異世界は君のすぐそばにある
「力が欲しいか……?」
「いらねえよ」
涼しくなり始めたとある秋の日のことである。夢崎姿は、小鳥のさえずりのような声で自身に囁きかける幻聴に悩まされていた。大学生になってから半年近く経ったが、この声が聴こえるようになったのは夏休みの初めの頃であった。
彼の目の前には、透明感のある白肌に長く艶のあるブロンドの髪と、垂れた目元が印象的な女性がいた。眉が下がっており、少し潤んだ青い目でこちらをじっと見つめている。夢崎姿は幻視にも悩まされていた。
「ち、力が欲しいか……?」
「なんでこんなものが見えるようになったんだろうなあ」
姿はゲーミングチェアの背もたれにぐったりと寄りかかると、ため息をついた。寝ぐせだらけの黒髪が揺れ、何日も寝ていませんと主張する目元が見える。目の前の美女の幻覚がさらに寂しそうな顔をした。無視した。俺は幻覚に負けやしない。
「疲れてんのか?俺は」
さらに深いため息をつくと、姿は美女の幻覚を見つめた。「力が欲しいか?」という問いかけはこれまでになかったから、少し驚いていた。自室に現れるようになった彼女は「異世界が大変な危機に陥っている」だとか「救ってほしい」だとか面白くもないことをのたまい、俺を異世界転生するよう誘惑?していたのだ。
だが俺はお前より賢い。自分の見せる幻覚が自分より賢いわけがないからだ。
異世界転生なんかに応じれば余計にこの幻が騒ぐかもしれない。無視が一番である。俺は現状維持の響きが嫌いだが、異世界転生なんて再三聞いたことのある響きには魅力が湧かないし、創作できなくなるの嫌だし……無視しない方がいい理由がない。やめよう。考えるのもやめよう。無視しよう。
そんなことより、今は書き途中だった小説の続きを書きたい。薄暗い部屋でただ一つ光るパソコンのスクリーンを見て、キーボードに手をかけた。作品の構想が溢れて収まるところを知らない。寝ずに書き続けてもう何日経ったかは覚えていないが、アドレナリンが止まらない。ずっとこうしていたいから、異世界なんて行く暇がない。
そう思っていると、美女の幻覚がぐいっと顔を寄せてきた。感情を失った顔をしている。スクリーンが見えない。輝きのない目で彼女は喋る。
「異世界に連れていかせてよう……。私の世界、あんまり発展してないから、現代知識チートもできちゃうのよ?」
だからどうしたんだろうか。俺はそれに興味がない。創作が好きなだけのしがない大学生には荷が重い。覇気のない声にも、どうしてか罪悪感すら刺激されない。
スクリーンが見えなくなり集中力が途切れた姿はゆっくりと目を瞑り仮眠を始めた。女は悲しそうに笑ったが、それも束の間だった。強い風が吹いた。
驚きに目を見開いた女の美しい金髪が轟々と風になびいて、音一つしない静かな部屋に突然嵐が来たようなコントラストがそこにあった。女の目の色は次第に黒く染まり、垂れ目がちだった目はいかにも気の強そうな目に早変わりした。光を通さないように思える漆黒の目は、姿が放置していたパソコンのスクリーンと同じくらい輝いていた。
「ようプラグ!手伝ってあげるよ!」
爛々とする目は姿を捉え、弓なりの笑顔を見せた。