第32話 謝罪と期待(ブルーノ視点)
「申し訳ございません」
執務室で書類を眺める主人に向かって、ブルーノはこれ以上ない程に深々と頭を下げた。
「……何がだ」
簡素に返されたアルフレードの静かな声音には、怒りも失望も含まれてはいない。
だがブルーノは、決して己が許されている訳ではないということを、理解していた。
ブルーノは真っ直ぐに床を見つめたまま、声を絞り出す。
「サヴィス・ボルドーの接近を許し、エレナ様をお守りできませんでした。本当に、申し訳ございません」
暫くの沈黙の後、アルフレードが大きくため息を付いた。
「……顔を上げろ。それで、奴は?」
表情を動かさぬ主人が、ブルーノを見ることはない。
(エレナ様を危険に晒したことへの怒りは筆舌し難いものだろう。今この場で八つ裂きにされないだけ、私は恵まれている)
ブルーノは拳を硬く握り、感情をできるだけ消して口を開いた。
「魔獣管理局支部へ連れて行き、その場で私が支部長へ直接抗議して参りました。やはり、サヴィスが担当監査官に無理を言い、独断で行ったことでした。奴はひとまず三ヶ月の謹慎処分となり、自領へ向かう馬車で先程アルジェントを出ました」
サヴィスは何冊も本や論文を執筆する程、魔獣の中でもとりわけ竜に対して並々ならぬ関心を抱いている。
だが昔から竜達には嫌われているため、無理に接近しようとしてアルジェントでは度々問題を起こしていた。
飛竜達と同じく、アルフレードもサヴィスを蛇蝎の如く嫌っている。
呪いを受けてからは人間嫌いが加速するばかりだが、サヴィスはその中でも群を抜いていた。
「あいつの魔力は最悪だ。濁りすぎて、見ていて吐き気がする」
サヴィスに会うと、アルフレードは毎回全力で彼を拒絶し、悪態の限りを吐いていた。
そのため、二年前、アルフレードが領主の座に就いた時、サヴィスはアルジェントの魔獣管理局支部から、隣接する別の支部へ移動になっていた。
「そうか。──産卵の報告を聞きつけ、俺が屋敷にいない時を狙ってやって来たんだろう。魔獣管理局長とオルフィオにも、俺から抗議文を送っておいたから、暫くは大人しくしているはずだ」
魔獣管理局は、王家直属の機関だ。
各地が飼育する魔獣の状態や数を把握し管理することにより、国内の戦力を維持すると共に、王家に害を及ぼすために戦力として魔獣を増やしすぎていないかを監視するために設置されている。
国王が最高責任者であったが、イザヴェラとの婚約発表を機に、正式に王太子に任命されたオルフィオに、その権利が移っていた。
「監査のためと言い張られれば、伯爵位の奴を無碍に追い返す訳にもいかない。エレナや竜を不安にさせたことは許し難いが、奴が直接危害を加えていない段階で、子爵のお前があれ以上できることはなかった」
アルフレードの言葉に、ブルーノは歯噛みした。
ブルーノは、伯爵家の出身だ。
父は前辺境伯に騎士として仕えており、家督を譲った彼と共に田舎に移っている。
母は前辺境伯夫人──シャーロットと仲が良く、アルフレードが生まれたのと同時期にブルーノの弟を産んでいたため、産後の肥立が良くなかったシャーロットに変わり、アルフレードの乳母をしていた。
嫡男であるブルーノは、父と同じく次期辺境伯の騎士となるべく育てられた。
自身に懐くアルフレードを実の弟のように可愛がり、また、賢く勇気があり、明君の片鱗を見せる小さな主人を心から認め、命を捧げることを誓っていた。
希望に溢れていた未来に転機が訪れたのは十五年前。
呪いに苦しむアルフレードの側に居続けるため、すでにしがらみが多くなっていた家督は弟に譲る事に決め、ブルーノは自身で功績を挙げ子爵位を得ていた。
(アルフレード様のために、努力してきたつもりだった……だが、足りなかった)
ブルーノはさらに強く、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
己の身分がもっと高かったなら、サヴィスが現れた時点ですぐに追い返すこともできた。
完全な力不足。
表には出さずとも、ブルーノの内に悔しさが広がった。
「本当に、つくづく憎らしい奴だよ」
そう言うと、アルフレードはペンを持つ手を止めた。
徐ろに手袋を外し、上着を脱ぐと、シャツの左袖を肘のあたりまで大きく捲り上げる。
その手を覆う白い鱗は、普段よりもさらに範囲を広げ、二の腕の辺りまで広がっていた。
「奴のせいで、新月でもないのに呪いが暴走する所だった。右腕は肩まで広がっている」
怒りで竜の魔力が膨れ上がってしまったのだろう。
ブルーノはアルフレードの腕を見て、思わず目を見張った。
(……信じられない)
アルフレードの竜の魔力を使ったことがあるブルーノは、その灼熱の魔力が、どれだけ主人に苦痛を与えているかを知っている。
(新月でもないのに、こんなにも竜化が進んだということは……アルフレード様から溢れた竜の魔力は相当なものだったはず)
サヴィスと対峙しているあの瞬間。
怒りに燃えていたアルフレードの内には、耐えられない程の苦痛が襲っていたはずだ。
だが駆け巡る竜の魔力を抑えながら、アルフレードは自身の魔力で氷魔術も使っていた。
常人では不可能だ。
ブルーノの口からは、自然と感嘆の声がこぼれ落ちた。
「よく……耐えられましたね」
驚愕の表情を浮かべるブルーノに、アルフレードは事も無げに言った。
「気合いだよ」
袖を戻し、再び手袋を嵌める。
「エレナにはまだ、呪いの事を知られたくない。……まあ、呪いよりも、奴をあの場で殺さないようにする事の方が大変だった」
「……実際、殺してしまった方が良かったのでは? サヴィスは、エレナ様に異様な興味を抱いていました」
「駄目だ。優しいエレナの前でそんな事をしてみろ。完全に怯えさせてしまう」
アルフレードはソファへ移動すると、身を投げ出すように横になった。
「奴が何か魔術を使ってくれていれば、指輪が感知して反転攻撃で殺せたかもしれないが……あれも改良しなければな。どんな相手だったとしても、自分の目の前で死んだとなれば、優しいエレナはかなり気に病むはずだ」
疲労を見せる主人に、ブルーノは遠慮がちに尋ねた。
「……次の新月は、いかがされますか?」
今回のことで分かった事がある。
エレナに接触しようとする者が異常な行動に出たとしても、通常であればクララやブルーノがいれば守りに問題はない。
貴族の殺し屋でも、隣国の間者でも、いくらでも相手ができる。
だが、相手がサヴィスのように身分が高く、かつ物理的な危害を加えて来ない場合、アルフレードが不在では排除する術がない。
アルフレードは新月の前後、必ず不在になる。
その時に同様の事が起これば、今回のように駆けつけることは難しい。
サヴィスの事は例外的に起こった事だとしても、警戒を強め、対策を講じる必要があった。
「もう手は打ってある」
アルフレードはため息を吐いた。
「オルフィオには、サヴィスに監視をつけるように言ってある。それから……次の新月は、ヴェレニーチェを屋敷に呼ぶ」
「魔術師長を、ここにですか?」
「ああ。身分と戦力はそれで問題なくなる。彼女なら転移でここまで来れるし、エレナはヴェレニーチェを信頼している。これ以上の適任はないだろう」
確かに安全だろう事は間違いない。
だがヴェレニーチェは、アルフレードが呪いを打ち明ける事を勧めていた。
屋敷に、しかも新月の期間に彼女が来ると言うことは、アルフレードの秘密がエレナに漏れる危険を孕んでいる。
エレナの安全を確保するための、アルフレードが苦渋の決断を下した事がわかり、ブルーノは不甲斐なさから拳をきつく握りしめた。
「私の力不足です。本当に……申し訳ございません」
アルフレードは再び頭を下げるブルーノを一瞥すると、すい、と指を降った。
執務机からふわりと書類が舞い上がり、叩きつけるようにブルーノの胸に投げ寄越される。
咄嗟に掴んだ書類に目をやると、そこに書かれていたのは、今までブルーノが秘密裏に行っていた魔力の研究内容の一覧だった。
全て、アルフレードのためにやってきたものだ。
「それだけあれば、どれかは国のために活用できるものがあるだろう。今回の事で、陛下もエレナの守りを強めたいと思っているはずだし、ヴェレニーチェにも手を貸すように言っておいた。謝る暇があるなら、さっさと爵位を上げろ。お前ならできるはずだ」
アルフレードはそれだけ言うと、ごろりと体制を変え、背を向けてしまった。
「……早急に」
ブルーノは書類を握りしめ、礼をして部屋を出た。
主人の期待を背負い、その瞳は決意に燃えていた。




