PCU-02-02 悠真×裕 ②
都市の高層マンション、その最上階。
悠真は、壁一面に広がるガラス窓から、人工的に均された街を見下ろしていた。
深夜。
空には星ひとつない。
ただ、規則正しく瞬くドローンの警戒灯だけが、薄い青の軌跡を描いている。
ビル群の隙間からは、冷えたネオンの海。
赤、青、緑――人工光の色で染まったこの都市には、もう自然の闇すら存在しない。
ひとつ、通知音が鳴る。
【通知:累計3,000P到達】
【社会ランク:S】
【特典:税免除・住宅優遇・年金保証・医療無償・市民権グレードアップ】
無機質な文字列が、視界の端にホログラムで浮かび上がった。
悠真はそれを一瞥するだけで、特に表情を動かさない。
部屋の中は、いつも一定の温度と湿度に保たれていた。
春も、夏も、秋も、冬も――ここには存在しない。
冷蔵庫を開ければ、栄養管理システムが選んだ高級食材が整然と並び、
床はロボットメイドによって埃ひとつ落ちていない。
完璧な環境。完璧な効率。
だが、その完璧さが、どこまでも無味だった。
悠真は、手元のカレンダーアプリを開く。
すでに知っている予定が、冷たくそこに表示される。
【明日 14:00 マッチング相手:産む派No.24983】
カレンダーには、空白がない。
朝起きて、交尾して、採精して、種付けして、
ポイントを稼いで、眠るだけの日々。
生産性がすべて。
愛情も、欲望も、意味すら必要ない。
悠真は、ソファに背中を預け、天井を仰ぐ。
しん、とした部屋。
どんな音も吸い込んでしまう、完璧な静寂。
その中で、ぽつりと、独りごちた。
「この世界は、生む奴と、撒く奴……それだけで、人間の価値が決まる」
窓の向こう、広場では今日もスピーカーが宣伝していた。
『今月の出産件数は前月比+3.2%! 出産ポイントで未来を掴め! 次世代への貢献を!』
住民たちは誰一人、足を止めることなく、無表情で通り過ぎていく。
誰も彼もが、機械のように、次の義務を果たすためだけに動いている。
悠真は、その様子に何の感情も抱かない。
それが、この世界の「正しさ」だから。
疑問を持つことは、非効率だ。
迷うことは、価値がない。
すべてをシステムに委ね、
求められる機能だけを提供する。
それだけで、いい。
それだけで――いいはずだった。
悠真は、アプリを閉じる。
ベッドに向かいながら、無意識に小さくつぶやいた。
「あと、何ポイント積めば……何かが変わるんだろうな」
答えはない。
そもそも、答えを探す意味すら、もう忘れていた。
手に入るはずだった「安定」も、「保証」も、
空虚なこの胸の中に、何ひとつ満たされないまま積み上がっていくだけだった。
悠真は静かに目を閉じた。
そしてまた、明日も同じように目を覚ますだろう。
冷たく、
無感情に、
タスクをこなすためだけに――。
朝、目覚めた瞬間から、悠真の一日は決まっていた。
窓の外には雲ひとつない人工空。
一定のリズムで飛ぶドローン、完璧な整列を保つ車列、整えられた無機質な植え込み。
無菌のように清潔な空気を肺に入れ、シャワーを浴び、体脂肪率と水分量を測定する。
朝食は、最適化された栄養バランス食。
味も、匂いも、特筆するものはない。
歯を磨き、髪を整え、着る服を選ぶ。
そのすべてが「推奨される選択肢」の中から機械的に選ばれる。
今日も、淡々と生きるために。
そして、アプリが告げる。
【本日マッチング相手:産む派No.25014】
通知をタップすると、相手の基本情報が表示される。
年齢、健康状態、出生時の社会ランク。
感情も表情も、そこには存在しない。
――それが、当たり前だった。
待ち合わせ場所は、無数にあるマッチング専用施設のひとつ。
どれも似たような、清潔で、無個性なビル。
悠真が訪れると、今日の相手がすでに待っていた。
髪を丁寧に整えた、やや神経質そうな青年。
目が合うと、向こうが軽く頭を下げた。
悠真も、条件反射のように会釈を返す。
形式的な自己紹介。
表面だけの挨拶。
互いに必要以上の言葉を交わさず、
専用フロアに案内される。
ベッドの上で交わるとき、
青年は小さく肩を震わせたが、悠真は何も感じなかった。
挿入し、射精する。
ポイントを稼ぐ。
以上。
性交が終わると、専用の清掃ドローンが無言で部屋に入り、
二人に向かって「退出」を促す。
悠真は、青年に背を向けた。
相手の顔を、名前を、声を――覚える必要はなかった。
夜、帰宅してシャワーを浴びる。
ぬるま湯に包まれている間も、思考は空白だった。
翌日。
また別の男。
その次の日も、また別の男。
出会い、交わり、別れる。
流れるように消費される日々。
中には、時々、
どこか子供のように甘えてくる男もいた。
抱きつき、離れず、
耳元で「一緒に暮らしたい」とか、
「好きになったかも」なんて言葉を漏らす者もいた。
あるいは、
悠真と似た、乾いた目をした男に出会うこともあった。
諦めたように笑いながら、
黙って体を重ねてくる男たち。
そんな時、ふと胸の奥がざらつく。
何か、言葉にならない感情が、
指先のあたりで、わずかにうごめいた。
だけど。
――すぐに、冷静になる。
アプリを開き、ポイント残高を見る。
【累計ポイント:3,800P】
【ランク:S】
【次ランク特典:区画優遇権、資産承継権】
数字は裏切らない。
感情も、絆も、未来も――
ポイントがなければ、何も得られない世界。
悠真は、浴室の鏡に映った自分を見た。
濡れた髪、無表情の顔。
そこに、かつて「人間」と呼ばれたものの名残は、ほとんどなかった。
夢なんて、持っても意味がない。
誰かを好きになったって、
誰かに好きだと言われたって、
それで救われるわけじゃない。
むしろ、無駄に傷つくだけだ。
悠真は、タオルで髪を乱暴に拭きながら、
無意識に口元で笑った。
ひどく、ひどく、冷たい笑みだった。
今日もまた、明日もまた、
別の誰かとベッドを共にする。
ポイントのために。
生き延びるために。
それ以外に、意味はない。
ベッドの上でまた一人、任務をこなした帰り道。
夜の街は、徹底された治安維持システムによって、
不自然なまでに静かだった。
淡い光を放つ歩道、デザインされた無音の植栽。
ビル群の間を吹き抜ける風さえ、調整されている。
悠真は、無意識にポケットから端末を取り出し、
ポイント残高を確認した。
【累計ポイント:4,245P】
上昇していく数字だけが、
自分が生きている証だった。
そのはずだった。
――ふと。
人通りの少ない広場の片隅で、
誰かがこちらを見ているのに気づいた。
目が合った。
相手は、若い男だった。
どこかで見たことのある顔。
けれど、すぐには思い出せない。
脳が反射的に「不要な情報」として処理を拒んだ。
男の腕には、小さな赤ん坊が抱かれていた。
赤ん坊は、柔らかい毛布にくるまれて、
無垢な目で悠真を見上げた。
悠真は、ほんの一瞬、足を止めた。
胸の奥が、鋭く軋む。
男の目が、驚愕と――怯えと――何か、懇願のようなものを湛えていた。
悠真を見つめたまま、微かに震えている。
……誰だ?
……知っている。確かに、どこかで――。
汗が滲む掌を握りしめる。
頭の奥で、何かがうごめく。
──この街で、出会った誰かか?
──それとも、あの日、交わった誰かの中に、彼がいたのか?
わからない。
わからない。
それでも、心臓のどこかが、
見えない針で刺されるように痛んだ。
赤ん坊の小さな指が、
悠真のほうに向かってふにふにと動いた。
その仕草に、
なぜか喉の奥がひどく熱くなる。
違う。
俺には関係ない。
これは、俺の人生には存在しないものだ。
悠真は、無理やり視線を外し、
背を向けた。
歩き出す。
逃げるように。
それでも、背後から、男の視線が刺さる。
まるで、
「助けて」
と、無言で叫んでいるかのように。
都市のノイズの中に紛れながら、
悠真は奥歯を噛みしめた。
──俺の、なのか?
そんな馬鹿な。
そんな感傷、
持つ資格なんてないはずだろ。
俺はもう、
夢も、希望も、未来も、
全部捨てたんだろ?
冷たい夜風が、
ひどく、ひどく痛かった。
夜。
ホテル街のネオンが、
静かに、そして下品に輝いていた。
悠真は、今日もまた別の男を連れて、
義務のようにその扉をくぐる。
無機質な受付ロビー、
磨かれたタイル床。
壁の大型スクリーンに、
広告が流れていた。
『産もう! 僕らの未来のために!』
甘い音楽とともに、流れるイメージ映像。
白いワンピースをまとった、
一人の若い男が、にこやかに子供を抱いて微笑んでいた。
その腕には、三人の子供たち。
幼い子供と、双子の赤ん坊。
そして、画面の右上には、
大きく誇らしげに文字が踊る。
【産む派モデル No.24983】
【出産数:3人】
――……。
悠真の足が、止まった。
画面に映る男。
……どこかで、見たことがある。
いや、忘れようとしていた顔だ。
先日、あの広場で赤ん坊を抱えていた、あの男。
裕。
ワンピース越しでもわかる、痩せた身体。
けれど、目だけは優しく、穏やかだった。
抱きかかえられた長男。
その顔を見た瞬間、悠真は息を呑んだ。
……小さい頃の、自分にそっくりだった。
脳裏に、
幼いころ親に抱かれた自分の姿が蘇る。
あれは、――俺だ。
広告の映像は、容赦なく続く。
裕が、双子たちに微笑みかける。
赤ん坊が、彼の指をぎゅっと握る。
その手つきが、あの日、広場で向けられた、
あの無垢な動きと重なる。
「……っ」
何かを吐き出したくなる。
けれど、悠真は、
無理やり足を動かした。
――見なかったことにしろ。
――関わるな。
そう自分に命じながら。
ロビーの奥、各部屋へと続くエレベーター前。
タイミングが重なった。
エレベーターのドアが開く。
そこに、
別の男と一緒に立っていた。
裕だった。
裕も、こちらに気づいた。
一瞬、動きが止まった。
けれど、
彼はすぐに何事もなかったように、隣の男へ微笑み、
寄り添うようにして歩き出した。
同じタイミングで、
悠真も連れの男に肩を押されるようにして、
別の方向へと進んだ。
すれ違う。
交わらない。
視線も、言葉も、交わさない。
別々の部屋のカードキーが、
機械的な電子音を立てて認証される。
白いドアが、二人を、
完璧に切り離した。
ドアの向こう。
それぞれの違う男たちと、
それぞれの「仕事」が始まる。
同じ建物の中にいながら、
互いを知らないふりをして、
悠真と裕は、
二度目の、すれ違いを果たした。
何も、言わなかった。
何も、できなかった。
ただ、
悠真の胸の奥では、
言葉にできない叫びが、
どす黒く渦を巻いていた。