PCU-01-07 匿名Nの男
いつもより遅いバイト帰り。
駅前のロータリーで、自販機の缶コーヒーを片手に歩いていると──。
「達希!」
呼び止められた。振り返れば、そこにいたのは──晴翔。
息を切らし、スーツ姿で駆けてきた。
「待ってた。たぶん今日、この時間だと思って」
「……え?」
突然の言葉に戸惑う達希をよそに、晴翔は少しだけ息を整える。
「僕さ、時間ないんだ。親の容態も、あんまり良くなくて。だから──ちゃんと、言っとこうと思った」
夜の街灯に照らされた晴翔の顔は、珍しく真剣で、少しだけ寂しそうだった。
「僕、達希が良いよ。子供も、家庭も──ぜんぶ。好きとか、そういうのも含めて」
不器用だけど、真っ直ぐだった。
だけど──達希の胸は、ざわつくばかりで、言葉が出ない。
「……焦らなくていいけど、もし迷ってるなら……僕にしろって言いたかった」
それだけ告げて、晴翔は手を振った。
夜風の中、背中が小さく遠ざかっていく。
達希は、その後ろ姿をずっと見つめていた。
高校の頃から見てきた背中じゃない、大人の背中だと思った。
その翌日。
スマホが無機質に振動する。
【システム通知】
「仮マッチング結果通知──高月達希 様
第一候補:結城 晴翔 様
第二候補:三沢 玲 様
第三候補:自動マッチング対象(匿名)」
──現実が、着々と迫ってくる。
自分で選ぶか、選ばれるか。
どちらも待ったなしだと、改めて突きつけられた。
そして、さらにその翌日。
玲からの着信。めずらしく通話だった。
電話越しの声は、いつになく素直で、少し焦ったように響く。
『なぁ、達希。お前、誰選ぶんだ?』
いきなり単刀直入すぎて、言葉が詰まる。
玲は続ける。
『俺、お前のこと、ずっと待ってる。正直、もう覚悟できてる。……だから、こっち選べよ』
いつもの軽口はなくて、ただ静かで真剣だった。
スマホ越しに沈黙が流れる。
『……逃げんなよ。お前が決めろ』
そう言い残して、玲は通話を切った。
プープープーと無慈悲に流れる音。
静まり返った部屋の中で聞こえるカチコチとうるさい秒針。
達希は、スマホを握りしめたまま、深く息を吐いた。
……選ばなきゃ、いけない。
でも、心は揺れるばかりだった。
そして、さらに、さらにその翌日。
薄暗く落ち着いた照明の、都心の会員制カフェ。
案内された個室で、達希は少し緊張しながら待っていた。
──昨日突然、匿名メッセージが届いた。
「迷ってるなら、一度会って話してみない?」とだけ書かれていた文面の送り主。
名前は『N』。
怪しいかと思いきや、指定された会員制カフェは、種付け派や出産組の間ではよく知られた“中立的な相談所”だった。
ドアが静かにノックされる。
現れたのは、スーツ姿の落ち着いた男性。黒髪にメガネ、その人は達希が見覚えのある“名前だけは知っている人物”だった。
「……成瀬悠人さん?」
「うん。初めまして、達希くん。」
名を聞くだけで社会的な知名度がある──“理想の種付け派”と呼ばれる成瀬悠人。
何冊か社会系の本を出版しているし、達希も読んだことがあった。
若い頃から精子バンクを通じ、多くの精子提供の実績を持つ、いわば「この社会の理想モデル」と呼ばれる人物。
その人が、今目の前でコーヒーを手にし、静かに微笑んだ。
「ここ、外にはバレないから安心して。僕も今まで、ずいぶんこういう場所で話をしてきた」
成瀬はゆったりとした口調で言い、テーブルに小さなカードキーを置いた。
「──で、今。君は迷ってる。制度が選ぶ“正解”か、自分が選ぶ“本音”か」
ずばり核心を突かれ、達希は言葉を失った。
成瀬は、何かを見透かしたように、続ける。
「僕はね、制度を使った側の人間だけど。一つだけ確かに言えるのは──『制度が幸せを保証するわけじゃない』ってこと」
成瀬の視線は穏やかだが、重みを持っていた。
達希は、ごまかすようにコーヒーに口をつけた。
「……好きな人の子供を、産みたいんです。でも、それって──ただのワガママですか?」
沈黙。
成瀬は少し笑ってから、カップをテーブルに置いた。
「ワガママでいいんだよ。システムは、君に、種付け派か出産組かは選ばせなかった。でも、人間――君は相手を選べる。選ぶことは怖いけど……それが、自由ってやつだ」
静かに、言葉が胸に染みた。
制度に従えば安全。でも、心が納得できるかは別だ。
「好きな人が、どちらか決められないなら──まず、自分の気持ちから逃げるのはやめたほうがいい。期限が迫ってるなら、なおさらね」
その言葉に、達希は小さく息を呑んだ。
成瀬は立ち上がり、最後に一言だけ残す。
「最後に選ぶのは、システムじゃなく──君自身だよ。それに――」
少し間が空き、成瀬が言葉を続ける。
「どっちの道を選んでも、君の未来だ。時には人は、欲張ってもいいんじゃないのかな」
そう言い残して、静かに個室を出ていった。
その背中を見送りながら、達希はまだぬるいコーヒーのカップを両手で包んだ。
──本当に選ぶ勇気が、自分にあるのか。
それが、今いちばん怖かった。