彼との出会いは運命ですか!? 〜きっかけは記憶喪失でした〜
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ふさわしくない。それは誰のものさしで測ったものなのだろうか。決めつけるのはまだ早い。
男爵令嬢であるリリーネは、身分を隠して街のパン屋で働いている。
リリーネは、ニマニマしていた。両手には紙袋に詰められたパンを抱えている。これから公園でパンを食べるのだ。食欲をそそる香りに浮き足が立つ。
目的の場所に到着すると珍しく人影があった。青い髪色をした人が、頭を抱えてベンチに座っているのだ。明らかに様子がおかしい。彼の周りには、よどんだ空気が漂っている。ただ、見るからに高級そうな衣服を身にまとっている。遠目でも分かるほどだ。
見慣れない光景に、心臓がドクリと音を立てた。けれども良心がうずいたリリーネは、驚かせないように気を配り、そっと声をかけた。
「あの〜どうかされましたか」
知らない人に声をかけるのは、気後れする。もし冷たくあしらわれたら、心が傷つく。だから中々出来ることではない。その点リリーネは、お人好しだ。困っている人がいたら、放っておけない性分である。
彼から何の返事もない。リリーネはめげずに声をかける。
「何かお困りですか」
二度目も反応がない。ふっと軽く溜息がもれた。聞こえないふり? 返事をする余裕がない? 判断がつかない。どうしたものかと考え、そっとしておくことにした。ただ落ち込んで見えるのだ。少しでも元気になってほしい。知らないフリも出来たが、もう一度だけ声をかけてから、帰ることにした。
「あの! よかったらこのチョコクロワッサン食べてください。すごく美味しくて、笑顔になれるんです」
目の前にしゃがみ込むと、紙袋からおもむろに差し出した。疲れたときや落ち込んだときは、甘いものが一番である。その声に彼はハッとして顔を上げた。近くに誰かいると気づかなかったのだ。今まで人の気配がなかったせいだ。焦燥しきった表情をしている。そんなこととは知らず、彼の金色の瞳と目が合った。あまりのかっこよさに、リリーネの動きが一瞬止まった。体に稲妻が走ったような衝撃だった。
その容姿はまるで、王子様のようなのだ。だがすぐに持ち直しニコリと笑うと、そっとパンを渡した。心が穏やかになるようにと願うのだ。
彼は目を瞬かせた。手を震わせながらも受け取ってくれた。リリーネはホッとひと息つくと、腰を浮かせた。それにしても素敵な方だわと思いながら……。そうして一歩足を踏み出そうとした。ところが咄嗟に手をつかまれた。
理由が分からず、リリーネは血の気が引いた。何か癇に障ることでもしてしまったのだろうか。息をのみ振り返ると、顔色が真っ青な、こわばる彼の姿があった。
「まっ待ってくれ! 君は俺の知り合いか?」
告げられた言葉に、リリーネの目が泳いだ。すがるような目つきに、胸がツキンと痛む。彼があまりにも不憫に思えた。うっかり頷きそうになる。それをグッとこらる。
「ごめんなさい……初めてお会いしました」
ときには優しいウソも必要だ。今回ばかりは正直に話したほうが身のためなのだ。リリーネの生家は困窮する男爵家だ。差し出したパンは、働く対価としてお店からもらったものだった。彼の衣服についている装飾品を見る限り、高位貴族の可能性が高い。取り入るためにウソをついたと思われたら、両親が非難の的になる。それは避けたい。
リリーネの言葉に彼の手がスッと離れた。とても悪いことをしているような気分だ。
「あの……大丈夫ですか」
「…………いんだ」
「え?」
「わからないんだ! ここがどこなのか、俺が誰なのかも」
彼は記憶を失っていたのだ。弱々しく話す声に、いたたまれない気持ちになる。一人きりでさぞ不安だったことだろう。目が覚めると海辺に横たわっていた彼は、助けを求めるために彷徨った。ようやくたどり着いたのがこの公園だった。途方に暮れていたところに、リリーネが声をかけたのだ。
リリーネは力になりたいと思った。
「ここは街外れにある公園なんです。なのであまり人が来ない静かなところなんです。私はこの雰囲気が気に入ってよく利用しています。少し進むと街がありますので行ってみませんか? きっと何か思い出しますよ! それにあなたを知る人に会える可能性だってありますから」
「そうか街があるんだな……そうだな行ってみよう。君は優しいんだな」
「いえそんな! すごく困っているように見えたので……記憶を取り戻す手助けが出来たらと思っただけです」
「だが、こうして見ず知らずの俺に親切にしてくれてるじゃないか。中々出来ることではないと思うんだが。その……すまないが、君の名前を教えてくれないか。俺には名乗る名前がないのだが」
リリーネにとって、手を差し伸べることは当たり前のことだ。褒められると思わなかった。一瞬ためらったが、教えることにした。ただし、パン屋で働いているときの偽名だ。
「私は、リーネです」
本当はリリーネと名乗りたかった。しかし男爵令嬢が、こんなところで働いていると知られるのは怖い。馬鹿にされる可能性を否定しきれないないのだ。素性を知られないためとはいえ、ウソをついてしまうことに良心の呵責を感じる。
「リーネか! いい名前だ」
彼はそう言うと、ふわりと微笑んだ。不意打ちの笑顔にリリーネは、一瞬で恋に落ちてしまった。だから思ってしまったのだ。このまま記憶が戻らなければいいのにと。そうすればずっと一緒にいられるのだから。
しかし冗談でもそんなこと思うべきではなかったのだ。この後街であんなことが起こるなんて知る由もなかった。
☆★☆★☆
「随分と賑やかな街なんだな」
商店街に飛び交う人々の声を聞きながら、彼は目を白黒させた。先ほどまでいた公園の雰囲気とはまるで違うからだ。
「はい! そうなんです。街のみんな家族みたいに仲がいいおかげだと思います」
「そうか。いい街だな」
二人は、あらゆる場所を見て回ることにした。時々リリーネに声をかける店の店主もいる。リリーネは、パン屋の看板娘的存在なのだ。リリーネが働き出してから笑顔に癒されると、パン屋に人が押し寄せるのだ。
不意にリリーネの手が彼の手につながれた。街が混み合っているからだ。戸惑い、体が石のように硬くなった。しかしつながれた手の存在に気づくと、手の温かさが伝わってきた。顔がジワジワ熱くなるのを感じながら、彼を見た。
「そのなんだ……俺はこの街のことがよくわからないみたいだ。だから、はぐれたら困ると思って」
彼はもう片方の手で、頭をかきながら頬を赤らめていた。その仕草に期待で胸が踊り出しそうだ。
リリーネが男の人と歩いているのは珍しい。そのせいか「リーネちゃん今日はデートかい」などと街の人にからかわれた。手をつなぐ瞬間を見られたのも原因だ。何だか照れくさくなり、お互い顔を赤くしながら笑った。
からかわれても、つながれた手が離れることはなかった。彼は「よくわからない」と口にしながらも、内心は記憶を取り戻すことを諦めていない様子だ。キョロキョロしながら、奥歯をかみしめているのがその証拠だ。リリーネはそれに応えようと、必死になった。新たな道を曲るたびに見覚えはないかと聞いた。
途中で『これは記憶を取り戻すためよ、デートじゃないわ』と言い聞かせた。先ほど街の人に言われた言葉が、頭にこびりついて離れないからだ。このままが永遠に続けばいいのにと思う。リリーネは街を回りながら、すっかりと彼のことが好きになっていたから。しかし時間は限られている。
「私、そろそろ帰らないといけないんです」
「そうだよな、ありがとう。連れ回して悪かったな」
「そんなことないです。私が好きでしたことですので」
「ではせめて家まで送ろう」
「あっえっと私……この街から少し離れたところに住んでいるんです。それで乗合馬車で来てまして……」
「そうなのか――大変だな。なら馬車乗り場まで送らせてもらってもいいだろうか」
「はい。よろしくお願いします」
「断られなくてよかった。それと、図々しいお願いなんだが明日もまた街を案内してくれないだろうか。リーネといると何か思い出せそうな気がするんだ」
「もちろんです」
彼の言葉に心が跳ねる。緩みそうになる顔を抑えながら歩き出したが、何だか街が騒がしい。そう思ったのも束の間、それは突然だった。リリーネの目の前に荷台を引く馬だけが、向かってきていたのだ。ハッと気づいたときにはもう手遅れだった。御者台には誰も座っておらず、最悪な状況なのは一目瞭然だ。おそらく衝突は免れない。リリーネは覚悟して目をつむった。
しかし思ったような衝撃は来ない。少し痛みはあった。不思議に思い、おそるおそる目を開けると、彼に抱きかかえられていた。身を挺して暴走した馬から守ったのだ。注意していたら防げたかもしれない。リリーネの心は、浮わついていたのだ。明日も彼に会えるんだと。その油断が招いた結果、彼は大怪我をした。
「大変だ! 人が引かれたぞ」
「早く医者を呼べ」
あらゆる言葉が行き交う中、リリーネの頭の中から色づいていたものが消えた。彼の頭からは血が流れ落ちているのだ。
「うっ……リーネ……無事……か?」
「えぇ……あなたのおかげよ。でもお願いあまり喋らないで。血が沢山出ているわ」
「なら……よかっ……」
かろうじて絞り出すように言葉を発すると、彼の手がだらりと落ち意識は途絶えてしまった。こんな時に人の心配をするなんて、彼の方こそ優しい人だ。
「あっ……いっいや――――誰か助けて」
リリーネはバチが当たったんだと思った。彼の記憶が戻らなければいいと望んでしまったから。
上手く呼吸が出来なくて、胸が痛い、苦しい。
馬は彼と衝突したことによって、皮肉にも他に大きな被害を与えることなく止まった。
リリーネが力のかぎり叫ぶと、声を聞いた街の人が沢山駆けつけてくれた。怪我の具合を見てくれている。しかしここでは手の施しようがなく、皆一様に首を横に振るばかりだ。もっと大きな都市の医者に診てもらう必要があるのだ。リリーネは何としても助けたかった。だから街の長に会って、馬車を手配してもらうことにした。
けれど普段は気のいいオジサンだが、たった一人のために馬車は出せないという。
それならとリリーネは悩んだすえ身分を明かすことにした。何を言われようがどうでもよかった。こんな権力を盾にするやり方は好きじゃないが、人の命がかかっているのだ。それでも信じてもらえず必死にお願いしても聞き入れてもらえない。
「いくら助けたいからって、ウソはいけないよ。こんな辺鄙なところに、お貴族様が来るわけない。帰った帰った」
「そっそんなウソはついてません! 本当なんです」
長は目も合わさず、邪険にした。胸がえぐられる気分だ。長が言うことはうなづける。確かにここは観光地ではない。貴族がわざわざ足を運ぶ場所とは言えないのだ。だからこそリリーネは、密かに働きに来ていたのだ。商業は栄えているが、街の人々が生活するためだけにある。なすすべはないのかと諦めかけたとき、ふと手に何かを握りしめていることに気づいた。ドキドキしながら手のひらを開くと、金色に輝くボタンだった。これは、彼が着ていた服の装飾品で、袖口についていたものだ。
馬とぶつかった衝撃により、思わずつかんでしまったのだ。明らかに高級そうなボタンを、持っている事実に手が震えた。でもこれなら長もうなずいてくれるはずだ。彼が記憶をなくしてる以上真実は分からないが、見せるだけの価値はある。
「待ってください! これは彼の所持品なんです! これの意味するものが何だかお分かりですか」
リリーネは憶測でものを言っている。単なるその場しのぎにすぎない。知らないと言われてしまえばそれまでだ。後のことを考えている暇はない。不安で少し声が震えてしまったが、長にボタンを見せることが出来た。すると長の顔がみるみる青くなっていく。
「これはカーバイル家の紋章じゃないか」
「えっ」
リリーネには紋章じゃないかしか聞き取れなかった。
「なぜ早く言わないのですか。危うく首が飛ぶところだったじゃないですか。まぁいいです。とにかく馬車を手配いたしますので港でお待ち下さい」
長から深い溜息が聞こえ、何やらブツブツと言っていた。リリーネは、態度の変化にオロオロするも、判断は間違ってなかったのだと、肩の力が抜けた。
「リーネちゃん――いやリリーネ様。早くお行きなさい。彼を診療所へ連れて行くのでしょう」
「はっはい! ありがとうございます」
貴族だと扱いがまるで違う。リリーネは少しシュンとした。いつものようにリーネちゃんと呼んでくれることを願わずにはいられない。明日にはリリーネが貴族だとみんなに知れ渡るのだろう。よそよそしくなるのが目に見える。そうなればいつものように接することは難しくなる。男爵位は一番平民に近いが貴族は貴族である。漠然とだが、もうここには来れない。そんな予感がするのだ。
長はすぐに馬車を手配してくれて、無事に診療所へ連れて行くことが出来た。今はベッドで適切な処置を受けている。一命を取りとめたのだ。リリーネはずっと気を張っていたため、安心した途端力が抜けて倒れてしまった。
目を覚ますと、何故か家のベッドで寝ていた。数少ない使用人が一向に戻らないリリーネを心配し、街まで探しに行ったのだ。診療所にいることが分かり、連れ帰ったからだ。真っ先に心配したのは彼のことだった。父であるトレバン男爵は、リリーネの話を聞いたうえでとある話をした。
「彼はカーバイル公爵家の長男、フェリルク様なんだ。未だに目は覚めていないが無事だよ」
「えっ……」
貴族とは思っていたが、予想以上の爵位だ。
「実は先日、船の転覆事故で行方不明になったと聞いていていたんだよ。生存しているか分からないと言われていたのさ。リリーネが助けていたとは、我が娘ながら誇らしいね」
「うそ……」
「本当だよ。しかし二度も事故に合って生きているなんて、相当運が強いお方だね。だけど、リリーネをかばうためとはいえ、ご子息を危険な目に合わせたことに変わりはないからね。公爵家にはきちんと報告をするよ。何かしら処罰は受けるだろうから、覚悟しないとだね。まぁ何より見つかってよかったよかった」
数日後フェリルクが目を覚ましたことの報告とともに、公爵家の従者が訪ねてきた。助けてくれた謝礼として大金を置いていったのだ。一度は受け取れないと断ったが、受け取ってもらえるまでは帰って来るなと言われたようで、受け取るほかなかった。遠回しに、金を渡すから息子には近づくなと言いたいのだ。いわゆる手切れ金だ。これがリリーネへの罰だ。
分かってはいたが、涙があふれてくる。公爵家と釣り合うような家格であれば、こんなことにならなかった。今の爵位が恨めしい。そもそも婚約者がいる可能性すらある。考えるのはフェリルクのことばかりだ、結局あんな事故に会ってしまったのでリリーネも外出禁止を命じられている。だから【また明日】の約束は果たせなくなった。
記憶が戻らず不安な思いをしてないだろうか、それとも既に記憶を取り戻したのだろうか。短い時間だったけどリリーネは幸せだった。今もなおフェリルクとつないでいた手の温もりが忘れられない。胸の前で両手を握りしめながら思うのだ。出来ることならもう一度会いたい。
その一方大金が入ったおかげで、しばらく男爵家は安泰だ。リリーネが働かなくてもいいことになった。
しかし気がかりなことがもう一つある。それは街のパン屋のことだ。何も言わずに辞めることになってしまったからだ。馬車の事故から数ヶ月たっていたが、未だに外出禁止令は解かれていない。使用人の一人が事情を説明しに行ってくれたのだが、やはり直接謝りたい。
リリーネは両親にお願いして、必ず一人は付き添いを連れて行くことを条件に、街のパン屋へ行くことを許してもらった。久しぶりに街へ降り立ったリリーネは、懐かしい香りに思いっきり息を吸い込んだ。早速パン屋へ足を踏み入れると、店主が変わらない笑顔で出迎えてくれた。文句を言われる覚悟で身構えていたが、そんなことはなかった。トレバン家の使用人はどうやら出来た人間のようだ。リリーネの気持ちをくんで機転を利かせたのだ。
パン屋は辞めたことにはなっておらず、この街にリリーネの居場所はまだあったのだ。そして店主がいつも通り接してくれることに胸が一杯になった。そこで店主は何かを思い出したかのような表情をすると、リリーネ宛だという手紙を渡した。
誰からだろうと首を傾げながら裏を返すと、フェリルクの名前が記されていた。信じられず目を見開いた。
今でも忘れられない人……。リリーネはあの一瞬一瞬フェリルクに恋をしていた。きっと律儀に別れの手紙をくれたのだと思った。リリーネは手紙を読む気にはなれなかった。まだ心の準備ができておらず傷つきたくないからだ。覚えてくれている嬉しさと切なさに少しだけうつむいたが、笑顔を作り店主に、お礼を言うとそのその場を後にした。
まさか手紙をもらうと思っていなかった。リリーネは本当の意味でこの恋を終わりにしようと、フェリルクと初めて会った公園に行くことにした。その足取りは、おもりをつけたようだ。先ほど店で買ったパンを抱えて、フェリルクとの出会いを思い返していた。使用人には公園の入口で待っていてもらうことにした。思い出に浸りたいからだ。ところが公園に着きいつものベンチに向かうと既に先客がいた。
フェリルクがベンチに座っていたのだ。
「う……そ」
その声に気づいたフェリルクは、切なげな表情をしながらも一直線にリリーネの元へかけ寄って抱きしめた。その反動で、手に抱えていたパンをトサリと地面に落とした。
「リーネ! 会いたかった」
夢を見ているようだった。もう二度と会えないと思っていたフェリルクが目の前にいるのだ。
「どうして……」
「どうしても何もないだろ――もしかして、手紙読んでないのか」
「だって……お別れの手紙だと思ったから」
「はぁ……まじか」
「えっ違うの? だって公爵家の従者が来て、手切れ金渡されたからてっきり……」
「手切れ金? あぁそういうことか。すまない、あれは父なりの感謝の気持なんだ。聞いてると思うが、行方不明だった俺が馬車の事故で、無事にとは言えないが家へ帰ることが出来た。不幸中の幸いだな。父は何でも金で解決出来ると思っている嫌いがあるんだ。許してくれ。それと俺は記憶が戻ったんだ」
「本当に?」
「本当だよ。ここでウソなんかつかないさ。会いたいと思っていたのは俺だけなのか。いや……そういうことじゃないよな」
フェリルクはリリーネの目を真っ直ぐに見つめた。
「俺の名前はフェリルク・カーバイル。カーバイル公爵家の長男だ。すまないが君の名前を教えてくれないか」
「あっ……私はリリーネ、リリーネ・トレバンです。トレバン男爵家の一人娘です」
出会いのやり直しだと思った。あのときフェリルクは名乗るべき名前を忘れていたのだから。リリーネも本当の名前を名乗った。おそらく素性は知られているのだから。しかし公爵家と男爵家では家格の違いがありすぎる。出会い直したところで、この恋は上手くいかず、始まった瞬間に終わる。本当に恨めしい。
「リリーネか! いい名前だな」
呼ばれたかった本当の名前で呼ばれて、鼓動が高鳴るがここでお別れだ。最後だと思うと急に淋しくなる。
フェリルクには二度と会えないと思っていた。哀れなリリーネに、はかない夢を見せてくれたのだ。涙は見せないと、必死に笑顔を取り繕う。これで前に進めるなら本望だ。
「ありがとう! フェリルク様と出会えてよかったです。私そろそろ行かないといけないので、サヨナラです」
「待ってくれ! もうサヨナラなのか? また会えるんだよな」
フェリルクの慌てた表情に、少しだけ期待に胸が膨らんだ。
「うんん。だってフェリルク様と私は、住む世界が違いすぎます」
「もしかして家格のことを気にしているのか? そんなことであれば問題ない。両親は理解ある人たちなんだ。俺は、リリーネとまた会いたいと思ってる。だめか? それとも他に懸念事項があるのか」
「えっ」
聞き間違いだろうか、それとも都合よく捉えてしまっているのか。いいや確かにフェリルクは、家格のことは問題ないと言った。
「俺はリリーネと出会ったとき、一人で不安だったんだ。どこの誰かも分からず、人知れず魂が朽ちるのだと悟っていた。だけど手を差し伸べてくれて、必死に俺の記憶を取り戻そうとしてくれた。嬉しかったんだ。こんな優しい子がいるんだって……あぁそうかそうだったのか。俺は、いつの間にかリリーネのことが好きになってた。ずっと会いたかった。だけど、リリーネの家へ突然訪問したら困らせると思ったから、初めて会った公園で待つことにしたんだ。必ず来てくれると信じていたよ」
真剣な眼差しを向けるフェリルクの告白に、リリーネの心臓は恋の矢に射抜かれた。ドクンドクンと暴れ出し、目には涙があふれていた。そうなれば答えはひとつだ。
「……も……私もフェリルク様のことが好きです」
その言葉を聞くと同時に、フェリルクはリリーネをきつく抱きしめた。
「はぁ……めちゃくちゃ嬉しい。これから末永くよろしくな」
初めてのキスは甘じょっぱい味がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
落下したパンはきちんと拾って、仲良く二人で食べました。袋からこぼれ落ちたものは、鳥さんの餌になっていますので安心してください(?)
〜おまけ〜
フェリルクの手紙
【リーネへ】
ここはリリーネと呼ぶべきだろうか。俺は馬車の事故があった後、目が覚めると全ての記憶が戻っていたんだ。まさか二度も事故に合っていたとはな、我ながらなんて不運なのだろうと思ったよ。だがおかげでリリーネにも会えたしこうして記憶を取り戻すことが出来た。
それからリーネが、トレバン男爵家の令嬢であるリリーネだと聞いた。同じ貴族だとは思わなかったから、正直驚いたし嬉しくもあった。
馬車の事故の後ずっと付き添ってくれていたそうだね、本当に感謝している。あのときリリーネに出会わなければ、きっと野垂れ死んでたんだろうな。
見つけてくれてありがとう。どうやら俺は、リリーネの笑顔が忘れられないみたいだ。
この気持ちが何なのか、会って確かめたい。それに直接お礼も言いたいと思ってる。だから俺たちが初めて出会ったあの公園で、リリーネのこと待っているよ――
フェリルク
また、別の作品でお会い出来たら嬉しいです。