第7話 義兄弟の密談(アルフレード視点)
「アルフレード、お前あれじゃ駄目だろう」
侯爵家との長い話し合いを終えた夜。
あの頑固ジジ……侯爵閣下があの後もごねにごね、話し合いが難航したため、夫人の一声で客間に泊まらせて頂くことになった。
「さっさと帰れ小僧!!」と叫ぶ侯爵を難なく自室へ連行していく夫人の手腕には感服した。
こっそり客間を抜け出し、エレナの兄ルカの部屋に入ると、悪友の顔に戻った彼に、開口一番に先程までのありさまを揶揄われた。
「俺だってわかっている」
俺はソファに深く身を沈めると、後悔から両手で顔を覆った。
「完全に失敗だ」
ぐったりと身を投げ出し、もたれる俺を見て、ルカが笑った。
少し明るめの飴色の髪。
細めた深緑の瞳が、エレナによく似ている。
だが柔和そうな印象に騙されてはいけない。
こいつはかなりの変人で曲者だ。
10年前。
隠れて暮らしていた俺を「面白そう」と単独で探し出し、接触を図ってきた変わり者。
それ以来、侯爵に隠れて秘密裏に交流を続けている。
そして若干性格が悪い。
2歳年上という理由だけで、この俺に兄貴風を吹かせ、さらに人を揶揄うのが趣味という。
「お前の緊張っぷりに、笑いを堪えるのに必死だったよ」
向かいに腰掛け、酒を注ぎながらルカは愉快そうに続ける。
「エレナのことを見過ぎだ。お前の視線で妹に穴が開くんじゃないかとハラハラしたぞ」
「仕方ないだろう。彼女に会うこの日を10年も待ったんだぞ。しかも、お前から聞いていたよりも、さらに美しくなっているじゃないか!」
そう言って、彼女が応接室に入ってきた時のことを思い返す。
《初めまして。エレナ・スフォルツィアと申します》
そう言った彼女を見て、俺が立ち上がったのは本当に無意識だった。
吸い寄せられるように歩み出し、気がついたら彼女の目の前に立っていた。
《え…》
顔を上げた彼女の、驚きに丸くなった瞳。
幼い頃、出会ったあの時とそっくり同じその表情。
やっとだ。
やっと会えた……!
俺は歓喜した。
全身の血が沸騰したかのように熱を持ち、心臓は早鐘のようにうるさく鳴っている。
溢れそうな涙を、必死で堪え──。
「いやいや、そこで優しくにっこり微笑もうよ。お前の真顔ほんと怖いから」
「……緊張して死にそうだったんだ」
回想の途中でルカに思いっきり突っ込まれ、俺はため息を吐いて彼を睨んだ。
「だいたい、彼女を目の前にして緊張せずにいられる奴がいるか!? 柔らかく揺れる栗色の髪。優しげな面差し。鈴の音のような可愛らしい声。まっすぐ伸びた背筋。あの魔力展開を見たか!? この世のものとは思えない、信じられない美しさだった! それに、自分の境遇にも不満を溢さず、こんな得体の知れない俺との婚約さえ受け入れる胆力! 優しさ! 女神の化身だと言われても納得できる」
「長い長い。愛が重い」
「動揺のあまり、あんな言い方をしてしまった自分が憎い……」
「そうだな。『あとは君の承認だけなんだ』は酷いよな。決算書類の回収に来た財務官みたいだったもんな」
「ぐっ……」
ルカが輝かんばかりの笑顔で追い討ちを掛けてくる。
「あと『国王陛下からお言葉を』のくだりも、逃げ道塞ぐ感じで卑劣だよな」
「うぐう……」
「エレナ、お前のこと完全に仕事先の上司くらいに捉えてるぞ、あれじゃあ」
「……」
もはや虫の息の俺を見て、ルカはやれやれと肩をすくめた。
「10年ぶりに、やっと会えたっていうのに」
「ああ、やっと。本当に……彼女と正式に婚約できたんだ。夢の中にいるみたいだ」
そう、やっとだ。
やっと、彼女に会いに来ることができた。
彼女の婚約者になってから10年。
ずっと侯爵に邪魔をされ続けてきた。
彼女に贈り物を贈ることも。
彼女に手紙を贈ることも。
彼女に会いに行くことも、全て。
領地や屋敷に結界を張られたり、情報戦でも何度も敗れた。
時には互いに流血する肉弾戦も行ったし、手紙を送ろうと必死で習得した転送魔法まで防がれた時は、侯爵の凄さに本気で絶望した。
今日だって、婚約者候補白紙の情報を、ルカが侯爵より先に掴み知らせてくれなければ、本当に危なかった。
「知らせを送ってたった1日で、飛龍に乗って1人で庭に突っ込んで来るんだからな。最高に笑ったぜ」
領地で知らせを受け取ったのは昨日の昼。
馬車で20日かかる距離を、部下の制止も振り切って最速の飛龍に飛び乗り、休憩も挟まず全速力、丸1日で突き進んだ。
「……本当に感謝している。公爵領に入った時、侵入妨害用の大型魔法陣が屋敷の上空に展開直前なのが見えて、心底ゾッとしたよ」
侯爵は心の底から俺を嫌っている。
10年前、侯爵を脅し、卑怯な手段でエレナを手に入れたからだ。
完全に俺が悪いのはわかっている。
悪魔のようなやり方に、自分でも引いているくらいだ。
だが、当時の俺が彼女を手に入れるには、他にどんな方法があったというのか。
「あんな必死で来たくせに、『好き』の一言もないんだもんな」
「……俺だって、本当は伝えたかった」
愛している、と。
君の隣に立つことだけを、夢見てきたと。
「だが無理だ」
彼女に会うためだけに、これまで必死で生きてきた。
だが、実際に目の前に立つ彼女を見たら、頭が真っ白になった。
歓喜と同時に身体の芯は急激に冷え、すぐに逃げ出したい程の恐怖に包まれてしまった。
「……俺の気持ちを伝えたとして」
俺は目をきつく閉じ呟いた。
「もし彼女に拒まれたら? 恐怖や軽蔑の眼差しを向けられたら?やっとここまで辿り着いたのに。それこそ、もう俺は耐えられない」
燃えるような魔力を抑えるのに3年。
侯爵と何とか渡り合えるようになるのに、さらに2年。
侯爵から勝利を勝ち取るまでに、もう3年かかった。
彼女が安心して暮らせるように、内政を一層整えるため、父から爵位を継いだのが2年前。
渋る侯爵とずっと交渉を続けてきたが、もう限界だ。
「彼女は俺を覚えていない。彼女も突然のことに混乱しているはずだ。俺の気持ちを…全てを伝えるには、まだ…」
消え入りそうな声で話す俺に向かって、ルカが「はいはい」と軽く相槌を打つ。
「お前の気持ちもわかるが、親父達は、お前との契約魔術のせいで詳細は何も話せないんだから、後はお前が頑張るしかない」
珍しく真剣な顔でこちらを見据えてきた。
優しげな深いエメラルドの瞳に、彼女が重なる。
「まずはもう少し仲良くならなきゃな。さすがに、今の上司と部下みたいな関係のままじゃ困るだろ」
「……そうだな」
「何にせよ婚約おめでとう、未来の義弟よ。とりあえずは……まあ、笑顔の練習からだな」
ルカから差し出されたグラスに、了解の意を込めて俺からもグラスを押し当てる。
グラスを持つ手にはめた、刺繍に覆われた白手袋が目に入る。
無意識に目を細め、手に力が籠った。
愛している。
彼女にそう伝えるには、全てを話さなければならない。
侯爵の怒りももっともだ。
結局俺は何も打ち明けず、卑怯にもまた騙し討ちのような形で婚約を交わしたのだから。
だけどまだ、俺はこの幸せな夢から目覚めたくない。
まだ俺のことをただの辺境伯だと、ただの男だと、ただの人間だと思っていて欲しい。
手袋の中に隠した全てを知った時、彼女はどう思うのだろう。
呪われている、この俺のことを。
「笑顔か……明日からは善処する。だが、少しでも力を抜くと、喜びで魔力が暴走しそうなんだ」
「げ。それはまずい」
ルカは笑って酒を継ぎ足した。
「今夜は長い対策会議になりそうだな」
「ああ、明日ここを立つまでには、何とか少しでも印象を良くしたい」
ふっと細められたルカの深緑の瞳に、彼女が重なる。
エレナ。
きっと君に全てを話すから。
真実を必ず伝えるから。
だからもう少しだけ。
俺に時間を与えて欲しい。
呪われた化物ではない、ただの人間として、君の隣にいる時間を。
「くれぐれも妹を泣かすなよ、アルフレード」
ニヤリと笑って差し出された琥珀色の酒を、俺は一気に飲み込んだ。