プロローグ
「おーい、ジロキチー。どこにいるんだ?」
少し昔の話をしよう。
どのくらい昔なのかというと、今を生きる若者が到底想像できない話。
縁側でのどかに日向ぼっこする老人が、辛辣と味わってきただろう話。
凄く遠い話ではなく、ちょっとした昔話。
二百年間の鎖国を終え、大日本国憲法、日清戦争、日露戦争が行われた異国との戦いの後。
時代は昭和となり、我が国は急激な発展を遂げると同時に世界恐慌へと陥った。
とある大きな戦争が、小さな島国の運命を変えてしまった。
その頃にはもう既に彼らはいて、私達人間と密かな交流を交わしていた。
彼らは人間ではない。
人間と同じ姿形をした、雄々しき獣である。
「あなた。ジロキチはいましたか?」
「お前。いんや、あの野郎。どこほっつき歩いるのやら」
「きっとまた、プラプラ帰ってきますよ」
「そのついでに、徳川の埋蔵金でも持ってきてくれねえかな」
「おっとー! おっかー!」
彼ら獣は、後ろ足で立ち、己の主を表す耳や尾をつけ、人の言葉を話す。
人間のように賢く、獣であるように本能に忠実な存在である。
しかしその一方で、我々人間との関わりを心の底から楽しみにしてくれている何とも不思議な獣であった。
人間と獣は互いに友愛を築き、互いに共存する道を歩んでいた。
「うら子! それに、ジロキチじゃないか!」
「ただいまー!」
「ワンッ!」
彼らはこう言う。
我々の世界、動物たちの幸せの楽園『カムーン』。
その世界は、月の裏側に存在したそうだ。
★☆★☆★
金見沢家の愛犬ムク。今年で二歳になる、ゴールデンレトリバーの父親とラブラドールの母親の血統が混じった雑種犬で中型種。成犬一歩手前の立派なオスである。
絶賛恋人募集中であった。
『俺もう、立派なオトナの犬になったのに! 可愛い女の子が現れないってどーいう事だよー!?』
『いや、知らねえよ』
平屋の家の芝生と砂が入り混じった庭の一角で、ムクはおすわりをしながら嘆いていた。
それに答えるのは、黒い目に黒いフサフサの毛並みのオス犬ジャルである。ムクよりも体格が遥かに良い大型犬だ。ちなみにムクはそれなりに毛並みが長く、白に混じって耳やおでこが茶色い。家族からは「おでこに十円玉がある!」と言われている。どうでも良いが、コンプレックスだ。
金見沢家は、人で賑わう街から離れた場所に住んでいた。辺りには自然が溢れ、狐や狸といった野生動物が生息する森や川が延々と広がっている。ご近所さんともそれなりの距離があり、家のすぐ傍には田んぼがある。道路はさすがに敷かれているが、家と道路を挟んだ向こう側も田んぼと森という徹底的である。
そんな人里離れた所に住むムクは、出会いが皆無なのはご近所に犬がいないからと分かっていたが、叫ばずにはいられなかった。
『なあジャル! 俺カッコイイよね!? 可愛いよね!? 愛でたくなるよねえ!?』
『どっち?』
『それなのに何で出会いがないのかなー!?』
『近所が遠いからじゃないか』
『そんな分かりきった事言わなくても良いじゃないか!』
『……だったら俺、どうすれば良いんだ』
ムクの破茶滅茶な叫びに、呆れというよりも淡々と返すジャルはその表情を一切変えず話を聞いてくれている。興味がないわけではなく、彼は口下手で表情筋が死滅しているだけなのだ。ただその性格は、花を愛でるのが好きと果てしなく優しい。
その性格を知っているからこそ、ムクは心置きなくジャルに愚痴っているのだ。
『はあ……引っ越したい』
『その場合、俺みたいに野良犬になるわけだけど』
『それは嫌。面倒くさいし、皆と離れたくない』
今もこうして淡々と軽口を交わし合う姿は、傍から見たら(しかし、あくまでも彼らは犬である)ムクが一方的にジャルに当たっているだけにしか見えないかもしれない。けれども、当の本犬たちは楽しくじゃれ合っていた。
ムクとジャルは親友である。
一匹平凡に暮らすムクが祖父と散歩をして家に帰ると、寝床にジャルが丸まっていたのが二匹の出会いだった。
不審犬に警戒する家族をよそに、まともに犬付き合いがなかったムクは手放しで喜んだ。その態度に何故か、自分の寝床で勝手に眠っていたジャル自身驚いた。怒られると思ったのだろう。だが、ムクにしてみれば怒るというよりも喜びの方が優っていた。
もう一度言うが、ムクは辺鄙な所に住んでいるせいで犬付き合いがないのだ。
故に、友達が欲しかったのだ。
元々深く物事を考えない性格をしているのも幸いし、二匹はあっという間に仲良くなった。それはもう、家族に公認されるぐらいにだ。
『ママもパパも、じっちゃんもばっちゃんも、シュウちゃんもシーちゃんとも俺は離れたくない!』
『だったら諦めるんだな』
『うー……』
最もな指摘を貰い、ムクはその場に伏せた。白い毛に覆われた腕に鼻先を乗せ、子供っぽく不貞腐れる。
対してジャルはおすわりの状態のまま、身体を更に丸めてムクの垂れた耳に鼻先を押し付けた。
まるで慰めるような動作に、ムクは擽ったさを覚える。
『……俺は、今が良い。ムクがここにいるおかげで、俺は友達に、なれたから』
そう言われ、目だけ上に向ける。
表情を変えないものも、親友の真っ黒な目に微かな優しさが滲みでているような気がした。
照れくさい感情が胸の内側を擽る。無意識に白くふさふさの尾を揺らし、喜びの感情を表す。すると、ジャルも黒い尾を揺らし、同じ気持を表しているようだった。
『ま、まあそこまで言うならいっか! 恋人がいなくたって! ……いや、欲しいけど。でも、ジャルがいるし! それに俺には―――――』
「ムクー!」
『シーちゃんだ!』
不意に溌剌とした少女の声が聞こえ、ムクは勢い良く立ち上がった。ジャルもその行動が分かっていたのか、顔を離し立ち上がった。
庭から真正面の、背の低い石造りの塀から黒髪が覗く。やがてすぐさま一人の少女が姿を現した。夏の日差しに明るく映える白いセーラー服に、黒いスカートを指定基準の長さに穿いている少女だった。遠い学校を自転車で通っているからか、汗だくであるものもその顔は屈体のない笑みを浮かべていた。
「ムク! それに、黒ワンコ!」
二匹の元まで来た少女は、やはり笑みを浮かべたままその場にしゃがみ込んだ。慣れた動作で二匹の頭を撫で、揉みくちゃに掻き回し、頬ずりをしてくる。夏の暑さにも負けない愛情だ。ムクは尻尾がちぎれるのではないかとばかりに全力で喜び、ジャルは若干嫌そうな顔をした。しかし、犬の表情を人間が分かるかというと微妙な所だ。故に、少女は気づかないまま二匹を愛でまくった。
「おー、ムク。よしよし。今日も黒ワンコはムクに会いに来てたのか! もういっその事、君達結婚しちゃいなよ!」
『いや、それは無理だから』
『わーい、シーちゃんだ! 今日も中学校は楽しかったー? お友達はー?』
『ムク。俺の訴えを聞いてくれないか……?』
わんわん、ぎゃーぎゃー。
オノマトペで例えるならこうだろう。
もし犬の前足が人間のように器用に動くのだったら、ジャルは今すぐ耳を塞ぎたい衝動に駆られただろう。それぐらい喧しい声が響き渡った。ここがド田舎で、ご近所がいないのがせめてもの幸いである。
その時、家の窓が勢い良く開かれた。
「ムク! それにバカ詩恩! うるさい!」
「あ、秋ちゃん。帰ってたのー?」
『あ、シュウちゃん! シュウちゃんも遊ぼう!』
「ムク。お前、私というものがありながら……!」
中からブレザーを着たままの少年が一人、怒りながら顔を覗かせてきた。そして、騒ぐ犬一匹と少女を見て眉を吊り上げた。ムクは少年の姿を見て増々嬉しくなり、長い鎖を引きずりながら窓まで走り寄っていく。その様子に少女が演技がかった仕草で嘆く。それを無感動に見つめるジャルは、仕方なく親友の後を追う。
最早カオスである。
「おー、ムク。それに黒犬も。あのバカ妹の面倒見てくれてありがとうな」
「それはどういう事だ! バカ兄貴!」
「文字通りだ」
「んだとー」
そんな軽いやり取りが頭上で交わされているのをよそに、ムクは少年に撫でられてご満悦である。
ジャルは無言で、ただ幸せそうな親友の姿を見守っていた。
「あら、詩恩。帰ってたの」
「あっ、お母さん。うん、ただいま」
「中に入っちゃいなさい。秋太も、手を洗って。お父さんもう帰ってくるから、ご飯にしちゃおう」
『ママー!』
「ムク。それにお友達も。ご飯にしようね」
『ヤッター!』
『ありがとうございます』
二人の兄妹は、まだ罵り合いながらも仲の良さそうな様子で家の奥へと消えていった。
やがて、時間も少し過ぎて。。
恰幅の良い女性の声が聞こえ、少年少女の声がそれぞれ聞こえる。やがて賑わいは更に増し、老人たちが夕飯を急かす声も聞こえてくる。そうして暫く経ち、低く太い声も聞こえてくる。
金見沢家が全員揃ったようだ。
祖父母のいる部屋でワイワイと食事をしているだろう彼らの姿を思い浮かべながら、ムクはエサ皿に出されたドックフードをジャルと一緒に食べていた。今日はオマケだとビーフジャーキーと乾燥チーズが入っている。それも親友と分け合い、仲良く食べた。時折、家の中から美味しそうな匂いが漂うのに、食欲が更に掻き立てられる。
そんあありふれた日常の中、ムクはどこか満悦感を覚えながら親友に話しかけた。
『なあ、ジャル』
『ん、何?』
『やっぱり俺、今のままが良い。だって、スッゲー幸せなんだもん』
『……そっか』
陽が暮れ始めた夕空には、山へと沈んでいく太陽と、うっすらとした月が浮かび上がっていた。
陰と陽のものが一様に空に存在する。
少し不思議な気持ちを覚えながら、ムクは口の中で噛み砕いたドックフードを呑み込んだ。
(優しいママがいて、強いパパがいて、朗らかなじっちゃんがいて、怖いけど優しいばっちゃんがいて、カッコイイシュウちゃんがいて、面白いシーちゃんがいる。そして、隣にはジャルがいる。うん。そんな日が、ずーっと続けば俺は幸せだ)
淡い願いは、胃に落ちた乾燥チーズのように静かに溶けていった。
淡い想いは、口の中のビーフジャーキーのようにバラバラに噛み砕かれていった。
ムクの夢は、どんどん消えていくドックフードのようになくなっていった。
全ては夢幻。
それでも、願わずにはいられなかった。
この平凡にありふれた幸せが、一生続きますよう―――――