第22話 アルフレードの不在と新月の夜 2
結局、本には妖精についての手がかりは載っていなかった。
だがエレナの心には怪物の物語が強く印象に残り、次の日になっても、エレナはその物語のことを考えていた。
(もしかしたらフーと同じように、あの怪物は本当にいたのかもしれないわ)
部屋で書庫から借りてきたアルジェントの歴史書を読んでいると、エレナはふと、そう思った。
書店で買ったあの古い本の内容は、怪物の話以外は全て歴史書にも同じものが載っていたからだ。
(一つだけ作り話を混ぜるものかしら。あの本は、本当に怪物を見た人の手記なのかも)
窓の外に広がる森を眺めていると、すぐ下のラールが咲き誇る庭で、ブルーノを含む屋敷の者達が森の方を見ながら何やら話し込んでいるのが見えた。
(今夜の見張りの順番について話しているのかしら?)
昨日から、広大な西の森の境には遥か遠くまで点々と兵が配置されているが、屋敷の周辺はブルーノを含めた屋敷の者達が交代で警備を担当する。
「エレナ様の事情を知らない者を、アルフレード様がいらっしゃらない時に屋敷に近付けたくないですからね」
アルフレードが出発してすぐに、ブルーノにそう説明されていた。
庭や森に、無意識にアルフレードの姿を探して視線を彷徨わせている自分に気づき、エレナはそっと指に光る海色の指輪に触れた。
昨日から会っていない優しい瞳を思い出し、胸に寂しさが広がった。
「エレナ様、どうされました?」
お茶の用意をしていたクララが、心配そうに尋ねてきた。
「あ……アルフレード様は、いつ戻られるのかなって」
「明後日の朝にはと仰っていましたけど……早く戻られるといいですね」
優しく微笑むクララを見ていると、エレナはずっと抱えていた悩みを聞いて貰いたくなった。
「ねえ、クララ。アルフレード様は、私の事……ご無理されていないかしら?」
「ご無理?」
パチリと目を瞬かせたクララに、エレナは躊躇いながらもぽつりぽつりと言葉を続けた。
「私とは、王命で仕方なく婚約することになったでしょう? アルフレード様はとてもお優しいから……勘違いしてしまいそうになるの。まるで……アルフレード様に望まれて婚約者になったみたいで。突然の話で本当はお困りでしょうに、すごく気遣って下さっていて……ご無理されてるんじゃないかって」
「エレナ様……恋をされているんじゃないですか?」
「……わからない」
肩を落とすエレナを見て、僅かに逡巡した後クララが言った。
「どう思ってらっしゃるかは、ご本人に聞くのが一番ですが──とりあえず、アルフレード様にとっては、このご婚約は突然の話ではないですよ」
「──え?」
「私は陛下と侯爵閣下にお願いされて、10年お嬢様のお側におりましたけど、少なくとも6〜7年前には、アルフレード様にはエレナ様との婚約の話が挙がっていたはずです」
「どういうこと?」
「魔力量の多さなどで、エレナ様を守る候補者として、陛下が早くに打診していたんじゃないでしょうか? アルフレード様はずっとエレナ様と接触を図ろうとされていましたが、何故か侯爵閣下に物凄く嫌われていましたし、私も先月までは護衛として警戒を指示されていたので、エレナ様には黙っていました」
突然の話に、エレナは困惑した。
「じゃあ……アルフレード様は、そんなに前から私との婚約を受け入れて下さっていたってこと?」
「そうですね。ルカ様ともこそこそ情報交換されてましたよ」
「お兄様と!?」
「陛下から打診されていたとしても、将来的にエレナ様をお守りできる程の力量になっているかは当時は未知数な訳ですし、アルフレード様は断ることもできたはずです。あの侯爵閣下の圧にも耐えて結局は婚約者になっているのですから、まあ……ご無理はされていないと思いますよ」
「……そう、かしら」
エレナの心は浮き足だった。
クララの話が本当だとすれば、アルフレードは何年も前からエレナと婚約するつもりだったということだ。
「アルフレード様が戻られたら……お話を聞いてみようかしら」
「それがいいと思います」
エレナの気持ちが浮上したのを見て、クララはにっこりと微笑んだ。
その日──迎えた新月の夜。
窓の外に月は見当たらない。
月明かりの代わりに、サイドテーブルに置かれた小さな灯りが揺れている。
エレナは、悩んでいた。
引き出しに大切に仕舞っていたペンダントを取り出し、ベッドに横たわる。
ロケットを開き、灯りに照らされて光る小さな羽根をそっと撫でた。
(フーのこと……アルフレード様に話してみようかしら。そうすれば、何か手掛かりが見つかるかもしれない。クララやヴェレニーチェ先生のように秘密にして貰えれば……。でも、それでも何の手掛りも見つからなかったら?)
エレナはポツリと呟いた。
「会いに来るって、言ったのにな……」
話すべきか、話さぬべきか。
堂々巡りを続けていると、次第に瞼が重くなってくる。
エレナはそのまま、深い眠りに落ちていった。
どれくらい経っただろう。
誰かに呼ばれた気がして、突然エレナは目を覚ました。
いつの間にか灯りは消え、部屋は真っ暗だった。
(……まただ)
しんと静まった部屋で耳を澄ましていると、遠吠えのような、小さな子供が泣いているような、そんな声が微かに聞こえる。
はっきりとは聞こえないが、苦しげで、聞いているだけで胸が締め付けられる悲しい声。
窓の外を見ると、その声はエレナにしか聞こえていないのか、庭に立つブルーノ達が動く気配はない。
(こんなに悲しい声なのに、誰も聞こえていないのかしら?)
何度も呼ばれているような気がして、エレナは暗い森をじっと見つめる。
暫くそのままでいると、木々の間、何かと目が合った気がした。
「──フー?」
エレナは唐突に思った。
妖精が自分を呼んでいる、と。
エレナはストールを羽織ると、素早く身を隠す魔術を自身に掛け、小さな灯りを持ちなるべく音を立てずに森へ向かった。
(良かった。誰も私に気付いていないわ)
はやる気持ちを抑え、警備に立つブルーノ達の間をすり抜け、森へ入る。
朝とは違い真っ暗な森は、エレナを閉じ込めるように枝を伸ばし、その葉をざわめかせた。
暫く奥へ進み、何かの気配を感じた場所まで辿り着くと、足元に光る何かを見つけてしゃがみ込んだ。
薄く、親指の爪程の大きさで、ざらつきがあり硬い。
「……鱗?」
拾い上げた白く輝く鱗を、ペンダントのロケットにそっとしまう。
立ち上がり顔を上げると、エレナは固まった。
暗い木々の影の向こう、目を眇めなければ見えない程の遠くに、大きな翼の生えた白い人影が薄ら見えたのだ。
「あ──」
思わず声が漏れると、その人影がエレナの方を振り返った。
驚きに見開かれた輝く銀の瞳と目が合った瞬間、その姿は逃げるように闇に消えた。
「待って!!」
エレナは走った。
必死で走り、人影がいた辺りで足をとめキョロキョロと辺りを見回すが、黒い木々が囲んでいるだけで何もいない。
もう少し先へ進んでみようか。
エレナがそう思い足を踏み出した瞬間──。
「きゃあ!」
腕を強く捕まれ、エレナは勢い良く振り返った。
「──エレナ!」
そこにいたのは、顔を青ざめさせたアルフレードだった。
「あ…アルフレード様……」
エレナを見つめるアルフレードの眉間には深く皺が刻まれ、見開かれた瞳には怒りというよりも恐怖が滲んでいる。頬には汗が流れ、大きく肩で息をし呼吸が乱れていた。
「約束したはずだ……ここには、入らないでくれ……と」
青ざめた顔で痛いほどに腕を捕まれ、エレナは我に返った。
(アルフレード様のお仕事の邪魔をするだけでなく、こんなにご心配までお掛けしてしまったなんて)
「申しわけ……あ、りません」
エレナは思わず謝罪したが、動揺と申し訳なさでアルフレードの顔をまともに見られない。
余程心配したのか、アルフレードの手は僅かに震えていた。
「君はさっき──いや……何でもない。とりあえず……屋敷に戻ろう」
アルフレードが何かを短く詠唱すると、氷の結晶が霧状に広がり、大きく旋回して屋敷の方へと飛んでいった。
二人は無言で歩いた。
森を抜けて庭へ出ると、ミアとアデット、クララが駆け寄ってきた。
アルフレードの先程の魔術で呼ばれたのだろう。
「エレナ様! お怪我はありませんか!?」
「ひとまず屋敷の中へ」
エレナは慌てる彼女達のその様子を見て、言い付けを破り、夜中に皆に迷惑を掛けてしまったことを心から後悔した。
エレナはクララに手を引かれながら、アルフレードを振り返った。
取り乱しているのか呆れているのか、苦悶の表情で額に手を当て、寄り添うブルーノに肩を支えられている。
エレナは彼を見続けていたが、屋敷の扉が閉まる最後まで、アルフレードと目が合うことはなかった。
部屋に戻り、侍女達三人に囲まれ布団に寝かされる。
エレナは改めて三人に謝った。
「本当にごめんなさい……」
「お怪我がなくて良かったです。もうお一人で夜に出歩かないで下さいね」
「……お仕事から戻られたら……アルフレード様にも、もう一度ちゃんと謝りたい」
エレナは庭で最後に見たアルフレードの姿を思い出した。
彼と目が合わないことが初めてで、失望され嫌われたのではという恐怖に包まれ、気持ちが鉛のように重くなった。
(明後日の朝、戻られたらすぐに謝ろう。ごめんなさいって、二度としないって伝えなきゃ……)
エレナは眠れぬ夜を過ごし、そう心に誓った。
だが、帰宅を予定していた二日後の朝になっても、アルフレードは帰っては来なかった。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
アルフレードが焦っていた理由、そしてなぜ帰って来ないのかが次回、明らかになります。
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