第63話 解氷
目を開けると、エレナの意識はあの神殿に戻っていた。
だがその瞳に映ったのは、竜の魔力に苦しんでいた彼ではなく、優しい眼差しでエレナを見つめる、黒髪のアルフレードだった。
「エレナ」
静かに涙を流しながら微笑むアルフレードが、エレナの頬に触れた。
その手に、手袋はない。
鋭い爪も、鱗も、燃えるような熱さもない。
ただエレナと同じあたたかな体温が、少し骨ばった大きな手が、優しく触れているだけだ。
エレナは彼の手に自分の手を重ねると、涙を溢して笑った。
「これが……あなたなのね」
アルフレードはエレナを抱きしめると、柔らかな髪に顔を埋め、甘やかな声で言った。
「そうだよ。これが俺。もう君に秘密はない。これが──俺の全てだよ」
抱き合う二人に、空から眩しい光が差す。
激しい戦いで神殿の天井や壁は何ヶ所も崩れ大きな穴があき、そこから、朝日が差し込んでいた。
エレナが発動させた十層の守護防壁は、魔力としてアルフレードの中に染み込み、消えていた。
二人を見て、サーリャが空に向かって大きく鳴いた。
《グアアアアーーーーン!》
すると、その声に応えるように、空から鳴き声が返ってきた。
《グオオオオーーーーン!》
二人で空を見上げると、遠くからこちらへ飛んでくる二頭の飛龍が見える。
アルフレードは眩しそうに目を細めた。
「ファルだ。それに侯爵と──俺の父もいる」
ファルは物凄い速さで神殿内に降り立つと、サーリャと卵の無事を確認して大きく翼を羽ばたかせた。
その背からアルフレードの父セドリックが飛び降り、疲れの滲む顔をぐしゃりと歪め、アルフレードに駆け寄った。
「アルフレード!!」
数歩進み出たアルフレードをがばりと抱きしめると、その姿を確かめるように、セドリックは震える両手でアルフレードの頬に触れ、目を見開きながらその髪を撫でた。
「なんて事だ……信じられない……!!」
その目からは、止めどなく涙が流れ落ちた。
アルフレードは涙を溜めた瞳を優しく細めると、言った。
「父上……母上に会いました。それからヴィーノにも。もう消えてしまいましたが……母上もヴィーノも、笑っていました」
セドリックは一瞬驚いた表情をしたが、すぐにその言葉を噛み締めるように目を伏せると、泣きながらアルフレードを再びきつく抱きしめた。
「そうか……シャーロット達が……そうか……そうか」
少し遅れて到着したもう一頭の飛龍から降りた侯爵も、エレナの元へ駆け寄った。
エレナも思わずそちらに走る。
「お父様!!」
「エレナ!! 無事か!! 怪我は!?」
侯爵は走り寄って来たエレナの両肩をガシと掴み、鬼のような形相で大声を上げた。
その様子に、エレナは安心して思わず笑みを零す。
「私は大丈夫です。それから……アルフレード様も」
エレナが向けた視線の先、セドリックと抱き合う黒髪のアルフレードを見て、侯爵は目を細めた。
そのままエレナの頭を撫でると、優しく抱きしめる。
「そうか……終わったのか」
感慨深げにそう呟く父に、エレナは尋ねた。
「お父様、どうしてここがわかったのですか?」
神殿に来てから、エレナはもちろん、サーリャもアルフレードも必死だった。
誰かに連絡を取るような余裕があったとは思えない。
素直に疑問を浮かべるエレナに、侯爵はぐいと袖を捲って腕を突き出した。
「これだよ」
エレナは目を丸くした。
父の腕に嵌められていたのは、エレナが魔力を込めた、あのラールの腕輪だった。
「あの小僧──いや……アルフレードが言ったんだ。屋敷の引き出しに仕舞っている腕輪を持っていろと。封じられているエレナの魔力が元に戻れば、腕輪と引き合うお前の魔力を探せる筈だから、と」
夜のうちに竜達を宥め、幻惑香の効果を解くことができた侯爵達は、駆け付けたセドリックと共にエレナ達を探しに出発していた。
エレナの魔力が籠った四つの腕輪は、父である侯爵とセドリック、ヴェレニーチェとブルーノが持ち、一番魔力を見る目が良いファルの協力もあり、先に神殿に辿り着いたという事だった。
「もうすぐヴェレニーチェ達も来る。──ほら、噂をすればだ」
父が空を見上げると、ヴェレニーチェとブルーノを乗せた飛龍が二頭、神殿に舞い降りてきた。
「アルフレード様!!」
飛龍が着地するよりも先に背から飛び降りたブルーノが、物凄い勢いでアルフレードに走り寄る。
だが彼は主人まで辿り着く事なく、アルフレードの数歩前で限界を迎え、膝から崩れ落ちた。
「アルフレード様……元に……よか……よかった……!!」
その目からは滂沱の涙が溢れ、ブルーノは肩を震わせ咽び泣いた。
アルフレードが竜の魔力を注がれてから、十五年。
一番長く、一番近くでその苦しみを見続け支えて来たのは、ブルーノだった。
「ブルーノ……今まですまなかった」
膝をついたアルフレードが、ブルーノを支え立ち上がらせる。
「いいんです……アルフレード様が無事なら……笑ってらっしゃるなら、私は、それだけで」
ブルーノは無理矢理ニカっと歯を見せて笑うと、再び、涙を流した。
竜から降りたヴェレニーチェは、捕縛用の魔術を展開しながら、祭壇で倒れたままのナーディルを見下ろし言った。
「ナーディル・ユジ・アラジニール。サヴィス・ボルドー。ソフィーネ・ボルドー。貴様らを、重大な国際魔力譲渡法違反で捕縛する。言い訳は法廷で行うがいい。最も──口が利けるならね」
ナーディルとサヴィスは、気絶したまま倒れ動かない。
重篤な魔力枯渇に陥ったサヴィスと、無理矢理に竜の魔力を引き剥がされたナーディルは、その後遺症で恐らくもうまともに口を聞くことも出来ないだろう。
ソフィーネはアルフレードが殺気として放った竜の魔力にあてられ、気が触れていた。
目を見開いたままぶつぶつと呟き続ける彼女の言葉が、果たして法の下に意味を成すのか。
その答えは、否だった。
三人に拘束魔術を掛けると、ヴェレニーチェはナーディルの横に落ちていた赤い魔石を拾った。
ヴィーノの鱗と同じ赤色が、朝日を反射してキラと光って見えた。
「……これは、お前にくれてやろうかね」
そう言って魔石をサーリャの額にあてると、嬉しそうにサーリャはその魔力を受け取った。
アルフレードから溢れたヴィーノの魔力が、まるで最初から彼女のものであったかのように、サーリャの中に染み込んだ。
ヴェレニーチェは空になった魔石をローブのポケットにしまうと、振り返ってエレナに言った。
「私が連絡したから、もうすぐ魔力譲渡委員会の奴らが来る。エレナとアルフレードは、サーリャと一緒に先に屋敷に帰りな。こいつらの罪状は、黒い魔石を作り出した無許可搾取だ。お前達は最初からここにはいなかった。そういう事にするからね」
エレナの魔力の事も、アルフレードに竜の魔力が宿っていた事も、公には出来ない。
元々行動が怪しかったサヴィスに見張りを付けていた所、隣国と接触し黒い魔石を作り出していた事が発覚して、セドリック達と協力し激闘の末に捕縛した──というのが、ヴェレニーチェの筋書きだった。
幻惑香の存在や竜の暴動、エレナの誘拐事件そのものをなかった事にするというヴェレニーチェの言葉に、エレナとアルフレードは頷いた。
「サーリャ、飛べそうか?」
アルフレードに声を掛けられ、サーリャはもちろんと言うように喉を鳴らした。
魔力の紐でサーリャに卵をしっかりと括り付け、アルフレードとエレナは、ファルの背に乗った。
「アルフレード」
ファルの背に跨るアルフレードをじっと見つめ、侯爵が声を掛けた。
「……エレナを頼むぞ」
アルフレードは、その真剣な眼差しに息を呑むと、力の籠った声ではっきりと答えた。
「はい!!」
その声を合図に、ファルとサーリャは勢いよく翼を広げ、エレナとアルフレードを乗せてアルジェントへ向け飛び立った。
屋敷へ戻ると、ボロボロの姿のジョゼフ達が、泣きながらアルフレードとエレナに駆け寄った。
ジョゼフも、ノックスも、ミアもアデットも──屋敷の者達みんなが、黒髪で笑うアルフレードを囲んで大泣きした。
嬉し涙を滲ませ微笑むエレナに、クララが飛び付く。
「エレナ様!! 本当に……本当に心配したんですから!!」
しがみついて泣くクララを見て、エレナは笑いながら眉を下げた。
「ごめんね、クララ。──ただいま」
その時、突然上から降ってきた大きな手で、エレナはグシャリと頭を撫で回された。
驚いて振り返り上を見上げると、満面の笑みのルカが立っていた。
「エレナ、よくやったな!! お前は自慢の妹だ!!」
その顔に思わず安堵の息を漏らしながら、エレナは理解した。
ルカの言葉は、アルフレードの呪いを解いた事を言っているのだと。
兄であるルカは、アルフレードの中にあるエレナの魔力を、何となく感じ取ったようだった。
「お兄様は……全部ご存知だったんですね」
少し拗ねて見せるエレナに、ルカはまた豪快に頭を撫でて笑った。
「そりゃあ、俺はお前の自慢のお兄サマだからな!」
それから、事件の事後処理におおよその決着が着くまで、約四ヶ月が掛かった。
一国の王が、最上級の重罪である他人からの魔力搾取を大量に行い、黒い魔石を作っていたことは、大陸中を揺るがす大問題であった。
宗教国家アラジニールは解体され、一部がアルジェント領に返還、残りは国際魔力譲渡委員会の監視下に置かれる事になった。
「なんて事だ……」
事件を受けてアラジニールに調査に入った担当官は、驚愕した。
蓋を開けてみれば、国民の半数以上が牢に閉じ込められ、魔石の材料として搾取を受けていたのだ。
監視下に置かれる地は、国民の保護と街の復興が最優先され、何年後かに問題なしと判断された後、新たな自治国となるのか、それともアルジェントに統合されヴェルナージュ王国の一部になるのかは、まだまだ協議に時間が掛かりそうだった。
ヴェレニーチェ達は上手くやったようで、エレナやアルフレードに追及が及ぶ事はなかった。
想像よりも遥かに平和な時を過ごし、そして、秋に差し掛かったある日。
アルフレードはある事をするために、王城を訪れていた。
エレナは目を細めて、ポツリと呟いた。
「なんだか……懐かしいわ」
侯爵家への里帰りも兼ねて一緒に城へ来ていたエレナは、アルフレードが用事を済ませている間、兄ルカに付き添われ、草花が揺れる庭を眺めて佇んでいた。
そこは、エレナとアルフレードが初めて出会った、あの中庭だった。




