第51話 怪物と竜神
サヴィスはゴソゴソとローブの内側を探り、小さなボロボロの紙を一枚取り出すと、それを広げてエレナの目の前に突き出した。
「読んでみて下さい!」
エレナは大人しく従い、文字に目を走らせた。
そこに書かれていたのは、エレナが読んだのと全く同じ、怪物の話だった。
◇◇◇◇◇◇
森には怪物が住んでいた。
獣のようで獣ではない。
人のようで人ではない。
ギラギラと光る赫い目のそれは、大きな翼を持っている。
体は鱗に覆われている。
手には鋭い鉤爪を持ち、一度捕まれば逃げられない。
月が隠れる常闇の夜に森から現れ、怪物は人々の命を吸い取った。
触れれば最後、生き残った者はいなかった。
恐れた国の人々は怪物を殺そうとしたが、怪物は強く、誰も倒すことはできなかった。
怪物は言った。
「この国で一番美しい色を纏った、その娘を私によこせ。そうすれば二度と森からは出ない」
怪物は、国で一番美しい色の服を着た娘を指差した。
裕福でもなく、輝くような美貌でもない、ただの織物職人の娘だった。
娘を守ろうとした父と母は抵抗したが、怪物に触れた瞬間、二人は死んでしまった。
娘を抱きしめていた恋人も、怪物が触れるとやはり死んでしまった。
だが、美しい色を纏った娘だけは、怪物が触れても死ななかった。
そうして、娘を連れ去った怪物は、二度と森から出ることはなかった。
新月の夜に森から泣き声が聞こえるのは、大切な者を失った娘が、夜通し泣いている声なのだろう。
◇◇◇◇◇◇
エレナが読み終えたのを見て、サヴィスは目を輝かせた。
「おわかりになりましたか?」
「何が……でしょうか?」
困惑気味に答えると、サヴィスは叫ぶように言った。
「これはね、怪物の話なんかじゃない。実際にあった、竜神の話なんですよ!」
声を高くしたサヴィスは、急いで壁まで走ると、エレナを見つめ、抑えられない興奮のまま、掛けられていた絵画をばんばんと掌で叩く。
「見て下さい! 獣でも人でもなく、大きな翼と鱗に覆われた美しい姿! まさに竜神そのものです! 竜神は、二百年から三百年ごとに、月が隠れる常闇の夜──つまり新月の夜に、何度も西の森に現れていますが、肌や瞳の色が違うんです。アルジェントに残る怪物の伝承を詳しく調べると、青い鱗に覆われた竜神は水竜の力を、赤い鱗の竜神は火焔竜や飛竜の力を持っていたんですよ!」
何枚もの絵の間を走りながら、サヴィスはそれぞれの絵の前で肌の色や翼について「これも!」「こっちも!」と指差していった。
片側の壁の絵全てを説明し終えると、サヴィスはエレナの前まで戻ってきた。
「ですが、一番目撃されているのは、白い鱗の竜神です。竜神が司るのは、生と死であり、新月の夜に降臨し、触れた人間の命を奪うんです。死をお与えになる時、人間の魔力を吸い取っているんですよ!」
はあはあと息を荒げているサヴィスの後ろで、ナーディルが自身の首を飾る魔石を指でなぞる。
「本当に嘆かわしい事だ。──愚かなアルジェントの民は、竜神が欲しているものをわかっていない」
嘲るような態度を滲ませ、わざとらしく溜め息を吐いた。
「竜神が言う『美しい色を纏う』とは、服の色の事ではない。魔力の色の話だ。もし『太陽神』と呼びたくなる程に、竜神や竜が持つ強大な魔力が黄金に輝いているとすれば、その同胞となり得る、純粋で、強大な、美しい魔力を纏う娘を求めているのだよ。神の花嫁としてな」
「お分かりになったでしょう!? 竜神は、実在するんです! 姿の見えない太陽神なんかじゃない。何度も何度も、アルジェントの森に現れているんです。美しい姿! 一瞬で死を与える偉大な力! 竜神信仰こそが正しい。我々が正しいんです!」
エレナはゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前の男達は、太陽神の神話を捻じ曲げ、竜神こそが正解だと言わんばかりに、こじつけのような話をしている。
竜神信仰は完全な邪教だ。
(だけど……)
そう思ってはいても、彼らの話に思わず聞き入ってしまう程には、エレナ自身に心当たりがあった。
史実ばかりが書かれた本に、一つだけ混ざっていたお伽話のような怪物の話。
エレナの心にも、それがずっと引っかかっていた。
(新月の夜、私は実際に……森で翼を持った白い人影を見ている。やっぱりお伽話ではなく、森の怪物は本当に存在するんだわ。魔力の色の話も、完全に間違いとは言い切れない)
サヴィスとナーディルは、膨大な魔力は黄金に輝くと主張している。
アルフレードは、竜から見たエレナの魔力の事を「春の日差しのようで、例えようのない美しさ」と言っていた。
そして、サーリャの産卵の時、受け取りを拒まれ霧散したエレナの大量の魔力は、黄金の光の粉となって降り注いだ事を思い出したのだ。
エレナは、隠している自身の魔力量のことを言い当てられているような気がしてドキリとしたが、すぐにその考えを振り払った。
(でも、魔力譲渡の時に感じたサーリャの魔力は、火の属性だわ。それなら魔石だって赤色になるし、膨大な魔力があっても、黄金になる訳じゃない。彼らは、やっぱり太陽神の信仰を捻じ曲げているわ)
怪物は実在するとしても、竜神と太陽神は別物として考えなければ、どうしてもおかしな部分が出てきてしまう。
エレナの脳裏に、ファルやサーリャの姿と同時に、森で見た白い人影が浮かぶ。
(竜は皆、凄く気高く優しいわ。あの人影だって……怪物と呼ばれるような恐ろしさはなかった。むしろ……)
エレナは、自分と目が合った瞬間に驚きを浮かべた、美しい銀の瞳を思い出した。
(むしろ、白く光るあの人は泣いていたわ。酷く怯えたような、苦しむような声で泣いて、私を呼んでいた)
サヴィス達は、怪物が竜に似た姿と力を持ち、魔力を吸い取り人を殺すと言う。
竜神は、死を司る神だと。
だが、竜は誇り高く、人間が危害を加えない限り、野生の竜ですら、威嚇はしても、いきなり竜から攻撃してくることはない。
(サーリャは私が魔力を注いだ時、枯渇状態にも関わらず、私を心から気遣ってくれていたわ。だからわかる。竜達は、無闇に人間を殺したりしない。もし森の怪物が竜神だったとしても、優しい竜達を束ねる神が、自ら人を殺そうとするかしら? あの悲しい銀の瞳は、そんなことしそうにもなかったわ)
エレナは自分の目で見てきた竜や白い人影の姿と、サヴィス達が話す竜神の姿に大きな違いがあり、疑念が浮かんだ。
怪物が、触れた者の命を、魔力を奪うのは、本当にやろうと思ってやったことなのだろうか。
それは、怪物と触れられた人間との魔力量の差が大きすぎて、本人の意志に反し魔力譲渡が失敗しているということではないのか。
(ブルーノが言っていたわ。普通の人間なら、竜に魔力を吸い取られれば一瞬で死んでしまうって。)
決して意図的ではなく、差が大きすぎて、触れただけで命を奪ってしまう。
怪物に連れて行かれた娘は、エレナと同じ、輝く程に膨大な魔力を持っていたおかげで、魔力を吸われても死ななかっただけだ。
(この話に書かれている怪物は、寂しかったんだわ。だから、自分と触れ合える程に魔力量が同じ娘を欲しがった。……きっとそうだわ。だって、新月の夜、白く光るあの人は……あんなに泣いて、私だけに聞こえる声で、私を呼んでいたもの!)
普通に考えれば、同じ力を持つ竜が優しいからといって、怪物も優しい心を持っているという話にはならない。
エレナは、自分がサヴィス達と同じように、直感だけでこじつけて考えを巡らせているのはわかっている。
だが何故か、辿り着いた結論こそが正解だと──実在する怪物は恐ろしい存在ではなく、死を司る残忍な神でもないと、そう、エレナは確信した。
(あの人は実在するけど、きっと怪物でも竜神でもない。でも私がそんなことを言えば、無駄に彼らを刺激してしまうだけだわ)
エレナは動揺を悟られないように、できるだけ静かに尋ねた。
「……仰りたいことはわかりました。ですが、それが私とどう関係があるのですか? 竜神を作り出すとは、どういうことなんでしょうか」
その言葉に、ナーディルはゾッとするような笑みを浮かべた。
体が触れてしまう程の間近までじわりと距離を詰めると、エレナの頬にゆっくり指を這わせる。
「神が降り立つ地である森を得ようと、我が国は三百年も争いを続けている。それで思ったのだよ。森を手にし、いつ降り立つかもわからない神を待つより、私が神になれば良いのではないかと」
ナーディルの目は、本気だった。
触れられた部分から全身がぶわりと粟立つ。
心臓がバクバクと鳴り、息が上手くできない。
震えるエレナを見据えたまま、ナーディルは続ける。
「十五年前、私達はついに竜神を作り出す方法を見つけた。簡単な事だ。竜神になるためには、竜が持つ膨大な魔力をこの身に宿せばいい。竜は気高く、人に魔力を注ぐ事も、受け取る事もない。だが、竜に気に入られる人間ならどうだ? 竜がその人間の魔力を受け取るなら、その逆──竜の魔力を受け取る事もできるはずだ」
ナーディルはエレナの顎を掴むと、顔をぐいと近づけ、怯える彼女を面白がるように、無理矢理目線を合わせさせた。
「私は竜の魔力が欲しいのだよ。その膨大な魔力をこの身に宿し、神になる。お前はその魔力を私に受け渡すための──竜と私を繋ぐための触媒だ。そのためにここに連れて来た」
酷薄な笑みを浮かべた菫色の瞳が、エレナを飲み込むように見つめている。
「お前は、竜に大層気に入られているらしいな。それこそ、竜神の花嫁のように。お前は、あの猫と同じように特別なはずだ。きっと成功する。私は神になれる。なあ──そうだろう?」
見透かすような瞳で射抜かれ、恐ろしさで目眩がする。
エレナは遠のきそうな意識を繋ぎ止めようと、ギュッと固く目を瞑った。




