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悪妻の錨

掲載日:2026/10/09

桶の水を頭から浴びせられても、ソクラテスは平然と外套の雫を払った。


「雷鳴のあとには、激しい雨が降るものだな」


広場に集まった弟子や若者たちが、どっと笑う。妻の怒りさえ機知に変えてみせた賢者。その逸話は、明日にはアテナイ中の噂になり、やがて「偉大な哲学者と悪妻」の物語として語り継がれるのだろう。


二階の窓から空の桶を抱えて見下ろしながら、クサンティッペは鼻で笑った。


(よくおしゃべりになる口だこと。雷鳴を落とさせたのは、どなたかしら)


家に戻ると、濡れた床へ麻布を叩きつけた。粉を挽く石臼の底には、今夜の麦粥にも足りないほどの穀粒しか残っていない。幼い子どもたちは腹を空かせ、部屋の隅で身を寄せ合っていた。長男のランプロクレスは、父親譲りの頑固な顔で、空腹をこらえている。


夫のソクラテスは、朝になれば裸足で家を出ていく。アゴラを歩き回り、靴職人や鍛冶屋、身なりのよい若者をつかまえては、「善とは何か」「勇気とは何か」と問い続ける。相手が答えに詰まり、自分の無知を認めるまで、言葉の針を刺していく。


それが彼の言う「魂の世話」であり、神から与えられた使命なのだそうだ。


結構なことだ。真善美の探求は、さぞ高尚でお美しいことだろう。


けれど、その高潔な魂は、子どもの腹にひと匙のオリーブ油も運んではくれない。


裕福な弟子が謝礼の金貨を差し出した時のことを思い出す。ソクラテスは「知を金で売る気はない」と、相手を追い返した。あの誇らしげな横顔を思い浮かべるだけで、クサンティッペの奥歯が軋む。


「知を売る気はないですって? それならパン屋へ行って、その無垢な魂をちぎって麦粉と換えておいでなさいよ!」


怒鳴りつけても、夫は大きな目をこちらに向け、穏やかに言うだけだった。


「クサンティッペ、富を求める者は、果てしない欲望の奴隷になる。足るを知ることこそ、神に近づく道なのだよ」


理屈では勝てない。言葉を武器に生涯を研ぎ澄ませてきた男と、日々の糊口をしのぐため手を荒らしてきた女とでは、交わせる刃の鋭さが違う。


だから彼女にできるのは、怒鳴ること、足を踏み鳴らすこと、頭から水を浴びせることくらいだった。


「まったく、あの女の気性の激しさといったら」

「先生もお気の毒に。あんな悪妻を娶るなんて」


通りを歩けば、近所の者たちは夫に同情の目を向け、彼女を蛇蝎のように睨む。


いい気なものだ。誰がこの家を支え、ツケの溜まった肉屋に頭を下げ、赤子の尻を拭いていると思っているのか。


夫が「人間はいかに生きるべきか」を考えていられるのは、妻が泥にまみれて「今日をどう生き延びるか」を算段しているからではないのか。


夕暮れ、濡れ鼠のソクラテスが、何食わぬ顔で戸を押し開けた。


「ただいま、クサンティッペ」


「お戻りでしたか。水も滴る名士様」


冷ややかに言うと、夫は困ったような、どこか楽しげな顔で禿げた頭を掻いた。それから懐を探り、小さな包みを食卓に置く。


開けば、干した無花果と硬いチーズが入っていた。


「プラトンの家に寄ったら、持たせてくれた。子どもたちに食べさせるといい」


「弟子から施しを受けるなと叱った方が、弟子の親の施しを持ち帰るのですか。矛盾していらっしゃること」


「友は、私の飢えを憐れんだのではない。腹を空かせた子どもたちを思って差し出してくれたのだ。真心を無下に断るのは、無知よりも傲慢な悪徳だからね」


また屁理屈だ。


クサンティッペは返事をせず、チーズを手早く切り分けた。飢えた小鳥のように待っていた子どもたちへ、一切れずつ渡す。子どもたちは夢中でかぶりついた。


その頭を撫でていると、ソクラテスが穏やかな眼差しでこちらを見ていた。


「皆が私を『悪妻』と呼んでいるのをご存じ?」


低く尋ねると、夫は薄い唇を緩めた。


「知っているとも。先ほどもクリトンに言われたよ。『なぜあのようなじゃじゃ馬を追い出さないのか』と」


「それで、なんと答えたのです」


「優れた御者は、扱いやすい馬ではなく、気性の荒い馬を選ぶものだ、とね。お前と暮らせるなら、世のあらゆる人と対話することも、私には造作のない修業になる」


クサンティッペは深く息を吐き、布巾を絞った。


「どこまでも、ご自分に都合よく世界を解釈なさるのね」


「そうかもしれないな」


ソクラテスは静かに微笑み、彼女の荒れた指先に目を落とした。


「だが、このアテナイで私を哲学者とも、神の代弁者とも、鼻持ちならない詭弁家とも呼ばず、ただの『無力で甲斐性なしの男』として叱ってくれるのは、お前だけだ」


その声には、いつもの問答のように人を煙に巻く響きがなかった。


「お前が怒ってくれるおかげで、私は自分がただの泥人形にすぎないことを忘れずにいられる。……感謝しているよ、我が妻よ」


「……馬鹿な人」


クサンティッペは背を向け、暗がりで小さく鼻を鳴らした。


そんな言葉で誤魔化されてやるものか。明日になれば、また麦粉の心配をしなければならない。夫はきっと、靴も履かずにアゴラへ出かけ、飽きもせず問答を始めるのだ。


やがて夫が国家を冒涜したと訴えられ、民衆裁判で死刑を宣告される日が来る。


冷たい牢獄で毒杯を仰ぐ夫にすがり、人目も憚らず泣き崩れる、その時まで。


クサンティッペは、アテナイ一の「悪妻」であり続けるつもりだった。


あの男を、地上につなぎ止めておくために。


◇◇◇


もし、この二人が現代の日本で暮らしていたら。


夫婦の毎日は、こんな具合だったかもしれない。


タワーマンションどころか、築四十年の木造アパート。家賃の引き落とし日が近づくたび、クサンティッペの胃はきりきりと痛む。通帳の残高は、ついに三桁になった。


夫のソクラテスは七十歳手前。無職。今日も朝から近所のスターバックスや駅前のロータリーに入り浸っている。


彼を囲むのは、裕福な家の大学生や、意識の高い若手起業家たち。若者たちは「自分探しのサロン」や「現代思想の読書会」の主宰者を慕うように、彼の話へ耳を傾けていた。


「先生! 先日の講義、目から鱗でした。ぜひ、これを受け取ってください。コンサル料として十万円……いえ、三十万円振り込ませてください!」


裕福なゼミ生が頭を下げて封筒を差し出す。ソクラテスは穏やかに微笑み、それを押し返した。


「いらないよ。知の共有はビジネスではない。真理をお金に換えてしまったら、私の言葉は濁ってしまうからね」


若者たちは「さすが先生!」「本物のインフルエンサーだ。世俗の拝金主義とは次元が違う」とSNSに投稿する。Xでは「#本物の賢者」「#ミニマリズムの極致」が話題になった。


その頃、クサンティッペはスーパーの閉店間際、見切り品のうどん玉とモヤシをカゴに入れていた。会計の段になって、レジに「残高不足です」と告げられる。


夜、よれよれのフリースを着たソクラテスが、穏やかな顔で帰宅した。


「ただいま、クサンティッペ。今日もよい対話ができたよ」


「……あんた、家賃はどうするの。今月末、更新料も払えないって言ったわよね? 光熱費の督促状、また来てるのよ!」


クサンティッペが詰め寄っても、ソクラテスは声を荒らげず、諭すように首を横に振る。


「物質的な豊かさに執着するから、不安になるのだよ。足るを知り、ただ生きていることに感謝すれば、心は乱れない」


「能書きはいいから金を入れて! 子どもの給食費だって引き落とせてないのよ。弟子からお金をもらってきなさいって言ってるでしょ!」


「彼らから対価を取れば、私はソフィスト――金目当ての詭弁家と同じになってしまう。人間にとって一番大切なのは、魂をより善くすることだ」


「その魂とやらで、子どものお腹が膨れるわけないでしょ!」


クサンティッペは、台所の洗い桶をつかんだ。


水を浴びせられたソクラテスは、濡れた眼鏡を拭き、配信中のスマートフォンに向かって呟く。


「雷鳴のあとには、激しい雨が降るものだね」


弟子たちのLINEグループやオンラインサロンは大盛り上がりだった。


「先生、また奥さんにやられてる……」

「絵に描いたようなモラハラ悪妻だな」

「先生があんなに高潔なのに、奥さんは物質主義すぎる」

「早く離婚して、僕たちのシェアハウスに来てください!」


クサンティッペはネット上で「鬼嫁」「悪妻」として祭り上げられ、好き勝手に叩かれた。


けれど、彼女が弁護士に相談すれば、話は少し違って聞こえるだろう。


「生活費が入っていないこと、ご主人が収入を得られる機会を断っていること、ご家庭の家計をどう話し合ってきたか。まずはそのあたりを整理しましょう。婚姻費用の請求や離婚も含め、取れる手段はあります」


弁護士は書類をめくり、少し言葉を選んでから付け加える。


「ただ、請求が認められても、相手に収入や財産がなければ、実際に回収できるとは限りません」


そう。一番の絶望は、裁判に勝つかどうか以前に、差し押さえるものが何もないことだった。


夜中、子どもたちが寝静まったあと。ソクラテスが「弟子の親御さんから、規格外のリンゴを分けてもらったよ」と、申し訳なさそうに差し出した果物を、クサンティッペは悔し涙をこらえながら剥く。


「……あんた、ネットで私のこと、悪妻だって叩かれてるの知ってる?」


「知っているよ。世間は目に見える現象に囚われやすいものだからね」


「だったら否定しなさいよ!」


「真理を知る者は、世間の風評など気にしないものだよ」


どこまでも論破できず、どこまでも自分を棚に上げる夫。


世間では「無欲で徳の高い聖人」と称賛され、家では生活費を入れない居候。もし現代なら、クサンティッペが告発の文章をネットに投稿して炎上するか、週刊誌に「高名な哲学者S氏、家庭内ネグレクトと経済的DVの真相」と書き立てられる未来が見える。


それでも彼女は、子どもたちのためにリンゴを剥く。


「悪妻」の名を背負わされるのは、古代も現代も変わらない。


変わったのは、その評判が広場の噂話から、画面の向こうの無数の声になったことだけだった。


その夜、クサンティッペはスマートフォンを手に取り、短い投稿を書いた。


「うちの人は今日も靴も履かずに広場で油を売って、弟子からの謝礼すら突き返してきた。今夜の麦すらないのに、神の使命とか言っている。誰かあの男を働かせる問答を教えてほしい」



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― 新着の感想 ―
ソクラテスの逸話を現代に当てはめたところが面白かったです。 ソクラテスの気持ちも分かる気がしますが、妻の立場を考えると、そちらにも同情してしまいます。
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