第52話 命の綱引き
後半、暴力的なシーンがあります。ご注意下さい。
辛い展開が続きますので、苦手な方は次話とまとめて読むのをお勧めします。
恐怖に震えながらも、エレナは、張り付く喉から言葉を絞り出した。
「わ……私は決して、特別などではありません。ご期待には、添えないと思います」
思わず声が上擦ってしまう。
怯えるエレナを見て、ナーディルは一瞬目を丸くすると大声で笑った。
その声で、エレナの恐怖は増し、ビクリと肩を揺らしてしまう。
「謙遜しなくてもいい。サヴィスが言うなら確かだからな。そう可愛らしく怯えるな。お前を害そうなどと思っていない。──素直に私に協力してくれるのならな」
「そうです! あなたは特別な存在です! 触媒になり得る人間は本当に貴重なんです。十五年前に失敗してから、どれほどその存在を求め続けたか。あの時、アルフレード様さえ手に入っていれば、もっと早くこの夢を実現できたのに──」
サヴィスが悔しそうに言い、エレナはそれを聞いて耳を疑った。
「アルフレード様が手に入っていれば? どういう事ですか!?」
思わず尋ねると、代わりにナーディルが忌々しげに答えた。
「アルフレード──あの毛を逆立てた猫も、お前と同じで触媒に適した存在だった。十五年前、奴と飛竜を攫ったが、あと一歩という所で奴が抵抗して、計画を台無しにされてしまったのだ」
「瀕死の重傷から、まさか彼が回復するとは思ってもいませんでした。それ以降も何とか彼を手に入れようと頑張ってはみたんですが、ブルーノ殿や父君が本当に手強くて。でも回収した卵を材料にして、竜を従えるための幻惑香は完成させることができたんですよ!」
エレナの顔から、ざっと血の気が引いた。
十五年前といえば、アルフレードはまだたったの八歳だ。
そんな頃に、今のエレナと同じように、目の前の男達に攫われたというのか。
竜神というありもしない妄想に取り憑かれた、狂気を滲ませた大人に。
瀕死の重傷まで負わされて、彼らのせいで母まで失って。
アルフレードの心の傷は、どれ程のものだっただろう。
アルフレードは自分の昔の話を殆どしない。
エレナの話を聞きたがるだけだ。
どんな子ども時代だったのか。
何をして過ごしていたのか。
家族との暮らしはどうだったのか。
幸せに包まれたエレナの話を、アルフレードはいつも微笑んで聞いていた。
そこにどれ程の恐怖や悲しみ、苦悩が隠されているか、エレナは気付きもしなかった。
(アルフレード様は、一体どんな気持ちで──)
エレナは唇を噛み締める。
ナーディルは目を細めて、それを愉快げに眺めた。
「お前がアルジェントに来てくれて、本当に良かった」
「ええ、本当に。あなたを見つけた時期も最高でした! 魔石になった竜の魔力では量が足りず、大量に殺すには竜は強すぎる。雛へ与えるために膨大な魔力を作り出す、産卵前後の竜から直接奪うのが一番良いのです。式典のおかげで竜と卵も楽に手に入れられました。これは全てが、神を作るための運命としか言いようがない!」
興奮したサヴィスが、崇めるようにエレナに向かって膝をついたその時、いつの間にかサーリャの横に移動していたソフィーネが、苛立たしげに声を掛けた。
「──ねえ? そろそろ始めないと、竜が死んでしまいそうですよ?」
見ると、サーリャは薄らと目を開けるだけで、それまで呼吸で上下していた体も、殆ど動いていない。
剥ぎ取られた鱗の下からは、血が流れ続けていた。
「それは困るな。そろそろ始めよう」
ナーディルはエレナの腕を縛る縄ごと掴むと、歩くこともままならない彼女を、引き摺るようにサーリャの元へ引っ張っていく。
その横を歩きながら、サヴィスが楽しそうにエレナに話し掛けた。
「竜は何より雛を優先させるため、産卵期は怪我をしても魔力による治癒をしようとしません。さらに、竜は魔力の結晶である鱗を大量に剥がれると、魔力は減っていないのに、枯渇に似た症状が出るんです。その状態ならば、魔力が足りないと錯覚して、気に入っている人間の魔力なら受け入れて吸い取ろうとするはずです」
ずるずると引き摺られ、エレナは痛みに顔を歪めながらも、産卵前、枯渇に陥ったサーリャに、魔力を注いだ時の事を思い出していた。
サヴィスが言っているのは、その状況を無理矢理作り出すという事だった。
「スフォルツィア嬢には、神を作る触媒として、その時に竜と綱引きをして欲しいのです!」
サヴィスが嬉々として叫んだ時、祭壇前に到着したエレナは、サーリャの目の前の床へ乱暴に投げ捨てられた。
祭壇の周りは、吐き気を覚える程に強く甘い香りが漂っている。
隣にしゃがみ込んだナーディルが、エレナの両手を纏めていた魔力の縄を左右の腕に分け直すと、片方の手を取り、指を絡ませて骨が軋む程に強く握った。
もう片方の手は、腕ごとサヴィスに強く掴まれ、身動きが取れない。
ソフィーネは、攻撃魔術の陣を展開し、怪しく光るそれをエレナに向けた。
ナーディルは、指を絡め繋いだエレナの手をぐいと自身の顔に引き寄せると、そのまま彼女の手の甲に頬を寄せ、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「竜は我々のことは拒絶しても、お前は違う。この様子なら、お前が手を触れた瞬間、死を恐れて魔力を吸い取り始めるはずだ。お前は竜へ流れる魔力を引っ張り戻し、逆に竜の魔力を奪い取れ。簡単だろう? 魔力の綱引きだ」
「そんな……そんなことできません!」
実際には魔力枯渇に陥っている訳ではないとはいえ、重傷を負っているのに変わりはない。
この状態のサーリャからさらに魔力を抜き取れば、確実に死んでしまう。
思わず反論すると、ナーディルはさらに強く手を握り締めた。
「お前に断る道はないぞ? お前が奪い取った竜の魔力は、この手からそのまま私が奪い取る。言っただろう? お前は私が竜の魔力を手にし、神になるための触媒だと。その手が竜に触れた瞬間から、私はお前から魔力を奪い始める。竜の魔力が奪えなければ、私か竜のどちらかに魔力を奪い尽くされ──死ぬのはお前だ」
その唇はさも楽しそうに弧を描き、待ちきれないとばかりに笑んでいる。
さらに、ソフィーネが魔術陣を向けたまま、愉悦を滲ませて言った。
「逃げようとしたり、ナーディル様から魔力を奪おうとすれば、頭が吹き飛びますからね? それとも、お友達の竜? ああ、卵をぐちゃぐちゃにしてしまうのも良いわね」
「やめて!!」
叫ぶエレナに気を良くし、ソフィーネはにっこりと微笑んだ。
「そうならないように、頑張って下さいね。ナーディル様が神になれば、私はアルフレード様と結婚できるんですから」
床に溜まったサーリャの血をわざわざ指で掬い取り、それをべっとりとエレナの頬に塗った。
奪い取られた組み紐が、ソフィーネの蜂蜜色の髪に結ばれ揺れている。
それが無性に悔しくて、エレナの目からは涙が溢れた。
ナーディルが言った。
「それじゃあ、始めよう。死ぬなよ? ──私の大切な、触媒の娘」
その言葉を合図に、サヴィスは掴んでいたエレナの腕を、サーリャの首に無理矢理押しつけた。
「──あああああああああああ!!」
エレナは叫んだ。
ナーディルが言った通り、触れた瞬間からサーリャに物凄い勢いで魔力を吸い取られていく。
そして反対の手──ナーディルと繋いでいる手からも、サーリャ程ではないが、容赦なく魔力が奪い取られていくのがわかった。
ファルに魔力を使われた時の衝撃など、比べ物にならない。
嵐の中に放り込まれたような激しさが体の内を暴れまわり、自分が真っ直ぐ座っているのかどうかもわからない。
無理矢理にサーリャとナーディルに魔力を引っ張られ、体が内側から千切れそうな感覚が襲う。
視界は点滅し、倒れ込みたいのに、男二人に腕を掴まれ、それも叶わない。
遠のきそうになる意識は、魔力の激流によって殴られ引き戻される。
苦しみに叫ぶエレナの魔力を奪いながら、ナーディルは興奮した様子で笑い声をあげた。
「ははは! なんだこの魔力は! お前が竜に気に入られるのも納得だ」
流れ込むエレナの魔力を気に入ったナーディルは、繋いでいない方の手でエレナの顎を掴む。
「喜べ! 気が変わった。役目が終わったら、お前は私の、神の妃にしてやる。ほら、死なないように頑張れ! 早く竜の魔力を奪い取れ!」
ナーディルの高笑いを聞きながら、エレナはボロボロと涙を溢れさせた。
際限のない苦痛に耐え、心の中で誓う。
(私がどうなったとしても……サーリャの魔力は、絶対に渡さない!!)
エレナは最初から、サーリャから魔力を奪う気など全くない。
サーリャが傷を治すことができるくらい、枯渇を感じなくなるくらいの大量の魔力を渡し、サーリャを助けることしか考えてはいなかった。
(サーリャ……! サーリャ、お願い! 死なないで! どうか、正気に戻って!!)
エレナは祈りながら、サーリャが望むままに、自身の魔力を流し込み続けた。




