セルドニア家のお嬢様
「……ふうむ」
どうにも信じがたい、と言うような意味を込めて、俺は相槌を打った。
俺は、今度は見ていることを隠さずにイリスへ視線を向けた。しかし彼女は依然、所在なさげに俯くばかりで、その真偽の程は窺い知れなかった。
――無属性魔術、時空間魔法とも呼ばれるそれは、今では失伝した遙か古代の魔術である。
発掘される遺跡の内に、既存の火水風土光闇の六属性の内どれにも当てはまらない、謎の魔術が使われる技術が存在したことから名付けられた。
無属性によって行使されると目される魔術と言えば、代表的な者で空間転移、物質の永遠保存、時空の操作などが有名だ。
だが、実例として発見され、無属性魔術が使われていると発見されたのは、その内、物質の永遠保存のみである。その他は全て古代遺跡の文献の内に散見される程度でしかない。
そんな伝説上の魔術を、彼女は使えるというのか。もし本当なら世界中の魔術師が……特に、かのリーリュオンの魔術師達が黙ってなさそうだが……。
「本当に?」
俺はイリスへと問うた。
彼女は俯きながらも確かに頷いた。
「ほんの、少しですけれど……そういったものが使えます」
「それは、どのような?」
「イリス、ニールさんに見せてあげなさい」
「はい」
と、彼女は手の付けていなかったカップに両手を翳すと、何も唱えずに魔力を送った。
仄かな輝きが白色の器を包み、消えた。
「……どうぞ」
差し出されたカップは何の変哲もないように見える。しかしそれを手に取った瞬間に俺は気が付いた。
取っ手を掴んだはずなのに、受け皿まで吸い付いたように持ち上がったのだ。そして、水面が揺れない。くゆらせるように手を動かしてもそれは変わらない。まるでカップだけ時間が止まったかのように。
俺は暫くその様子を見つめてから、カップを高く翳して、手を放した。
ゴン、と鈍い音が机から鳴った。だが、カップは何の音も発さず、砕け散らず、そして、溢れることもなかった。
――物質の、永遠の保存。まさしく伝え聞いた無属性魔術の効果である。
「どうでしょう。私はあまり詳しくないのですが、学院から、これは無属性魔術ではないのかと言われまして」
「……確かに、そうだと思います。自分も、これに近いものを見たことがあります」
「おお……!」
「そこで聞きたいのですが」
と、俺は喜びを顕わにする伯爵に差し込んで言った。
「これを、どうしろというのです? 無属性魔術は確かに未知の魔術です。ですが、研究は進められています。リーリュオンに行けば、好待遇と共に、この力の使い方も分かるかもしれません。なぜ自分が呼ばれたのです?」
「それは……」
「分からないんです」
と、イリスは父親の言葉を制して言った。
「私が、何でこんなものを使えるのか、私には分からないんです。先程の魔術も、何故私に使えるのか、まるで分かっていないのです。そして、無属性魔術というものは、他には使えません。これが無属性魔術なら、ですけれど……」
彼女は言葉を、吐き出すようにしながら説明した。
「それに、私は、他の魔術は上手く出来ません。どうすれば出来るのか、分かっているつもりですけれど、上手く出来ないんです。だから、こんな、こんなものばかり出来てもしょうがないんです……」
それだけ言って再び黙ってしまったイリスの話を、伯爵が引き継ぐようにして口を開いた。
「……まあ、そういうことです。リーリュオンの魔術師達は理論を重視します。体系化できない無属性魔術など、世に溢れる騙りや詐称と同じように、他の魔術の応用と見られますし、それに、イリスはその、今言ったとおり、あまり成績が良くないものですから、信用もされず……」
「なるほどねえ……」
俺は独りごちるように言った。
確かに、俺も旅の途中で幾人もの自称無属性魔術師に出会った。パーティーに入れてくれ、と言ってきた奴さえ居た。しかしそいつらは全員、金目当て、名誉目当ての詐欺師であって、たいしたことのない連中だった。
そういった奴らはきっと、リーリュオンの学院にも押しかけているのだろう。だからこそ、彼らはまず理論として体系化したものを送ってこい、と言う。それが何よりの証明であると。
しかし、このセルドニア家の力ならば、リーリュオンの教授や院生でも呼び出して、実地に証明させ、半ば研究材料扱いで入学も認められそうではあるが……。
まあ、しないだろうな、と俺は思った。
俺はイリスをじっと見つめる。
「……あの、何か?」
「いえ」
内心、小さく笑いながら俺は納得を深めた。
今の問答一つでも分かる。伯爵の性格もそうであるが、何よりも当の本人、イリスの気質が許さないだろう。
先程の彼女の発言は、あの自虐は、自分にそんな大それた価値など無いと言っているようなものであった。貴族としては珍しいにも程がある性格だ。寧ろ貴族社会では生き辛く、積極的に矯正されなければいけない性格だった。
卑屈で、自分に自信が持てない。実際、成績は良くないと自分で言った。その中に無属性魔術なんて「特別」を与えられても、何かの間違いだと、自分を否定したくてたまらないのだ。
そしてそれを、伯爵も懸念していると言うことか。あくまで事の本質は無属性魔術ではなく、自信に繋がる他の成績、そして根本的なこの性格と言うことか。
「なるほど、なるほど。だから自分が呼ばれたのですね。ただ魔術に精通しているものでは無く、種々の経験が豊富なものが必要だったと。それでいて魔術の指導も出来る人間……」
「そうです! 私もステイスから、勇者パーティの中で、ニールさんに色々と教えて貰ったと聞きました。事実ステイスは、旅に出る前とはまるで別人で……! そのおかげで今は領地も十全に治められ、私達は王都で緩衝役をして、年早く、半ば隠居できているのです」
「成る程、だから伯爵はお若いのですか」
「いやあそんな!」
と、お世辞に真剣になって照れている伯爵を尻目に、俺は、件のステイスを思い出していた。
ステイス。ステイス・セルドニア。貴族の中の貴族、セルドニア家の嫡男。彼は、やけに暑苦しい奴だった。
確かに覚えが良いのが楽しくて、手習いに色々と教えたのだが、それらは専ら攻撃魔術だったから、伯爵の言うような、領主経営に役立っているとは思えないのだが。
まあ、こうやって就職に繋がるのだから、俺にとっては無駄ではなかったな。
「息子は口々に言っておりました。自分はずっと魔術を使えないと思っていたが、ニールさんのおかげで、自分も一端の魔術師も名乗れるようになったと」
「まあ……確かにステイスさんには色々と教えましたね。せがまれたもので。それに彼も中々素養がありました」
「その様に、イリスにもどうか教えてやって欲しいのです! どうか!」
と、そこで伯爵は、話に区切りを付けるように頭を下げた。
勿論それは、真摯な行動ではあったが、これも貴族として生きている賜物だろうか。相手に向けて頭を下げるタイミングとしては完璧であった。
「……お父様」
しかし、イリスはその懇願を横目にして、熱意を厭うように呟いた。細められた瞳に睫毛は重なり、眉尻は下がり、まるで泣きそうな表情をしていた。
俺は、それを認めて、少し思案する様子を見せながら言った。
「ええ、勿論。元勇者でよろしければ、良いですとも。この様な美しいお嬢様への教授を、どうして断ることがありましょうか!」
「おおっ! ニールさん!」
「………………っ!?」
イリスが、初めて顔を上げて俺を見た。表情には驚愕が満ちていて、瞬きを繰り返していた。
「どうしたんだい、イリス! 折角ニールさんが直々にお前の面倒を見てくれると言ったんだ。もっと喜べば良いじゃないか!」
「え、ええ……そう、ですけれど」
イリスは悶えるように両手の指を絡めたり解いたりして、また、視線を逸らしている。
「その、意外、でしたので……。まさか、あのニール・フォルテさんが、私なんかに授業をしてくれるだなんて、思ってもみなかったのです。私は、そんな、優秀じゃないのに……」
「優秀じゃないから教えるんでしょう」
俺がそう言うと、イリスははっとして、また意外なものを見るようにこちらを見た。
「誰が完璧で教えるところもないような人を生徒にするものですか。そういう人を教えても、その人は勝手に優秀になって、勝手に先生の方を追い越していくものですよ」
「そう、ですか……?」
「そうです。それに……失礼かもしれないが、貴方は実に教え甲斐のありそうな生徒だと思いましたね。無属性魔術を抜きにして、貴方自身が、現状から脱却したそうにしている。そういう人間を教えるのは楽しい」
「そ、そうですか?」
「ええ」
「……それなら。それなら、嬉しいです」
イリスは初めて笑顔を見せた。
満面の、笑顔らしい笑顔ではなく、はにかむような笑顔だったが、その笑顔に俺は、今後に対する確かな手応えを感じたのであった。