第46話 アルフレード・モンテヴェルディ 3
「なんだ……これは」
駆けつけたヴェレニーチェは、案内された部屋の様子を見て絶句した。
調度品は全て片付けられ、ベッド以外には何もない。
がらんとした部屋の中、まるで魔獣でも暴れた後かのように、壁や天井には抉れたような無数の傷跡が刻まれている。
分厚いカーテンは引き裂かれ、絨毯はボロボロだ。
床には夥しい数の魔石と回復薬の空き瓶が転がり、ベッドの脇には、疲弊した様子の辺境伯とシャーロットが、横たわるアルフレードの手を握って蹲っていた。
「ああ……ヴェレニーチェ様」
顔を上げた辺境伯は、縋るような双眸でヴェレニーチェを見た。
「息子を……アルフレードを助けて下さい。魔力が溢れて……我々ではどうすることもできず……」
「彼は、今……?」
「魔力が暴走を繰り返し、今は気絶していらっしゃいます。魔石で溢れる魔力を何とか吸い取って凌いでいますが……目を覚まされればまたどうなるか……」
夫妻の変わりに鎮痛な表情のジョゼフが説明すると、ヴェレニーチェはゆっくりとベッドに近付いた。
ベッドには、小さな四肢を投げ出し、顔色をなくしたアルフレードが横たわっていた。
身体は金の羽と白い鱗に覆われ、アルフレード自身の肌は首から上以外殆ど見えない。
手足の先は竜の蹄のような鋭い鉤爪に変化し、人の形ではなくなっている。
何度も魔力暴走を繰り返し、美しかった黒髪は変色し、青灰色になっていた。
魔力を吸い、急激に長さを伸ばした髪は腰程の長さになり、シーツの上に弧を描き乱雑に拡がっていた。
「触れるぞ」
ヴェレニーチェは意識のないアルフレードの瞼をそっと持ち上げ、瞳を覗き込んだ。
「これは……」
何も映してはいない虚なその瞳は、輝く銀と深い青を、湖面の揺らぎのように行ったり来たりさせながら、色を移ろわせ曖昧な輝きを放っていた。
緊急の連絡が来た際にすでに聞いていた内容と照らし合わせ、ヴェレニーチェは険しい表情で言った。
「モンテヴェルディ。彼には、恐らく飛竜の魔力が譲渡されている。産卵期に危険な目に遭い、死を悟った竜が、何とか卵を守ろうとして、無理やり全ての魔力を注いだんだろう。坊やは……運悪くそれを受け取ってしまっている」
「飛竜……ヴィーノの魔力は、取り出せないのですか!?」
「残念ながら無理だね。今まで、魔獣──それも竜から、人が直接魔力を譲渡された例はない。調べれば何か方法はあるかもしれないが……それも難しいだろう」
「なぜですか!? 報酬は必ずお支払いします! どれだけ時間が掛かっても構いません、どうか──」
辺境伯はアルフレードの手を離し、ヴェレニーチェに詰め寄った。
そのあまりの勢いに、後ろに数歩、足が下がる。
「いや、そうじゃない。恐らく、坊やの様子では……あと二回……いや、悪ければ一回でも魔力が暴走すれば、死ぬだろう。魔力が暴走すると、稀ではあるが魔力の性質に合わせ、身体にも影響が出ることは知っているだろう。体がこれ程変化するまで竜の魔力が膨らんでいる。坊やの魔力では、竜の魔力を制御できていないんだ。この年齢で、むしろよくここまで耐えていると思う」
「そんな……」
ヴェレニーチェの話を聞いて、その場にいた者は全員が言葉を無くした。
魔力には、氷や火、風のように、されぞれに特性がある。
膨大に膨れ上がった魔力は、暴走してしまうと稀に身体に影響を及ぼすことがあった。
体が火に包まれたり、風によって自身を切り刻んでしまったり、体の一部が氷の結晶のようになってしまうのだ。
アルフレードは、ヴィーノの火の魔力を大量に受け取ったせいで、体内は燃えるように熱く、身体は竜化が進んでしまっていた。
重い空気が部屋を満たす中、母シャーロットが静かに口を開いた。
「アルフレードの魔力が多ければ……ヴィーノの魔力を制御できるのですか?」
アルフレードの手を握りしめたまま、強い眼差しでヴェレニーチェに問う。
「ああ、そうだね。坊やの魔力の方が飛竜の魔力を上回れば、一応は落ち着くだろう。だが、それには少なくともあと五年は必要なはずだ。時間が足りない」
シャーロットは、ヴェレニーチェの返事を受けて、考え込むようにじっとアルフレードを見つめた。
今度は辺境伯が尋ねる。
「ヴィーノの魔力を吸い取って、アルフレードの魔力だけを回復させることは無理なんでしょうか? 試してはみたのですが、上手くいかず……」
「……魔石で吸い取っても、その量は高が知れているからね。坊やの瞳を見ただろう? 魔力が複雑に絡み合って、片方だけをどうにかするのは無理だ」
代わりの妙案も浮かばず辺境伯とヴェレニーチェが話し合っていると、突然ジョゼフが焦りを見せた。
「魔力が……アルフレード様の魔力が、また溢れ出してきています!」
その声で、全員の視線がアルフレードに集まる。
横たわるアルフレードの青灰色の髪が徐々に金色に変わり、体を覆っていた羽毛は、アルフレードの首までさらに拡がってきていた。
もう一刻の猶予もない。
アルフレードは、この暴走で命を落とすかもしれない。
誰もがそう覚悟した、その時。
「──あなた」
シャーロットが辺境伯を呼び、にっこりと微笑んだ。
緊迫した状況であるにも関わらず、その表情は春の日差しのように、穏やかだった。
ただ呼ばれただけ。
それなのに、辺境伯の胸は何故かざわついた。
「私、あなたの妻になれて……アルフレードの母になれて、本当に幸せでした」
「何……を」
シャーロットの突然の言葉に、辺境伯は驚きに目を見開く。
次の瞬間、シャーロットは魔術を展開させ、分厚い氷の壁でベッドの周辺──自身とアルフレードの周りを取り囲んだ。
「何をしている!」
焦った声でヴェレニーチェが問いただしたが、シャーロットは顔を向けることもなく、近くにあった回復薬の瓶を掴むと、一気にそれを三本飲み干した。
「シャーロット、これを解け! シャーロット!」
辺境伯が氷の壁をどんどんと拳で叩きつける。
氷の壁は、防御魔術が組み込まれている非常に強固な守りの魔術で、シャーロットの得意な魔術だった。
この至近距離で無理に破壊すれば、中にいるシャーロットとアルフレードも無事では済まない。
それがわかっている辺境伯達は、ただ必死に叫ぶことしかできなかった。
中から、シャーロットが静かに答える。
「私の魔力は、この子と同じ氷の魔力です。私の魔力を注いで、アルフレードの魔力を増やすことができれば、助けられます」
「理論上はそうだ。だが、一般的な治癒や回復のための譲渡とは訳が違う! どれだけ注ぐ必要があるかもわからないんだよ!?」
「それでも!!」
シャーロットは強い声で答えた。
彼女の想いは、決まっていた。
「それでも、私はこの子を死なせたくない」
なおも彼女を止めようと叫び続ける外の声を無視して、シャーロットは苦しみの表情を浮かべ始めたアルフレードの額を、そっと撫でた。
「アルフレード……私の可愛いフー。今、母様が助けてあげますからね」
優しく耳元で呟くと、アルフレードの身体を抱き上げ、ギュッと強く抱きしめた。
アルフレードは夢を見ていた。
辺りは真っ暗で、地面にはどこまでも灼熱の炎が渦巻いている。
肺の中まで熱気が入り込み、息ができない。
炎から逃げるために、アルフレードは泣きながら必死で走り続けていた。
(熱い……痛い……助けて! 父上……! 母上……!!)
どれだけ逃げても、炎はアルフレードに纏わり付き離れない。
氷の魔術で炎を和らげようとしても、その猛威は弱めることができなかった。
(苦しい……苦しい!!)
もがきながら泣いていたアルフレードは、不意に真っ暗な空から氷の結晶がキラキラと降ってきている場所を見つけた。
(あそこに行かなきゃ!)
アルフレードは何とかそこに辿り着くと、降り注ぐ氷の欠片に手を触れた。
ひんやりとしているのに、何故かとてもあたたかい気持ちが胸に広がる。
後ろに迫ってくる炎を見て、アルフレードは空に手を伸ばし、必死にその氷の欠片を掻き集めた。
(もっと……もっと集めなきゃ!)
そうしてどれだけ経っただろう。
両手いっぱいに欠片を抱き抱え、冷たい氷に顔を埋めた時。
──アルフレードは、目を覚ました。
はっと目を開けると、周囲には氷の壁が聳え、自身を母が力強く抱きしめていた。
「母上……?」
呼び掛けても、返事はない。
だが、母の体から自分の中に温かい熱が流れているのを感じる。
壁の向こうからは、父やヴェレニーチェの叫び声が聞こえた。
「シャーロット! お願いだ! やめてくれ!!」
「魔術を解除しろ! お前まで死んでしまうぞ!!」
枯れる程のその声を聞き、抱きついて離れない顔色が悪い母を見て、アルフレードは瞬時に理解した。
自分が母の魔力を奪い取っているという事を。
「母上……母上、離して!」
アルフレードはシャーロットを振り払おうとしたが、彼女はさらに抱きしめる力を強くした。
魔力を注ぎ始めた時、シャーロットは気付いていた。
ヴィーノの魔力は非常に多く強力で、疲弊した幼いアルフレードでは、もう一瞬でもシャーロットの魔力を途切れさせれば、魔力暴走を起こし死んでしまうという事に。
そして、飛竜の魔力を抑えるためには、自身の魔力全てを、一気に注ぎ切らなければ足りないという事に。
事実、シャーロットの魔力の殆どをすでに注いだというのに、アルフレードの髪は金に染まり、顔のあたりまで鱗が広がってきていた。
「母上、離して! このままじゃ死んじゃうよ!!」
アルフレードの悲痛な叫び声は、辺境伯の耳に届いた。
「アルフレード! 気が付いたのか!? シャーロットから離れるんだ!」
「魔力譲渡をやめさせろ!」
外から声を掛けられるが、アルフレードは絶望した。
試してはいるが、できないのだ。
抱きしめる母の力が強いだけではない。
自身が魔力を奪い取るのを、止める事ができない。
死の危機に直面し、竜の魔力がそうさせるのか。
枯渇を潤そうとする猛烈な欲望が渦巻き、アルフレードが止めようと抵抗する程、魔力を奪い取る速度は加速した。
「できない! どうすればいいのかわからないんだ! 母上! 助けて、父上!!」
竜の魔力が膨れ上がる痛みと、母を失うかもしれない恐怖がアルフレードを襲う。
ぐちゃぐちゃに涙を流しながら、必死に叫んだが、どうすることもできなかった。
「アルフレード」
涙を溢すアルフレードの頭を、シャーロットが優しく撫でた。
「私の可愛いフー」
それはいつも通りの穏やかな、大好きな母の声だった。
アルフレードは息を呑んだ。
シャーロットがアルフレードの瞳を見てにっこり笑う。
「あなたを心から──愛しているわ」
その瞬間、ぶわりとアルフレードの体に温かな熱が一気に流れ込んだ。
竜の魔力の熱を包むように身体中に広がり、燃えるような熱と痛みが引いていく。
顔まで広がってきていた鱗は消え、金の羽がはらはらと落ちていく。
髪が徐々に青灰色に戻っていくのと同時に、周囲を囲んでいた氷の壁が、霧のようにキラキラと光りながら消えていった。
重さを増し、抱きしめていた腕がずるりと落ちて、母の温もりがゆっくりと離れた。
「いやだ……」
ベッドに座るアルフレードの膝の上。
崩れ落ちたシャーロットは、ぴくりとも動かない。
「いやだ……いやだいやだ、母上……母上!!」
アルフレードは駆け寄る父達をも無視して、現実から逃げるように、冷たくなった母の身体を掻き抱いた。
「あああああああああああああああ!!」
ボロボロの部屋の中に、幼いアルフレードの慟哭が響く。
これが、アルフレードの幸福だった日々の終わりであり、地獄の始まりだった。




