第50話 宗教国家アラジニールと竜神信仰
三百年前、小さくも長い歴史を持っていたアルジェント王国で、内紛が起きた。
多くの民が太陽神を信仰していたが、別の神を信仰する一部の過激な民との間に、衝突が起きたのだ。
当時のアルジェント国王の弟であったザカルガ・アルジェントは、特に偏った思想を持ち、民を率いて衝突を激化させた。
彼らが信仰していたのは、竜の力を宿した神──竜神だった。
ザカルガはアルジェント国王を殺した後、辛くもジルベルト・モンテヴェルディ率いる王国との連合軍に敗れた。
西の森よりさらに奥の地へ立て篭もり、そこで新たに自分の国であるアラジニールを建国すると、名をザカルガ・ユジ・アラジニールと改めた。
『ユジ』とは、アルジェントの古語で竜を意味し、アラジニールの王位を継いだ者だけが、代々その名を冠することに決めた。
それから現在に至るまで、アルジェントとアラジニールの争いは続いている。
エレナは、目の前の男──ナーディルを驚愕の表情で見つめた。
ナーディルは数年前に王位を継いだ若き君主だ。
歴代の王の中でも、その思想の強さは初代王ザカルガを彷彿とさせ、王都にいたエレナの耳にも、良くない噂が届いていた。
残虐で強欲。
苛烈で傲慢。
それが、大陸中からの彼の評価だった。
壁に掛けられた絵とタペストリー、祭壇の像、そして目の前の男、ナーディル。
改めて素早くそれらに視線を走らせると、エレナは顔色を悪くした。
「まさか……ここは、アラジニール国なのですか……?」
怯えるエレナを愉快そうに眺め、ナーディルは答えた。
「やっと気付いたのか。ここはアルジェントとの国境にある森の中……初代国王ザカルガの時代の神殿だ。普段は人の立ち入りを禁止しているが、今日は特別だ。じっくり鑑賞するといい」
エレナは、くつくつと笑うナーディルではなく、隣で不機嫌そうな顔をしているソフィーネを見た。
(どういうこと……? 王城からアルジェントまで二人同時に転移するなんて……そんなこと、ヴェレニーチェ様でもすぐに回復薬を飲まなければ、枯渇の症状が現れるはず。それなのに、彼女は平然としているわ)
この場に到着してから今まで、ソフィーネに震えや疲労は見られない。
回復薬さえ、飲んではいない。
先程ソフィーネが、禁じられている古い魔術を使おうとしたのを思い出し、一つの可能性が頭をよぎる。
エレナは喉を鳴らした。
「まさか……」
その顔を見て、ソフィーネはにっこりと笑う。
「あら、お分かりになったの? そうよ、貰ったの」
そう言うと、ソフィーネはそっと胸元から細い鎖のペンダントを引き抜き、丸く輝くペンダントトップを、嬉しそうにエレナに見せた。
それは、親指の爪程の大きさの魔石だった。
蝋燭の火に照らされたそれは、闇のように真っ黒だ。
「なんてことを……!! 許されることではないわ!!」
エレナは叫んだ。
魔獣が死ぬ時にできる魔石は、内包する魔力を使い切ると透明になる。
そこに人間が新たに魔力を込めた時、石は魔力の性質によって色を変える。
アルフレードから貰った指輪の石が、氷の魔力が込められているため、深い青色になっていたように。
水や氷の魔力なら青、火なら赤、風なら緑色の魔石になる。
だが黒は特別だ。
何種類もの魔力を大量に混ぜ合わせなければ、その色にはならない。
それも、魔力を注ぐ人間が死ぬ程の量を、何人分も必要とする色だった。
転移は超高等魔術で、魔力消費も膨大だ。
普通の令嬢では、小さな物だけを転移させる転送魔術で精一杯のはず。
ソフィーネが転移を軽々とやってみせ、しかも大人二人で長距離の移動ができたのは、魔石に込めた他人の魔力を使ったからだった。
「何をそんなに震えているんだ」
ナーディルは心底不思議そうな顔をした。
「弱い人間は、魔力を抜くしか使い道がない。気にするような事ではないだろう」
そう言ったナーディルの首飾りがきらりと光り、エレナは目が釘付けになった。
宝飾品のように複雑なカットが施された魔石は、赤色に見えていた。
だが近くで良く見れば、それは蝋燭の火を反射させているだけで、じゃらりとナーディルの首に連なる魔石は、全てが黒色だった。
(逃げないと……早く逃げないと、殺される!)
エレナは戦慄した。
それまでも恐ろしさで身を強張らせてはいたが、状況が把握できず、困惑から来る恐怖が大きかった。
サーリャも傷付いてはいるが、殺されてはいない。
彼らが抱く何かしらの要求を満たせば、無事に返して貰えるかもしれないという、根拠のない淡い期待を僅かに持っていた。
だが今は違う。
目の前にいる二人は、自分のために平気で人を殺せる人間だ。
人の命を、何とも思っていない。
一気に命の危険を感じたエレナは、焦りを滲ませた。
早く逃げなければ。
そう思うが、手足は拘束され魔術は使えない。
そして、ずっと安否が気になっている傷だらけのサーリャを置いていくという選択肢が、エレナにはなかった。
(何か……何か方法は……)
必死で頭を働かせようとしたその時、サーリャのすぐ横に転移の光が輝き、ローブを身に纏ったサヴィスが現れた。
「スフォルツィア嬢!」
エレナを見るなり、サヴィスは興奮した様子で駆け寄って来た。
その菫色の瞳には狂気が色濃く渦巻いており、エレナはゾッとした。
ナーディルを押し除けるように間に入ると、拘束されたままのエレナの両手をがしりと握り、叫ぶように言った。
「ああ! ここまで来て下さってありがとうございます! なんて素晴らしい日だ! ソフィーネ、よくやった! これでやっと、私の夢が叶う!」
顔を紅潮させ、握った手をブンブンと振る。
サヴィスの手にも、大きな黒色の魔石を嵌めた指輪が光っていた。
「サヴィス、触媒に触るな。これはもう私のものだからな。防御と隠匿の魔術は掛けて来たのか」
ナーディルが不機嫌そうに言うと、サヴィスはハッとして手を離した。
「これは失礼致しました。ご命令通り、建物全体に。不備はございません」
エレナは大人しく二人の会話を聞きながら、考えを巡らせた。
(今のままでは、逃げられそうにないわ。少しでも時間を稼がなきゃ……)
幸い、サヴィス・ボルドーはエレナを心待ちにしていたようで、今の所危害を加えそうな様子はない。
三人の中では、一番会話を引き延ばせそうに思い、エレナは質問した。
「あの……どうか教えて下さい。私は、どうして連れて来られたのでしょうか。先程から仰っている触媒とは、何なのですか?」
案の定、エレナの質問にサヴィスは目を輝かせて食い付いた。
「そうですよね、気になりますよね! 無理やり来て頂く形になってはしまいましたが、知ればスフォルツィア嬢もきっと、我々に賛同してくれるはずです。何から説明すればいいか……そうですね、まず我々の目的は、神──つまり、竜神をこの世に作り出すことなのですよ!」
「神を……作る?」
「そうです! あなたには是非、その協力をして頂きたい!」
怪訝な表情を浮かべたエレナを無視して、サヴィスは説明を続けた。
「人々が崇めている太陽神ですが、あの姿は誤りです。本来は空を駆ける翼を持ち、強大な力を宿す竜神なのです。美しく純粋、そして膨大な魔力は、その輝きから金色に近くなると言われています。太陽神とは、その光だけを捉えた誤った信仰なのです。竜は神の力を分けた化身であり、その竜が多く生息するアルジェントの西の森は、言わば聖地なのです!」
太陽神は光の神であり、月の女神と対になる豊穣の神だ。
竜とは全く関係がない。
彼の説明は、完全に太陽神の神話を捻じ曲げた、異教徒の信仰内容そのものだった。
竜神信仰が間違いであることは、すでに歴史が証明している。
一番古いとされている聖典にも、竜との関係は全く記されていない。
発見されている数千年前の宗教画にすら、竜や翼の存在など描かれてはいないのだ。
だが目の前の男達は、心からそれを信じ、しかも自分達で神を作り出すとさえ言っている。
常軌を逸した言動に、エレナの背には冷や汗が流れた。
サヴィスの言葉を受けて、ナーディルも口を開く。
「私の国は何年も戦いを続けて来たが、何もアルジェントを手に入れたい訳ではない。誤った太陽神の信仰を終わらせ、聖地である森を守りたいだけなのだ。アルジェントの民など、竜神の治める地には別に必要ないからな。森が手に入れば、後は皆、魔石の材料にでもすればいい。竜に気に入られる魔力を持つお前なら、我々の言っていることがわかるだろう?」
問答無用の圧を孕んだ瞳を細め、ナーディルが一歩詰め寄った。
だがエレナは、その思想に全く共感できない。
言葉を探し目を泳がせていると、サヴィスがさらに言った。
「竜神様は、実は過去に何度もアルジェントにお姿を現しているんです! 聞いたことはないですか? 西の森の怪物の話を!」
エレナは突然の言葉に目を丸くした。
サヴィスが語り出したのは、街歩きの時アルフレードに買って貰った本に載っていた、あの怪物の話だった。




