第54話 逆鱗
「邪魔をするな!! アルフレード!!」
目の前で叫ぶナーディルにこれでもかと攻撃の雨を浴びせながら、アルフレードは怒りで顔を歪めた。
「黙れ。お前達はここで確実に殺す」
真っ直ぐにナーディルを見据えたまま、唸るように低く答える。
攻撃の手を緩めることなく、サヴィスからの魔術も一瞥することもなく悉くいなしながら、アルフレードはどんどんと祭壇の方へ進み、ナーディルとの距離を詰めていく。
アルフレードの体の内は、燃え盛る業火のように、身を焼く程の怒りで溢れていた。
幻惑香の存在や奪われたサーリャの状態から、十五年前の事件を起こしたのが、目の前の男達であることは明らかだ。
自分とヴィーノを手に掛けるだけでは足りず、ナーディル達はエレナとサーリャをも傷付けた。
血溜まりで倒れるボロボロのエレナを見て、アルフレードは心がばらばらに千切れる程の痛みに襲われた。
だがアルフレードの内で暴れているのは、ナーディル達に対する怒りだけではない。
エレナを守れなかった自分自身に対する怒りで、アルフレードは己を焼いていた。
(俺がもっと早くに駆けつけていれば……!! そもそも彼女と離れなければ、こんなことにはならなかった……!!)
城でエレナを見失った後、最悪の事態を瞬時に理解したアルフレードは、すぐにそれを侯爵に知らせた。
自らがエレナを探しにいくと怒号を轟かせる侯爵に、アルフレードは懇願した。
「侯爵は俺の代わりにアルジェントへ向かって下さい! エレナの魔力は痕跡を消されています。でも俺なら追える! 俺の魔力を辿って探し出せる! お願いです、エレナは必ず助け出します。侯爵はアルジェントへ向かって下さい!」
ブルーノとヴェレニーチェが先に向かってはいたが、幻惑香が使われた今、暴れる全ての竜を鎮圧するには、それでも戦力が足りなかった。
侯爵と別れると、アルフレードは必死で魔力を追った。
それは、初めてエレナに出会ったあの日、金の羽からエレナに染み込んだ、ほんの微かな竜の魔力だった。
竜の翼で風を切りながら、何度も転移を繰り返しながら、アルフレードは上空からエレナを探した。
辿り着いたのは、アルジェントとアラジニールの国境にある、森の中の古い神殿だった。
アルフレードは建物を包む防御と隠匿の魔術に思いっきり攻撃を叩き込むと、天井ごとその術を破壊した。
(頼む……!! どうか無事でいてくれ!!)
アルフレードは攻撃を振り下ろした勢いもそのまま、上空から神殿の中へ落下するように飛び込んだ。
もうもうと立ち上る粉塵の中、建物の中から溢れ出た幻惑香の香りが、アルフレードに纏わり付いてくる。
意識がぐらりと揺れる感覚と闘いながら、アルフレードは瓦礫の上で目を凝らした。
その瞬間、アルフレードは己の目を疑った。
幻惑香のせいで竜の魔力が膨れ上がったアルフレードには、それがはっきりと見えてしまった。
(なぜ、エレナの魔力がサーリャとあの男に……!!)
竜の瞳には魔力が見える。
幻惑香で不安定になったアルフレードの目には、エレナの輝く魔力を内包した、サーリャと男の姿が見えていた。
それと同時に、エレナの光が、弱々しく今にも消えそうなことに気付く。
(エレナ……!!)
事態は一刻を争う。
アルフレードはサヴィスがエレナから離れた瞬間を狙い、その腕に氷柱を叩き込む。
同時に、攻撃魔術を展開しているソフィーネを無力化させるため、氷の壁ごとその体を吹き飛ばし気絶させた。
怒声と共に繰り出された禍々しい攻撃魔術で、相手がナーディルであることがわかった。
わざと大きな魔術を当て、幻惑香を吹き飛ばすために爆風を起こす。
煙が消え去った時、願いも虚しく、アルフレードの瞳に映ったのは、ボロボロになって血溜まりに倒れている、エレナの姿だった。
「あ……るふれーど、さま」
手を伸ばそうとするエレナの瞳は、涙に濡れ光を失い、その顔にはベッタリと血がついている。
美しく結い上げていた髪はバラバラに解け、アイボリーのドレスには引き摺られた跡が残り、埃と血でぐちゃぐちゃになっていた。
アルフレードの視界は、真っ赤に染まった。
「お前達は、私の逆鱗に触れた」
アルフレードは氷の刃を降り注がせながら、ナーディルのすぐそばまで迫っていた。
アルフレードの力は凄まじく、サヴィスはすでに魔石の力を使い切り、氷柱で床に縫い止められたまま、倒れ込んで血を吐き、枯渇の症状でガタガタとその身を震えさせていた。
ギリギリの状態で攻撃を防いでいたナーディルだったが、防戦一方で逃げられないと悟った彼は叫んだ。
「待て!! 話を聞け!!」
その瞬間、アルフレードの攻撃と歩みが、ぴたりと止まった。
それは、ナーディルの話を聞こうと思ったからでは決してない。
ナーディルが咄嗟に、魔石ではなく、体内のエレナの魔力を全て使って防御壁を張ったからであった。
「は……はは、なあ、アルフレード……少し話をしようじゃないか」
息を乱しながらも酷薄な笑みを浮かべた男の周りを、美しい金の光がキラキラと幻想的な輝きを放ち、彼を守るようにゆっくりと旋回している。
それは、アルフレードが求めてやまない、あたたかで優しい黄金の光──エレナの生命の輝きそのものだった。
アルフレードの目から一筋の涙が溢れた。
「──それを今すぐ解け」
ぎりと握りしめた手に、血が滲む。
「それはお前が使っていいものではない。今すぐ、それを解け!!」
怒りのままに声を荒げながらもアルフレードが攻撃してこないのを見て、ナーディルは機嫌を伺うような猫撫で声を出した。
「なあ──お前は知りたいだろう? 何故こんな事になっているのか。知れば、お前もきっとわかってくれるはずだ。お前も特別な存在なのだからな。我々は──そう、きっと理解し合えるはずだ」
「お前達の話に興味などない。早くそれを解け!!」
使っているのが例えナーディルだとしても、アルフレードにエレナの魔力を攻撃することはできなかった。
苛立ちを募らせたアルフレードは、彼を睨みつけ、ナーディルを取り囲むように、どんどんと宙に鋭い氷柱を作り出していく。
緊迫した状態のまま、沈黙が流れた、その時。
「アルフレード様!!」
壁際にそびえる氷壁の牢の隙間から、意識を取り戻したソフィーネが叫んでいた。
「アルフレード様、話を聞いて下さい! ナーディル様は、神になるんです! 竜の魔力で、神になれるんです! そうすれば、世界はナーディル様のものになって、私とアルフレード様の結婚に、誰も文句は言えなくなります! アルフレード様は、その女を選ばなくて済むんです! 愛し合う私と、結婚して幸せになれるんです!」
血走った瞳を見開き、牢を壊そうと半狂乱で氷の壁に拳を打ち付ける。
アルフレードはその叫びに、愕然とした。
「──神……だと……?」
顔色を失くし、ナーディルの周囲を覆っていた氷柱が一気に砕け霧のように霧散した。
アルフレードの興味をひけたと思ったナーディルは、好機とばかりに言葉を重ねる。
「そ……そうだ! 十五年前、私は神を作り出す方法を見つけたんだ! あの時、ちゃんと説明してやらなかっただろう? 後悔していたんだ。もしお前が協力してくれるなら、お前にも同じ力を与えてやる! だから一旦休戦して、私の話を聞いてくれ!」
ナーディルがどれだけ声を掛けても、アルフレードの返事はない。
(──ああ、そうか)
呆然と立つアルフレードの心の内は、妙に凪いでいた。
(そういうことだったのか……)
なおも喚くナーディルとソフィーネの声を遠くに感じながら、祭壇にそびえる竜神の像を瞳に映す。
大きな翼を持つその神は、真っ白に輝く美しい姿で、アルフレードを静かに見下ろしていた。
「……そんなもののために……」
自然と口を突いて出た呟きは、誰にも聞こえない程の小さな声。
だがその一言で、アルフレードの心の奥底、何重にも鍵を掛けしまい込んでいた激情が、一気に吹き出した。
「そんなもののために!! 俺は母を失い! ヴィーノを失い! ──十五年もの間、苦しんできたというのか!!!!」
アルフレードの咆哮が轟くと同時に、膨大な魔力が威圧となって溢れ出し、建物全体が大きく軋む。
どっと空気が重くなり、威圧を受けたナーディルとソフィーネは、呻き声をあげ苦しさのあまりその場に崩れ落ちた。
爆発した怒りを養分にして体の内で膨れ上がった獰猛な魔力が、どんどんアルフレードを蝕んでいく。
バチバチと放電するように溢れ出た魔力の光を散らしながら、アルフレードは竜の力に身を委ねた。
「お前達は、何故そんなにも愚かなんだ」
内臓が煮えたぎるような憤りが、アルフレードの声に滲む。
「十五年前だけでは飽き足らず、お前達は俺の最愛にすら手を掛け、そして傷つけた!!」
怒りがさらなる怒りを呼び、竜の魔力は際限なく膨れ上がった。
「見ろ!! これが愚かにも、お前達が欲した力だ!! お前達に殺され、俺に注がれたヴィーノの魔力だ!!」
燃え盛る炎で炙られているような激痛と共に、アルフレードはその姿を変えていく。
背には天翔ける大きな翼が生え、突き破ってきたそれのせいで、濃紺の上着の背はビリビリに裂けた。
手袋を外し放り捨てると、顕になったその手は、すでに竜の蹄のような形に変形が始まり、鋭く伸びた爪は血のように赤い。
腕から広がった銀の鱗は、植物の蔓が伸び広がるかのように、アルフレードの全身へと広がり、その美しい顔を覆い尽くした。
瞳孔は縦に伸び、混ざり合う魔力が揺らぐその目は、青から銀に、そしてやがては燃えるような赤色へと染まっていく。
青灰色だった髪は金色に変わり、どんどんと長さを増していく。
口は裂け、牙が伸びたそれは、まるで獰猛な獣だった。
アルフレードの中では、暴れ狂う竜の魔力が叫んでいた。
足りない!!
足りない!!
足りない!!!!
竜の魔力が多すぎて、一度抵抗を止めれば人のままではいられない。
だが完全に竜の性質を纏うには、譲渡された魔力では足りなかった。
枯渇に喘ぐ竜の呪いが全身を焼き、アルフレードを狂わせる。
大気に滲んだ竜の魔力は、殺気と憎悪に満ちていた。
「なん、だ……その姿は……」
目の前の光景にガタガタと震えながら、ナーディルが声を絞り出した。
「……化け物!!」
猛烈な殺気にあてられ冷や汗が止まらない。
恐怖で体が強張り、逃げることもできないナーディルは、床に蹲り、両手を付いて何とかアルフレードの姿を見つめることが精一杯だった。
それは奇しくも、聖典の中に描かれた、神に許しを乞う罪人の姿と同じだった。
アルフレードはゾッとする笑みを浮かべて言った。
「化け物か……。だがこれが、お前達が求めた神の姿だ」
美しい姿の竜神の像は、アルフレードの威圧の衝撃で、祭壇の床の上、粉々に砕け散っていた。




