第59話 炎の道 2
何度も何度も過去の光景の中を通り、次に辿り着いた記憶では、アルフレードは十二歳になっていた。
星が瞬く夜。
森の中の竜舎の奥で、エレナが知る姿よりも少しだけ体の小さいファルとサーリャの間に、生気の無いアルフレードが隠れるように蹲っていた。
簡素なシャツの袖から覗く細い腕は金の羽に覆われ、首のあたりまで広がっている。
手は鉤爪のように形を変え、瞳は青と銀の狭間で揺らめき、エレナが出会った金色の妖精の姿に近付いていた。
シャーロットが言う。
「この頃には……もうアルフレードは生きる気力を失っていたわ。魔力はある程度制御できるようにはなってきていたけれど、その代わり人を避けるようになっていた。セドリックやブルーノ達とも距離を置いて……殆どの時間を、森の竜舎で過ごしていたの」
変声期を迎え、少し声が低くなったアルフレードは、ファルにもたれ掛かりながら、囁くように言った。
「ファル……この前のお願い、覚えてる?」
その目は遠くの闇に輝く小さな星々を、じっと見ている。
ファルは尻尾を優しくアルフレードに巻きつけた。
「もしまた新月の夜に、俺が怪物になって皆を傷つけそうになったら……その時はファル、お前が俺を殺すんだよ。お願いだよ? 父上達は、どんなに自分達が危険でも、俺が怪我をしないように守ろうとするだろう?……本当は自分で死ねたらいいけど……ヴィーノが許してくれないから」
アルフレードは自分の腕から、まるで野花でも摘み取るかのように、何の感情もその目に映さず、ゆっくりと金の羽を毟り取った。
ぶちぶちと肌を裂きながら抜けていく羽の下、血が滲んだ肌は一瞬で竜の魔力が漏れ出し、傷を塞ぐとまた新たな羽が生えた。
暫くの間、無心で羽を引き抜き続けたが、何度も何度も元に戻るその腕を、アルフレードは恨めしげに見つめ、振り上げた拳を思い切り地面に打ち付けた。
アルフレードを慰めるように、サーリャが彼の頬を伝う涙を舐める。
「……サーリャ……ごめん。ヴィーノを奪ってしまって……本当にごめん」
泣きながらそっと薄赤の鱗を撫でると、サーリャはもう寝ろと言うように、アルフレードに身を寄せた。
静かな竜舎に、ようやくアルフレードの寝息が聞こえ、エレナはシャーロットに尋ねた。
「……ヴィーノの魔力を、サーリャに譲渡することはできなかったんですか?」
魔獣は仲間同士であっても、滅多に魔力譲渡を行わない。
だが、アルフレードを苦しめているのは、サーリャの母親であるヴィーノの魔力だ。
サーリャは優しい竜で、アルフレードとの絆もある。
サーリャが譲渡を受け入れ、ヴィーノの魔力だけを渡すことができれば、彼は元に戻れたのでは、とエレナは思ったのだ。
だが、シャーロットは視線を落とし、首を横に振った。
「セドリックも同じ事を考えたけれど、サーリャは譲渡を受け入れなかった。ヴィーノの魔力は、あの子の魔力の根源に絡まってしまっていたから、無理に引き剥がそうとすれば、アルフレードは死んでしまう。サーリャはそれがわかっていたから、拒否したの。せめて溢れ出る魔力を受け取るだけでも、とセドリックは提案したわ。でも、少しでも加減を間違えれば死の可能性がある以上、サーリャは一度も魔力を受け入れなかった」
アルフレード達の横を通り過ぎる最後、ヴィーノが、眠るサーリャの体を撫でるように、丸くなる背をゆっくりと尻尾でなぞる。
記憶に触れることはできず、僅かにヴィーノの尾と接したサーリャの背中が、煙のように揺らめいた。
「ヴィーノが死んだ時、小さかったサーリャは、母の異変を感じ取って、竜舎を抜け出し森へ行ったの。そこで……殺されたヴィーノの姿を見てしまった。だから余計に、アルフレードの死が怖いの。サーリャは、アルフレードに生きていて欲しいからこそ、魔力譲渡を拒否した。それはファルや、他の竜達も同じよ。皆あの子が……大好きだから」
進みながらも眠る我が子を見つめ続けるヴィーノを、シャーロットが優しく撫でる。
エレナは切なげに視線を落とした。
「……サーリャに魔力を注ぐ時、彼女の記憶を見ました。森に倒れているヴィーノも。サーリャの気持ちが私にも流れてきて……本当に苦しかったです。サーリャも、混乱と悲しみの中にいたんですね」
やがて朝日で薄らと空が白み始めると、竜舎の記憶はぼんやりと空気に溶けるように消えていった。
エレナ達が足を踏み入れた、初夏に入る少し前の、暖かなある日の記憶の中で、アルフレードは十三歳になっていた。
魔術塔のヴェレニーチェの部屋。
恐らくアルフレードの為に用意されたであろう、簡素な診察用の寝台に横たわる彼は、青と銀とで揺らめいている虚ろな瞳で天井を見つめていた。
人目に触れないよう竜舎に閉じ籠っていたその肌は真っ白で、生気がない。
手は鉤爪の形に変形し、腰まで流れる髪は溢れる魔力の影響で金色に変わっていた。
背中の翼がない代わりに、腕には長く金の羽が伸び、頬の辺りまで彼の肌を覆っている。
その姿を見て、エレナは思わず呟いていた。
「……フーだわ」
聞こえているはずはないのに、アルフレードの瞳がパッとエレナに向いた。
ドキリとして身を竦めると、彼の視線の先──エレナの後ろから、実験用の白衣を身につけたヴェレニーチェが現れ、アルフレードの目の前に小瓶を差し出した。
「回復薬だ。前のよりは美味しいはずだよ」
アルフレードはそれを一瞥すると、受け取ることなく、無表情のまま再び天井に視線を向けた。
「……俺はいつまで、この遊びに付き合えばいい?」
ヴェレニーチェはため息を吐くと、小瓶をアルフレードの枕元に置き、ドカリと椅子に座った。
「遊びじゃない。模索だよ。お前を助けるための方法を探す研究だ」
「そんなものは存在しない。俺は助からない。お前達の遊びに付き合わされている、ただの研究材料だ。この五年間、翼を切られ、腕を折られ、鱗を剥がれ、羽を毟られ、数百種類という薬を飲まされた。それで何かわかったのか? それらに、意味はあったのか?」
視線も合わせず、淡々と話すアルフレードの瞳に、希望など何も無かった。
ヴェレニーチェは彼を助けようと手を尽くしていたが、研究のためとはいえ、五年間の度重なる拷問のような実験の日々は、幼いアルフレードの心を壊すには充分だった。
僅か十三歳のアルフレードの口調が、冷静で大人びたそれに変わっていることに、エレナの胸は軋んだ。
「俺が望んでいるのは死だ。助けるだなんて、ありもしない方法など望んでいない。 俺は……もう死にたい」
「……まだ坊やのくせに、何を言ってるんだ」
ヴェレニーチェが少しおどけて返事をすると、アルフレードはカッと怒りをその顔に滲ませ、体を起こして回復薬の小瓶を掴むと、勢い良くヴェレニーチェに向かってそれを投げつけた。
「その顔をやめろ! ヴェレニーチェ!!」
パリン、と小さな音をたて、ヴェレニーチェのすぐ横の壁にぶつかって小瓶が割れる。
アルフレードは顔を歪めて怒鳴った。
「俺はそんなに哀れか? お前が俺に同情する度、お前の魔力は輝きを失い酷く濁るんだ! 父上も! 屋敷の皆も! 俺を見る度、その魔力は濁っていく!! お前達の感情が、俺が助かることはないと伝えてくる! 俺が化け物だと……普通ではないと伝えてくる!! 俺を絶望に立たせているのは、お前達だろう! 俺はもう死にたいんだ……死にたいんだよ!!」
「アルフレード!!」
ヴェレニーチェの制止も聞かず、アルフレードは部屋を飛び出した。
彼が走るのに合わせ、エレナ達の周りの景色がどんどんと変化し流れていく。
ぐちゃぐちゃになった風景が再び定まった時、アルフレードがいたのは、魔術塔の奥にある、小さな中庭だった。
木の陰で蹲るアルフレードを見て、エレナは思わず目を見開いた。
「この記憶は……」
驚くエレナに、シャーロットは涙を溢しながら優しく微笑んだ。
「そう……あなたと出会った日の記憶よ」
その瞬間、エレナの体をすり抜けるように、八歳のエレナが庭に迷い込んできた。
アルフレードを見るなり、小さなエレナはみるみるとその深緑の瞳を輝かせ──そして言った。
「きれい……」
高く伸びる草花に隠れるようにして、並んでしゃがみ込んでいる幼いエレナとアルフレードの様子を眺めながら、シャーロットは涙を拭うこともせず、クシャリと顔を歪め笑った。
「竜はとても賢く……そして臆病な生き物なの。人の感情が、魔力の色で見えてしまうのよ。恐れも、怒りも、悲しみも、憎しみも、何もかも。……あなたは、皆が心を揺らすあの子の姿を見て、『きれい』と言ったの。何の魔力の濁りもなく……ただ『きれい』と」
視線の先で、幼いエレナが、夢中でアルフレードに話し掛けながら笑っている。
「あなたの言葉が……存在が、あの子にどれだけの救いになったか……わかる? あなたはあの子の……アルフレードのたった一つの、希望の光だったの」
シャーロットは振り返って真っ直ぐにエレナの目を見ると、握っていたエレナの手に力を込めた。
「私達は、ずっとあなたを待っていたの。あなたに会いたかった。会って、お礼を言いたかった」
ぼろと涙が溢れ、シャーロットは微笑んだ。
「エレナさん……あの時、あの子を救ってくれて、本当にありがとう。あなたは私とヴィーノにとっても──十年間ずっと、希望の光だったわ」
エレナも泣いていた。
氷のように冷たかったシャーロットの手は、再び、温もりを取り戻していた。




