1 奇跡―5
「────わたし、■■君の事……好きなんだ」
まおの言葉に、少年は耳を疑った。
本当に、遂に幻聴まで聞こえるようになったのではないかと自分自身の耳を信じられなかった。
やっと再起動が完了間近だったというのに、再び脳が機能を停止させる。
「小学校の頃からずっと……■■君といると、楽しいのに胸が苦しくって、それで、えっと……」
だがそんなものは彼女の純粋無垢な言葉で呆気なく完治してしまった。
「本当はちゃんと好きって言いたかったのに、言葉が出てこなくて……」
非現実的な、奇跡でも起きないと発生しえない状況だというのに、少年の頭の中は極度に冴え渡っている。この瞬間を現実のものだと認識していた。
「そしたら段々怖くなってきちゃって……想いを伝えて、それで嫌われちゃったらどうしようって……」
不安と緊張で揺れるまおの言葉に少年はどうしても強く異議を唱えたくなった。
「そんなわけない!」
「…………えっ」
咄嗟に飛び出た否定の言霊は、それ故に文脈を上手く辿れていなかった。けれども自らの強い意思を伝える為には十分な内容だ。
「そんな……それだけで僕が西宮さんを嫌いになったりしないよ……」
考えるより先に口が動いているようだった。
言わなければならない想いが溢れ出して止まらない。
「僕も西宮さんのことが好きだよ…………ずっと。中学生の時からずっと。西宮さんといると幸せで楽しかったし、細かい仕草とか笑った顔がすごい可愛いし。あと、いつも陰で頑張ってるのにそれを全く感じないくらい明るくて本当にすごいと思ってるし……その……えっと……」
胸の内に隠していたものを吐き出しきると、段々と自分の発言の愚かさと青臭さに恥ずかしくなってきた。今すぐ壁に頭を打ち付けて死にたくなる。
お互い何も発言できなかったあの時の数億倍の気まずさが二人を襲う。
もう何度目の沈黙なのだろうか。
だがこれまでにないほどの羞恥心を感じるものの、思いの外不快には思わなかった。
何かまだ言いたいことがあるのか、今度は顔を真っ赤にしたまおが口を開いた。
「────だもん……」
「えっ?」
その声はあまりに小さく、少年は思わず訊き返す。
「…………わたしは小学校からだもん!」
恥ずかしさに押し潰されそうになりながら、まおは小さな子どものように叫んだ。その目には少し涙が滲んでいる。
その姿の尊さに少年は吐血しかけたがなんとか持ち堪えた。
「わ、笑わないでよ……」
悶える少年に涙目の少女が言う。
「いや、ごめん。どうしても可愛くて……」
先程の発言に突っ込みたい気持ちはあるものの、彼女の言動の可愛さで全てがどうでも良くなっていた。
「えっ……もう……本当にやめて……」
瞳により雫が溜まり、全身の体温が高まって耳まで沸騰したようになる。今にも死んでしまいそうだった。
人生で最も満たされた時間は、その幸福度に比例してあっという間に過ぎていく。
やがて傾いていた陽は完全に沈み、漆黒の帳が空を覆い隠した。
「もうすっかり暗くなっちゃったね……」
星を見上げ、その美しさに魅了されながらまおが呟く。
先程まで黄昏のグラデーションを追いながら一番星を探していたというのに、気が付けば周囲は完全に闇に呑まれていた。
「……うん。そろそろ……帰る?」
少年はこの時間が永遠に続いてほしいと願っていた。だが世界がそれを認めるはずもなく、寧ろ追い立てるようにして時間を進めていく。
流石に一晩中ここで過ごすことはできない。
「そうだね。帰ろっか」
通信技術が発達したこの現代社会。どうせ家に帰っても話す方法はいくらでもある。
それに今生の別れという訳でもない。また明日になれば会えるのだ。
二人は生まれて始めて互いの連絡先を交換すると、腰を上げ付いていた砂を落とし、並んで学び舎を出る。
「じゃあ……また明日」
別れを拒む我儘な自分を押し殺しながら少年が告げる。
だが。
「ねえ、一緒に帰らない……?」
我儘なのは彼だけではないようだった。
「まだ■■君と話してたくて……」
意図しているのか、はたまた天性の才能か。まおのあざとさは少年の抑えられていた煩悩を解き放つ。
「…………僕も……話したい」
少年は思わず笑みを漏らしてしまう。
本当に西宮まおという人物は相手をその気にさせるのが上手い。
結局、解散は延期され少年はまおの自宅まで付いて行く事になった。
寒空の下、二人で歩く道は何故だか暖かさを感じた。暗く寂しい静寂も、彼女と居ると明るく照らされたような心地になる。
小学生の時の運動会や、中学時代にクラスメイトだった変わり者の同級生の現在など。
展開されるそんな他愛も無い雑談のひとつひとつが心の底から楽しく思えた。
ふと少年はまおの右手に違和感を持つ。
一定の場所に固定され、何かが足りないと欲しているように見えた。
女心などわかるはずもない少年だが、彼女の行為が意味する事くらい察しが付く。
会話の応酬が止まり、その場に立ち止まってしまう。
「……どうしたの?」
まおに訊かれ、もう後には引けなくなった。
もしや彼女はこの状況を年密な計画の下作り上げているのだろうか。だとしたら相当な策士だ。
自分を校舎裏へ呼び出した時のまおの内心がなんとなく分かるように思えた。
雑念を祓い、意を決して声を出す。
「……手、繋いでもいいかな……?」
少年の言葉を聞いた途端、まおの表情がみるみるうちに明るくなる。
「うん!もちろん!」
満面の笑みを浮かべ、ただ純粋に彼がアピールに気付いてくれた事を喜ぶまお。
彼女を中心に光が放たれ、夜闇を消し去り夜明けを導く。そんな超常現象が起こりかけたようだった。
まばらに街灯が並ぶ住宅街を抜けると、摩天楼に囲まれた綺羅びやかな大通りに出る。その偽造された星々の眩しさに思わず目が眩んだ。
成立したての初々しいカップルは人々の群れの一部となり、無数の光に見下されながら一人の住処へと進んでゆく。
「あ、そういえばここ、覚えてる?」
まおが言った。
「え、何が?」
「小三の遠足の時、前田君がポケットに何故か忍ばせてたスーパーボールを落として、拾おうとしたら車に轢かれかけたの」
「あー!覚えてる!あれ本当に怖かったよね……」
「前田君、先生が引っ張る時に襟を掴んだから苦しいって怒ってたなあ」
「そのせいで余計に先生の逆鱗に触れてたけどね……」
対岸へ渡る為、白い飛び石の前で立ち止まり会話をする二人。
アスファルトの川には巨大な鉄の魚がビリビリと地響きを立てながら泳いでいる。
信号が変わるまで待っていると、同じく向こう岸を目指す者達が付近に集まってくる。
少年は今、この人生で最も幸福に満ち溢れた瞬間を噛み締めていた。
彼女と交わす何でもないくだらない会話が楽しくて仕方がなくて。
明日も、明後日も、果ては命が尽きるまで、ずっとずっと繰り返していたいと思う。
その幸せに酔い痴れて、既に明日は何を話そうかと考えてすらいる。
だが、不意に舞い込んだ幸福など実に呆気なく、そして燃え残った灰のようにひどく脆い。
何の前触れも無く、簡単に崩れ去っていくものなのだ。
少年は背中を強く押された。
驚き振り向くと、そこには携帯電話を片手に目を見開いた男がいた。
大方、端末に夢中で前が見えていなかったのだろう。彼も自らがしてしまった行動に驚愕している。
男の悪意無き暴力によって、少年は道へ飛び出す。
その手を握る、愛する人を道連れにして。
時間が何十倍にも引き伸ばされているように見えた。
何故だか思考が急激に速くなり、一秒一秒に起こる動きが詳細に理解できるようになる。
その理由はすぐに分かった。
耳をつんざく、周囲の全てを拒絶するような音が鳴り響く。
目と鼻の先に、その命を喰らおうと鉄の魚が迫っていた。
「わたしだよわたし。西宮まお!」
「────わたし、■■君の事……好きなんだ」
嗚呼、なんでこんなことになったんだ。