プロローグ:静かに消える声
カフェの空気は湿気を帯び、どこか沈んだ気配が漂っていた。
店内の窓ガラスは、降りしきる小雨でぼんやりと曇っている。
八雲ユイは、その窓をじっと見つめていた。
ユイは、小柄で華奢な体つきをしている。
柔らかく波打つ黒髪は肩に届くほどの長さで、前髪が目の上ぎりぎりまでかかっている。
その大きな瞳は黒曜石のように澄んでいたが、どこか翳りを感じさせる。
まるで人形のように整った顔立ちは、年齢よりも幼く見えるほど可愛らしい。
けれど、その瞳の奥に潜む冷徹な光が、彼女がただの「可愛い女の子」ではないことを物語っていた。
彼女の肌は透き通るように白く、儚げな印象を与える。
深いネイビーのジャケットをきちんと着こなし、整えられた装いが、彼女の芯の強さを際立たせていた。
「……これ、食べないのか?」
目の前の加賀見裕也が、苺タルトを指さして言った。
加賀見は、黒髪を無造作に流した男だ。
その髪はやや乱れがちで、襟元のネクタイも気だるそうに緩められていた。
整った顔立ちに切れ長の目が印象的だが、どこか人を食ったような表情が常に浮かんでいる。
だが、その目はいつも鋭く、相手の隙を見逃さない。
シャツの袖を無造作にまくり上げた腕には、喫煙者特有のほのかな煙草の匂いが染みついていた。
ラフで気取らない姿には、エリートらしい気配は微塵も感じられない。
「……“心不全”で急死した男性がいたナリ」
ユイが呟いた。
その声は小さく、けれど芯の通った響きを帯びていた。
「まぁ、その歳なら不思議でもねぇだろ」
加賀見が煙草に火をつける。
紫煙がゆらりと立ちのぼり、その向こうでユイの小さな顔がぼんやりと霞んだ。
「でも、奇妙なことがあるナリ」
ユイは、静かにテーブルの上の書類に目を落とした。
指先が書類の角をなぞり、その動きにはわずかな苛立ちが滲んでいる。
「……“レクシオンα”ナリ」
ユイの声が、妙に冷たく響いた。
その言葉を耳にした瞬間、加賀見は煙草の火を乱暴にもみ消した。
「……で、そいつが死んだってのか」
「……その患者だけじゃないナリ」
ユイの声は、さらに低くなった。
「3人とも、症状が安定していたはずなのに……」
そのとき、カフェのドアが開いた。
「おや、物騒な話ね」
軽やかな声とともに、冷たい空気が流れ込んだ。
月影ルカが立っていた。
ルカは、ユイとは正反対の雰囲気を纏った女だ。
背が高く、スラリとした長身に、黒いロングコートが冷たく揺れていた。
彼女の黒髪はユイよりも長く、艶やかに流れ落ちるように整えられている。
冷たく整った顔立ちは、まるで氷で彫り上げた彫刻のようだった。
目元は鋭く吊り上がり、切れ長の双眸が見る者を射貫くような威圧感を放つ。
唇は深紅に彩られ、そのわずかな笑みが、どこか人を見下すような印象を与えていた。
細く白い指が、コートの裾から覗いていた。
指先までどこか冷ややかで、優雅でありながら、人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
「……お前か」
加賀見が、わずかに嫌そうな声を出した。
「“レクシオンα”の話、耳にしたわ」
ルカは、唇を吊り上げた。
「ワタクシ、面白いものを見つけたの」
「……また、気味の悪いことを言い出すつもりか?」
「ええ」
ルカの声は、まるで氷のように冷たかった。
「……“レクシオンα”の治験データ──第2相の治験では、すでに7人が死んでいたそうよ」
「……7人?」
加賀見の声が、わずかに詰まった。
「でも、その“死亡データ”は、セントラル社の報告から消されていたわ」
ルカの目が、どこか愉しげに光った。
「“数字にされる命”──そう呼ぶのが、相応しいわね」
ユイの目が、鋭く細められた。
「……人の命が、“データ”として消されていたナリか?」
「そう」
ルカは、冷たい笑みを浮かべながら言った。
「……そして、消された命は、誰も知らないまま、ただ静かに消えていくのよ」
その言葉が、ユイの背中に重くのしかかった。
「……ワガハイが、その“声”を暴くナリ」
雨がさらに強くなり、窓ガラスに無数の雫が叩きつけられていた。