第62話 愛に包まれて
幾重にも重なる炎の壁を通り抜け、エレナはアルフレードの元へ走った。
炎は熱くない。
だが、通り抜けるたびに、炎に染み込んだアルフレードの悲しみが深くエレナの心に刺さり、息が出来ない程に苦しかった。
ようやく辿り着いた最後の炎を潜り抜け、エレナは叫んだ。
「アルフレード様!!」
炎の壁の中は、不思議な程に静かだった。
ぽっかりと円形に開けた空間は、降り注ぐ氷の結晶でぼんやりと白く光り、足元にはそれが雪のように積もっている。
エレナの彼の名を呼ぶ声がわんと響くと、その空間の真ん中で立ち竦む八歳の幼いアルフレードが、黒髪を揺らしエレナを見た。
涙の溢れる青い目を見開き、驚きの表情を浮かべ、腕いっぱいに抱えた氷がその場に落ちる。
「君は……だれ? どうしてここに……?」
怯えた瞳の彼に近付こうと、一歩踏み出す。
「助けに来たの。私は……エレナよ」
そう言った瞬間、エレナは自分自身に驚き目を丸くした。
声は少し高くなり、視界が低い。
エレナは、アルフレードと出会った時と同じ、八歳の姿になっていた。
その姿を見て、アルフレードの瞳に絶望が灯る。
「エレナ……? 本当に……君なの……?」
恐怖に慄いて一歩後ずさるアルフレードの体が、突然ぶわりと炎に包まれた。
それと同時にぐんと彼の背が伸び、髪は黒から青灰、そして金に変わると波打ちながら腰まで伸びていく。
柔らかな肌は物凄い速さで金の羽に覆われ、手は鉤爪のように変形し瞳は銀に染まっていった。
それは、エレナが初めて出会った、十三歳のアルフレードの姿だった。
「アルフレード様!!」
思わず駆け寄ろうとする幼いエレナに、アルフレードは叫んだ。
「来るな!!」
その声に呼応するように、彼を包む炎はさらに大きく燃え上がり、彼の頬を、涙が伝う。
(──アルフレード様)
エレナは彼の言葉を無視して、思わず走り出していた。
(アルフレード様……アルフレード様……どうか、どうかもう──)
駆け寄るエレナを見て、アルフレードは一層炎を強くする。
立ち竦んで逃げることが出来ず、金の羽を震わせ泣き喚いた。
「来るな、エレナ!! お願いだ……俺に近寄らないで。君を傷付けたくない……失いたくない。君を殺してしまう!! 母上のように、殺してしまう!! お願いだから、それ以上近付かないで!!」
枯れる程に声を張り上げ、アルフレードの目からはボロボロと涙が溢れ落ちる。
「君を愛している!! 君を愛している!! 君を失いたくない!! 君を守りたい!! お願いだから……頼むから、近付かないで!! 君を……エレナを愛しているから!!」
──その瞬間、全ての音が消えた。
「……もう、一人で泣かないでって、言ったでしょ?」
アルフレードの耳に、優しい声が響く。
冷たい金の羽に覆われたアルフレードは、きつくきつく、初めて出会った日と同じ──幼い八歳のエレナに、その身を抱きしめられていた。
春の日差しのような、あたたかな優しい熱が、アルフレードの体にじんわりと広がっていく。
その身を焼いていた炎は消え、降り続けていた氷の結晶は、宙に浮かんだままぴたりと止まっている。
呆然と見開かれた銀に揺らめく海色の瞳には、どっと涙が滲み、何も見えない。
エレナが抱きしめたのは、アルフレードの心──奥底に残っていた、悲しみだった。
「う……うぁ……」
一人きりで戦っていた彼に、エレナの体温が移っていく。
それは、アルフレードがずっと求めて止まなかった、あたたかな、輝かしい温もりだった。
「あ……あああああああああああああ!!!!」
アルフレードは美しい顔をグチャグチャにして泣きながら、縋るように、エレナを力一杯抱きしめた。
アルフレードの体からバラバラと羽が落ち、抱き合う二人はそのまま姿を変えていく。
ぐんと背は高くなり、手足はスラリと伸びていく。
アルフレードの髪は金から青灰へ変わり、見上げたその顔、優しげな深い青色の瞳が、エレナを映していた。
大人の姿に戻った二人は、強く抱き合ったまま、互いに額を寄せた。
「エレナ……」
呟きを落としたアルフレードも、エレナも、泣いていた。
エレナはアルフレードの頬に触れると、真っ直ぐに目を見て微笑んだ。
「私も──あなたを愛してる」
グッと背伸びをして、引き寄せたアルフレードの額に、エレナはそっとキスをした。
──その瞬間。
エレナの体からは金の光がぶわりと溢れ、それに呼応するようにアルフレードからも銀と赤の光が溢れだした。
三色の光は二人を包み込み、まるで渦を描くように絡まり周囲に広がっていく。
(アルフレード様を、助けたい)
願う程にエレナから溢れだす金の光の中に溶け込むように、赤色の光が消え、銀の光は輝きを放ちながら、ゆっくりゆっくり金の光と混ざり合っていく。
(あなたを助けたい。苦しみから……痛みから……全ての悲しみから)
溢れ続ける黄金の光は勢いを増し続け、まるで水の中に沈んだように、空間全体がぬくもりに満たされ、広がった光はアルフレードにどんどんと集まり染み込んで行く。
「あなたを、私が助ける!!」
全ての光がアルフレードの体に吸い込まれたその時、一瞬の暗闇の後、抱き合う二人は、お互いが見えなくなる程の眩しさにカッと包まれた。
──キー……ン。
氷が割れるような澄んだ音が響き、同時に花火が散るように、天から金に輝く光の粉が、広く広く降り注いだ。
それは、エレナがサーリャの産卵を助けるために魔力を注ぎ、もう充分だと跳ね返された魔力が起こしたあの光景と、同じだった。
アルフレードに染み込んだ魔力は、性質変化の限界を超え、溢れだした魔力は彼の中に僅かに残る竜の魔力も消し去るように、二人を囲む炎に優しく降り注いだ。
光の粉が触れた端から、炎は静かに消えて行く。
キラキラと反射し合う光が舞い、もう暗闇はどこにもなかった。
ただ柔らかな輝きが踊る、穏やかな光が、どこまでも続いている。
ゆっくりと瞼を開けた二人は、静かに涙を流したまま、互いを見つめた。
「……あたたかい」
きつく抱きしめていた力を緩め、両手を繋いで向かい合ったままそう言うと、アルフレードの目から、ボロりと大粒の涙が溢れた。
喜びを噛み締めるように、へにゃりと美しい顔を歪ませ、アルフレードは笑った。
「君を感じる……心に、君の温もりを」
その時、遠くから優しい声がした。
「──アルフレード」
見れば、炎の道があった場所──今は光が満ち優しく照らされているその場所で、今にも崩れ落ち消えてしまいそうなシャーロットとヴィーノが、アルフレードを見つめていた。
彼女達は氷で作られた彫像のように透き通り、その姿には、もう殆ど色がない。
「母上……ヴィーノ……!!」
アルフレードは息を呑むと、エレナと手を繋いだまま、彼女達の方へ走った。
シャーロットは、アルフレードに向かって、ボロボロに崩れてしまった両腕を広げた。
彼女に辿り着く直前、エレナはそっと手を離す。
アルフレードはそのまま、シャーロットの腕の中に飛び込んだ。
「母上……!!」
力一杯抱きしめたシャーロットは、記憶の中の母よりも、随分と小さかった。
シャーロットの頬を、涙が伝った。
「やっと……やっとあなたに触れられた……」
シャーロットとアルフレードを同時に抱きしめるように、ヴィーノが体を寄せ長い尾を巻き付ける。
そのまま優しく、アルフレードの頬に頭を擦り寄せた。
アルフレードは、それを優しく撫でる。
「ヴィーノ……助けられなくてごめん。母上も……あの時、俺が……」
謝罪を絞り出すアルフレードの言葉を遮るように、シャーロットが彼を見上げながら、その髪を梳くように触れ目を細めた。
「いいえ、アルフレード。私とヴィーノが、望んでやったの。あなたが気に病む事は何もないわ。生きていてくれて、ありがとう。──今まで……よく頑張ったわね」
シャーロットの目から、ぼろと涙が溢れた。
アルフレードを抱きしめたまま、肩越しにエレナに視線を向ける。
「エレナさん……本当にありがとう。あなたのおかげで、もう一度……この子を抱きしめられた」
話しかけながらも、その体はサラサラと砂のように崩れていく。
エレナは、返事をすることができなかった。
溢れ出しそうな嗚咽を両手で抑えるのに精一杯で、ただ涙を流しながら、何度も何度も頷いた。
「アルフレード……私の可愛いフー」
シャーロットは真っ直ぐにアルフレードを見つめ、囁くように声をかけると、美しく微笑んだ。
そして言った。
「あなたを、心から愛しているわ」
「母上……俺もあなたを……あなたとヴィーノを……愛しています」
涙でぐしゃりと顔を歪めたまま、その姿を焼き付けるように、アルフレードも深い海色の瞳で彼女達を見つめた。
「俺を生かしてくれて……ずっと側にいてくれて──ありがとう」
アルフレードがそう口にした瞬間。
限界を迎えたシャーロット達の体は、キラキラと輝く細かな氷の粉となって、光の中に溶けて消えてしまった。
消える直前、最後にシャーロット達は、幸せそうに笑っていた。
アルフレードは暫くの間、シャーロット達がいた筈の空間を見つめ、涙を拭くと振り返った。
その瞳は、晴れ渡る空のように澄み、輝いていた。
「──ありがとう、エレナ」
アルフレードはエレナに手を差し出した。
「帰ろう。……サーリャが待ってる」
悲しみが消え、綺麗に笑ったアルフレードを見て、エレナは嬉しさに破顔した。
「ええ!」
涙を拭き短く答えると、ぎゅっと彼の手を握る。
手を取り合った二人は、そのままあたたかな金の光に包まれた。




