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第3話:見逃したサイン、繋ぎ止めた絆

今夜も21時になりました。慎一郎の旅は三つ目の後悔へと至ります。


これまで「ビジネスの成功」や「地球規模の救済」を成し遂げてきた慎一郎。世界を塗り替えるたびに、彼は英雄として歴史に刻まれていきますが、その代償として、自らの人生の彩りを一つずつ失い続けています。


今夜彼が向き合うのは、一九七〇年代。高度経済成長の影で、彼が最も後回しにしてしまった存在——「家族」です。 仕事という名の正義を盾に、妻の涙を、息子の叫びを、娘の孤独を見逃してきたあの日々。


救世主となった男が、一人の「父親」に戻るための戦いが始まります。 第三話「見逃したサイン、繋ぎ止めた絆」。どうぞ、最後まで見届けてください。

——みっつめの後悔:仕事という名の免罪符で、家族を捨てた日——



 病室の壁に飾られたノーベル平和賞の盾。窓の外に広がる、奇跡のように澄み渡った青空。それらは慎一郎が過去を書き換え、手に入れた「新しい世界」の証だった。  しかし、九十九歳の慎一郎には、その栄光を誇る資格がないように思えた。  かつて親友と共に歩んだ熱い記憶も、異星の友リーナと交わした銀河の約束も、すべては代償として支払われ、彼の脳裏からは完全に消え去っていた。


「私は……何のために、この空を青くしたのだったか」  空っぽの心で呟く。手元に残ったのは、輝かしい「結果」という名の抜け殻だけだ。  だが、そんな虚無感に浸る間もなく、心臓を鷲掴みにされるような鋭い痛みが走る。それは、これまでの後悔とは質の違う、より重苦しく、血の匂いのする痛みだった。


 三つ目の後悔。それは、世界を救うことよりも、一人の男として遥かに困難で、そして最も優先すべきだったこと。  ——家族。  石川慎一郎という男が、仕事という正義の裏側で、最も残酷に切り捨ててきた存在。  砂時計が再び激しく音を立て、慎一郎の意識を、あの暗い沈黙が支配していた「自宅」へと引きずり戻した。



 ——一九七〇年代初頭。高度経済成長期の熱狂の中、慎一郎は働き盛りの四十代だった。  当時の彼は、宇宙人から授かった知識を社会に実装するための「Blue Earth」プロジェクトの立ち上げに没頭していた。連日の深夜帰宅、週末も返上しての会議。  彼は信じて疑わなかった。自分が成し遂げようとしていることは「正義」であり、家族もそれを理解し、誇りに思っているはずだと。


 だが、現実は違った。  食卓にはいつも、ラップをかけられ冷めきった食事が置かれていた。  ある夜、息子の大輝が、震える声で話しかけてきた。 「お父さん、ちょっと話があるんだけど……」  慎一郎は書類から目を離さず、短く答えた。 「あとにしろ。今、明日の国際会議の資料を仕上げなきゃならん」  大輝の瞳に宿っていた小さな期待が、プツリと切れた音がした。


 ある朝、妻の美紀が、激しい咳を隠しながら言った。 「慎一郎さん、少し体調が……。今日、病院へ付き添ってくれないかしら」  慎一郎は時計を見て、苛立ちを隠さずに答えた。 「君だって、もう子供じゃないんだ。一人で行けるだろう? 俺がいなきゃ、プロジェクトが止まるんだ」  美紀の寂しげな微笑みを見逃したまま、彼は玄関を飛び出した。


 娘の花音が、学校に行けず部屋に閉じこもった時も、彼は「思春期の気まぐれだろう」と一蹴した。  結果として、大輝は父を憎んで家を飛び出し、美紀の病は手遅れとなり、花音は心に深い傷を負ったまま、誰にも心を開かなくなった。  慎一郎が手に入れたのは「地球の救世主」という称号と、冷え切った、誰もいない大きな屋敷だけだった。


(……今度こそ。世界なんて救えなくていい。俺は、この三人を救うんだ)



 慎一郎の意識が、働き盛りの逞しい肉体に宿る。  一九七〇年代の空気。煙草の煙と、重厚な家具の匂い。  目の前には、あの夜と同じ冷めた夕食。そして、居間のソファで教科書を広げている、中学生の大輝がいる。


「大輝」  慎一郎の声に、大輝は肩をビクリと震わせた。叱責されるのを恐れるような、その怯えた眼差しが慎一郎の心を切り裂いた。 「お父さん、あ、あの、ごめんなさい。すぐに部屋に戻ります」 「いや、いいんだ。……さっき、話があるって言ったな。聞かせてくれ」  慎一郎は手に持っていた重要書類を、迷わずゴミ箱へ捨てた。 「……え?」 「仕事はもう終わりだ。今日は、お前と話をするために帰ってきたんだ」


 大輝は最初、戸惑っていたが、慎一郎が真剣に自分を見つめていると分かると、堰を切ったように話し始めた。学校でのいじめ、進路への不安、そして「父さんに認められたかった」という切実な願い。  慎一郎は大輝の肩を抱き寄せ、ただ静かに頷いた。 「気づかなくて、すまなかった。お前は、俺の最高の息子だ。世界中のどんなプロジェクトよりも、お前の方が大切なんだ」  大輝の目から、大粒の涙が溢れ出した。



 翌朝。慎一郎は美紀がキッチンに立っているのを見つけ、背後からその細い肩を抱きしめた。 「慎一郎さん? どうしたの、急に」 「美紀、今日は仕事に行かない。今すぐ、病院へ行こう。……君がずっと我慢していたのは、知っているんだ」 「でも、大切なプロジェクトが……」 「プロジェクトなんて、誰かが代わりにやる。だが、美紀、お前の代わりはこの世に一人もいないんだ」


 慎一郎は、驚く美紀を半ば強引に車に乗せ、最高の医療を受けられる病院へと走った。  検査の結果、美紀の肺には深刻な影が見つかった。史実よりも数ヶ月早い発見。 「先生、お願いします。金はいくらかかってもいい。私の命を削ってもいい。彼女を救ってください」  かつての冷徹な「救世主」はそこにはいなかった。ただ一人の、妻を愛する男として、慎一郎は医者に頭を下げ続けた。


 さらに、慎一郎は娘の花音の異変にも向き合った。彼女が部屋の隅で描いていた、真っ黒に塗りつぶされた絵。 「花音、お父さんと一緒に、絵を描かないか」  慎一郎は、かつてパリで学んだ(記憶からは消えてしまったが、指先が覚えていた)デッサンの技術を使い、花音の隣で白いキャンバスに花を描いた。 「言葉にしなくていい。この色の中に、お前の心を逃がしてごらん」  花音は数日後、初めて「赤」い絵の具を手に取った。



 数十年後。書き換えられた未来の慎一郎は、幸福の中にいた。  病を克服した美紀は、白髪の混じった今も穏やかに微笑み、慎一郎の淹れる茶を楽しんでいる。  大輝は、父の背中を追うのではなく、自分の信じる道を見つけて世界的に活躍する起業家となり、父を最高の友として尊敬している。  花音は、あの時描いた絵がきっかけで才能を開花させ、世界中の人々の心を癒す画家となった。


 家族全員で食卓を囲む、日曜日の午後。  笑い声。食器の触れ合う音。窓から差し込む、柔らかな陽光。 「お父さん、この間の花音の個展、素晴らしかったね」 「ああ、大輝。お前も、出資してやったそうじゃないか」 「やだなあ、お父さん。投資家としての判断だよ」  美紀が、そんな二人を見て楽しそうに笑う。  これだ。この何気ない、退屈なほど平和な日常こそが、慎一郎が九十九年の果てに求めた「正解」だった。


 だが——。  慎一郎の視界が、不意に揺らぐ。  幸福な食卓の光景が、まるで古いフィルムが燃えるように、端から白く弾けていく。 「……慎一郎さん? 顔色が悪いわ。大丈夫?」  美紀が心配そうに手を伸ばす。その温かい手に触れる直前、慎一郎の意識は猛烈な勢いで「現在」へと引き戻された。


 ——九十九歳の病室。  点滴の音。静寂。  慎一郎は激しく喘ぎながら目を開けた。  枕元を見た。そこには、書き換えられた世界の「結果」が並んでいた。  大輝からの「世界を救ってくれてありがとう」という手紙。花音の描いた、家族四人の肖像画。そして、ベッドの脇で眠っている、年老いた美紀の手。


「……よかった。みんな、幸せに……」  慎一郎は安堵の涙を流した。  しかし、すぐに「代償」の苦悶が彼を襲った。


 ……美紀。大輝。花音。  写真を見れば、手紙を読めば、彼らが自分の家族であることはわかる。  だが、彼らとどんな会話をしたのか。大輝をどうやって抱きしめたのか。美紀とどんな誓いを立てたのか。  さっきまで、あんなに鮮明に感じていた「食卓の温もり」が、急速に凍りついていく。  家族の名前を呼ぼうとしても、声が出ない。  脳が、彼らを「大切な人々」として認識することを拒絶し始めたのだ。


「……君たちは、誰だ? なぜ、私のために泣いているんだ……?」  慎一郎の口から、無慈悲な言葉が漏れる。  傍らで目覚めた老いた美紀が、悲鳴のような嗚咽を漏らした。 「慎一郎さん……! 私よ、わからないの!? 美紀よ!」 「……ミキ。……聞いたことがある名前だ。だが、思い出せないんだ」


 家族を救った。彼らの人生を輝かせた。  しかし、その「救った記憶」そのものを失った慎一郎にとって、彼らはもう、親愛なる赤の他人に過ぎなくなっていた。  三つ目の後悔は昇華された。  だが、慎一郎は「愛」という感情の拠り所をすべて失った。


 カレンダーの数字が、また一枚、虚無の風に攫われる。  残された時間は、あと七日。  そして、四つ目の後悔——「全能の力を得たと錯覚し、友の信頼を裏切った欲望の夜」が、冷たく彼を嘲笑っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


冷めきった食卓に温もりを取り戻し、妻の命を救った慎一郎。しかし、愛を取り戻した瞬間に、彼は愛する人たちの名前も、共に歩んだ年月も、すべてを忘れてしまいました。


「君たちは、誰だ?」


愛する人のために過去を変えた男が、その愛する人に放った最も残酷な言葉。 家族を救った代わりに、彼は「家族という安らぎ」そのものを失ってしまいました。


明日の21時、四つ目の後悔。 舞台は欲望渦巻く一九八〇年代、バブルの絶頂。 全能の力を得たと錯覚した彼が、自らの「私欲」と戦う物語です。


また明日、21時にお会いしましょう。

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