第24話 ぬくもりと竜舎の異変
「ただいま、エレナ」
新月の日から一週間後の、日が沈む頃。
エレナはアルフレードの腕の中にいた。
飛竜に乗って戻ったアルフレードは、ファルがまだ完全に着地するその前に背から飛び降りるや、顔を曇らせ玄関ポーチで待っていたエレナに駆け寄り、彼女が言葉を口にする前に、その身を強く抱きしめた。
「会いたかった」
ふわりとエレナを包む、アルフレードのぬくもり。
エレナの髪に鼻を埋めたまま溢されたアルフレードの優しい声に、彼の不在の間ずっと不安で強張っていたエレナの心は、じんわりと溶けていく。
突然の抱擁にエレナが感じたのは、動揺や羞恥ではなく、心の底からの安堵だった。
(よかった……嫌われていなくて……)
緊張の糸が切れ、目に薄ら涙がたまる。
背中に回る腕の力が弱まったのを見計らい、エレナは改めて謝罪しようと、少しだけ体を離し彼を見上げた。
「あの……アルフレード様……私、勝手に森に入ってしまって──」
申し訳なさそうに切り出す彼女に、アルフレードは「わかっている」と言うように僅かに眉を下げ、甘く目を細めた。
「謝らないで。手紙でも書いたけれど、私がもっとしっかり説明しておくべきだったんだ。あの時は私も驚いてしまって……不安にさせてすまなかった。それに私は──君が笑ってここにいてくれるなら、それだけでいいんだ」
アルフレードはもう一度ぎゅっとエレナを抱きしめると、その腕を解いて微笑んだ。
「さあ、冷えてきたし中に入ろう。夕食を摂りながら、私がいなかった間の君の話を聞かせて」
優しく手を引かれながらアルフレードと一緒に玄関を潜ると、それだけでエレナは昨日までより家の中が温かく感じ、自然と表情が和らいだ。
「おかえりなさいませ、アルフレード様」
エレナは、アルフレードがいない間、ジョゼフからアルジェントについて色々な事を教わっていた。毎日書庫に入り浸り、今度こそ迷惑を掛けずアルフレードの隣に堂々と立てるよう、その殆どの時間を勉学に充てて過ごしていた。
夕食を摂りながら学んだ内容を話すと、アルフレードは楽しそうにそれを聞いてくれた。
「すごいな。植物毎の育成方法や改良案の検討までしていたなんて。各地の農作物についてなんかは、もう私より君の方が詳しいかもしれない。ジョゼフも教え甲斐のある生徒で楽しかっただろう」
「ええ、それはもう。エレナ様は、植物については元々豊富な知識をお持ちでしたし、スフォルツィア領との農法の違いは、私も大変勉強になりました」
控えていたジョゼフも、話を振られ大きく頷きながら笑っている。
エレナはくすぐったい気持ちで頬を緩めた。
「褒めすぎですよ。でもジョゼフの話が本当にわかりやすくて。それにお勧めしてくれる本も、とても興味深いものばかりでした。ヘーゲル博士の『植物と魔法の変遷』ですとか、コナー医師の『草木と生きる魔獣』も、アルジェントにしかない植物のお話で、夢中で読んでしまいました」
「ヘーゲル博士の本も読んだのかい? あれは文章がすごく捻くれているから、読みにくかっただろう」
顔を顰め苦笑するアルフレードに、エレナも一緒に笑った。
「確かに、捻くれていますね。でも何だか読んでいるとヴェレニーチェ先生の文体に似ていて、意外と楽しく読めました」
エレナは師を思い出し笑みを深めたが、アルフレードの瞳は微笑みを浮かべつつもほんの僅かに強張った。
「そうか……エレナは魔術師長の研究も手伝っていたと聞いているよ。……植物の研究と聞いていたけど、どんな事を?」
「植物というか……正確には、薬草を作る研究です」
「薬草を作る?」
興味を惹かれたらしいアルフレードの様子に、エレナは話を続けた。
「はい。元々は質の高い回復薬を作る研究をしていたんですが、ヴェレニーチェ先生が『そもそも回復薬に使える草と使えない草があるのが面倒だ』と言い出して。薬草ではない草を薬効がある草に作り替える研究になったんです」
「それは何とも、彼女らしいね」
「でも全然糸口が見つからなくて。土や肥料を変えたり、魔術で成長を促進させたり、いくつかの植物と融合させたり、色々試したんですが……なかなか難しいんです。そこから派生して、植物から魔力を取り出す研究をしたり、土地毎の鉱物の成分を調べたり……手を広げすぎてどれも途中なのですが」
「魔術師長はかなり無理難題を言ってくるから、大変さがよくわかるよ」
渋い顔をするアルフレードに、エレナは目を丸くする。
「アルフレード様も、先生から無茶な事を言われたことがあるんですか?」
「ああ──数え切れない程ね。ファルと転移した後、エレナに飲んでもらった回復薬も『お前は魔力量が多いから、自分に合う回復薬を自分で作れ』と言われて、子供の頃に私が自分で製法を考えさせられたものなんだよ」
「え!? あの回復薬、アルフレード様が作ったものだったんですか!?」
「そうだよ。君が美味しいと言ってくれたあの時、初めて、味も考慮して作っておいて良かったと思った」
「ふふふ。美味しく作って下さっていて助かりました」
暫く話を弾ませていると、アルフレードが少し躊躇いがちに尋ねてきた。
「君がよければなんだが……明日……朝食の後、私と森へ散歩に行かないか?」
「え……」
その申し出に驚き、エレナがチラと脇に立つジョゼフを見ると、にこりと微笑みを返された。
エレナは、あんなに楽しみにしていた西の森の散策へ、あの新月の夜以来一度も行っていなかった。
もちろん妖精の事も、あの夜に見た白い人影の事も気にはなっていた。
だが青ざめた顔でエレナの腕を掴んだアルフレードの顔を思い出すと、森に行く気にはなれなかった。
幼い頃、妖精に出会った時と同じように、白い人影を見た事も人に言ってはいけない気がして、クララにさえその出会いは話さず、ずっと屋敷の中で過ごしていた。
普段通りに振る舞っていたつもりだったが、森へ行くのをやめ、元気をなくしていたことに気付いた屋敷の者たちが、アルフレードに伝えていたのだろう。
「実は私もずっと……君と一緒に、森へ宝探しに行きたいと思っていたんだ」
愛しむような瞳でそう言うアルフレードに、エレナは眉を下げてふにゃりと笑った。
(ご迷惑をお掛けしたのは私なのに……)
屋敷の者たち、そしてアルフレードの優しさを感じて、エレナは胸がじんと熱くなった。
「嬉しいです……私も、ご一緒したいと思っていたんです」
翌日。
すっきりとした朝の空気に包まれ、鳥の囀りを聴きながら、エレナとアルフレードは二人で森を歩いていた。
アルフレードの手には、大きめのバスケットが一つ。
散歩は朝食の後を予定していたが、ノックスから「ぜひ森でご一緒に召し上がってきて下さい」と、サンドウィッチと果物、紅茶のポットと敷物を詰めたバスケットを渡され、屋敷の者たちから満面の笑顔で早い時間に送り出されてしまった。
「せっかくですから、ファル達の湖に行きませんか? とても綺麗な場所でしたし、アルジェントに来て初めて見た景色ですから」
目を輝かせ、ワクワクが隠しきれていないエレナに、アルフレードは笑って了承してくれた。
「それはいい。ファルとサーリャも君に会いたがっているから」
敷物を広げ、二人で並んで座ってサンドウィッチを頬張る。
朝日を受けてキラキラと煌めく湖面を見ていると、夜の森では感じなかった穏やかな気持ちで満たされた。
「街で食べたサンドウィッチも美味しかったですが、ノックスが作ったものもすごく美味しいです」
「エレナは、本当に美味しそうに食べるね」
微笑んだアルフレードの瞳に、湖の光が映っている。
深い青の瞳に、輝く銀の光が揺らめくのを眺めていると、エレナの心の中で、不意にフーの瞳が重なった。
(アルフレード様に……フーの事を話してみようかしら)
エレナは持っていた紅茶を飲み切ると、口を開く。
「あの……アルフレード様──」
その時──。
《グオオオオオオオオーーーーン!!》
突然、竜舎の中から地が割れんばかりの凄まじい飛竜の咆哮が響いた。
悲痛な叫びのような鳴き声に、エレナとアルフレードは眉を寄せ思わずその場に立ち上がる。
「ファルだ」
何事かを見定めるように、厳しい眼差しで竜舎を見つめながら、アルフレードが呟いた。
《グオオオオオオオーーーーン!!クウアアアアアーーーン!!》
響き続ける鳴き声。
不安な表情を浮かべるエレナの肩を、同じように焦りを滲ませたアルフレードが抱き寄せた。
「エレナ、ファルの様子がおかしい。もしかしたらサーリャに何かあったのかも知れない。もし近くで二頭が暴れれば危険だ。私が様子を見てくるから、君はここで──」
「私も行きいます」
「しかし」
「行きます! 私もファル達が心配です。守護防壁を纏いますから、一緒に行かせてください!」
エレナの一歩も引かない強い訴えに、アルフレードは説得困難と判断したのだろう。
小さく息を吐くと、真っ直ぐエレナを見据えて言った。
「……わかった。でも危険だと判断したらすぐに離れてもらうよ。いいね?」
「はい!」
エレナとアルフレードはすぐさま守護防壁の魔術を展開すると、急いで竜舎へと向かった。




