PCU-01-10 期限当日
朝からずっと、時計の針の音だけがやけに耳に残っていた。
スマホの通知は、相変わらず鳴らない。玲からの返事も、電話も。
もう、わかっていた。
玲は──こない。
部屋の中は、春の光が差し込んでいるのに、肌寒かった。
決断の時間は、夕方五時。
それまでに、システムに通知しなければならない。
誰の名前を記入するか、あるいは、白紙のまま提出するか。
何度も画面を開いては閉じ、名前の入力欄に、玲の名前を打ちかけては指を止める。
何度も、何度も繰り返した。
名前が打てないのは、諦めきれない証拠だった。
「……玲、最後まで待つから」
ぽつりと、つぶやく声が部屋に響く。
今までの時間が、頭の中を駆け巡る。
笑い合った日、喧嘩した日、素直になれなかった日。
そして、あのカフェでの玲の「やだ」という言葉。
スマホの画面は、黙ったままだ。
午後四時五十五分。
部屋の中は、息を潜めたみたいに静かだった。
通知音は鳴らない。
どこかで風の音が窓を揺らすだけ。
締め切りまで、あと五分。
手は、そっとスマホの画面をタップする。
名前の入力欄は、まだ空白。
画面の向こうに、玲の声が届くんじゃないかと、最後まで期待してしまう自分が悔しい。
でも──それでも待ち続けた。
時計の針が、ちょうど五時を指す。
分かっていたけど、玲からの通知は、こなかった。
締め切り時間は、もうとっくに過ぎた。
入力欄には何も書かないまま、システムの画面は自動でログアウトされていた。
選ばなかった、という結論。
それが今日、自分の出した答え。
机の上に突っ伏したまま、何も考えたくなかった。
頭の奥がじんじん痛んで、目の奥が熱い。
だけど、泣く気力もなかった。
ドアがノックされたのは、そんなときだった。
玄関を開けると、そこに立っていたのは晴翔だった。
「……来たよ」
いつも通りの軽い声。
でも、その目は達希の沈んだ顔を一瞬で読み取っていた。
「玲くん……やっぱ、来なかったんだね」
達希は、言葉を返せなかった。
晴翔は何も言わずに、そっと達希の手からスマホを取り上げて画面を伏せる。
「僕さ。ずっと思ってたんだよ。きっと、玲くんは逃げるって」
それは責める言葉じゃなかった。
ただ、静かに寄り添うように、ぽつりとこぼしただけだった。
「僕は……どっちにしろ、ここにいるって決めてたから」
晴翔はそう言って、そっと達希の頭に手を置く。
それは慰めとも違う、ただそこにいるという証だった。
◆玲 side
駅のホーム。
ベンチに座ったまま、玲はスマホを握りしめていた。
達希の連絡履歴が並ぶ画面。
期限の時間を、とうに過ぎたそのとき、通知はもう止まっていた。
「……やっぱ、もう……遅いか」
玲は小さく笑った。
自分でも、どうしようもないくらい悔しくて、情けなくて。
けれど、どうしても言えなかった「うん」のひと言。
あの日の達希の言葉が、何度も耳に蘇る。
二人とも選びたい。
それが達希の本音だって、ちゃんとわかっていた。
でも、誰かと分け合うなんて、器用にできなかった。
ポケットの中には、小さく折りたたんだメモ用紙。
手紙なんて普段書かないくせに、不器用な字で達希への言葉を綴っていた。
だけど、届ける勇気が出なかった。
もう、間に合わないのかもしれない。
それでも、心のどこかで達希の顔が焼き付いて、離れなかった。
春の風が吹き抜ける駅のホーム。
次の電車が来るアナウンスが遠く響く。
玲はゆっくりと、手紙を握りしめたまま、ベンチから立ち上がった。