してきた。すぐさま祖母の存在に気づき、改めて「行ってくるね」と声を掛けている。

 ムクは祖母から離れ、詩恩の方へと足を向ける。


「あ、ムクもおはよう。今日も可愛いなあもう!」

『おはようシーちゃん! 今日も騒がしいね!』

「良い子でお留守番しててねー」

『シーちゃんも、お友達と仲良くねー』


 もし犬が二足歩行だったら、ムクは今すぐ手を振り返したい衝動に駆られながら、母親の車に乗る詩恩を見送る。

 そして、秋太の時と同様に車が遠く見えなくなるまで見守り続けた。

 祖母は既に、植木や庭の手入れを始めていた。

 先程の騒がしさが嘘のように、静けさが金見沢家に戻ってきた。朝のあの兄妹は、いつしか体験した台風ではないのだろうかとさえ考える。

 あながち否定できないなと思っていると、ぐうぅ、と腹が素直に空腹を訴えかけてきた。


『あー……』


 空を見上げる。

 視界二百五十度いっぱいに広がる青々しい空。

 騒がしい朝のやり取りも一段落つき、ムクは独りごちた。


『腹減った』


 今日も平和だ。

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