一人きりの王都凱旋
景色がゆっくりと流れるのが新鮮だった。
馬の足音は規則正しく、急ぐこと無く、落ち着いた調子を見せている。これだけでも、今まで俺がどれ程忙しない生活をしていたのか実感できるというものだ。
草原の向こうに聳える王城と、周りを囲む塀の形を捉えても、俺は静かだった。かつてのように自身の価値を……『勇者』としての自分を気にすること無く、落ち着いた気分でその威容が近付くのを見つめられていたのだ。
「新鮮だな」
俺は、周囲の目を気にして肩をいからせること無く、自然体でのんびりとしていた。
まだ陽が落ちていなかったから、門は『勇者』の証を見せるだけで通ることが出来た。それまで平凡な業務にだらけていた兵士達が、途端に背筋を正すのは、既に『勇者』である事を辞めた自分にとっては滑稽だった。
しかし、その礼節に既に意味はないとは言え、こういった面倒なやりとりをすっ飛ばすくらいの役得はあってしかるべきだろう? もう二、三日で返す事になるこの首飾りも、この程度に使うのならば見とがめられないはずだ。
俺は門を通り越して馬を下りて、ビクビクしながらこちらを見る兵士に言付けた。
「この馬を元いた村にまで戻しておいてくれ。村の名前は……首輪に刻まれてあったはずだからさ」
「あっ、はい! 承りました、勇者様!」
「いやあ、まあ……はいはい」
もう勇者じゃないんだけどね。
「王都には何用でございましょうか? もしよろしければ案内を……」
「いいからいいから。これは個人的なことだから」
「はあ……」
些末な命令にも関わらず兵士達は迅速に行動して、馬は着いたばかりだというのにまた城門の外へと駆られていった。まあ、大した距離でも無かったし、村に着いてから休ませれば大丈夫だろう。
門前から王城までは広い道が敷かれていて、その道なりにはまた一つ、城壁が存在する。今通ったものに比べれば小さくとも、その守りは遠目にも堅牢である。
当然だ。あれは王族と、その周囲に固まる貴族達を守るための城壁だ。その仮想外敵にはモンスターや異民族に留まらず、一般庶民も含まれることだろう。
その城壁を目指して俺は歩いた。道には数多の商店が並び立っていて、あらゆる都市がそうであるように、乱痴気騒ぎにも似た活気が溢れていた。
暫く街中に親しむことが無かったが、王都は変わっていないようだった。
商店が並ぶとは言っても、高級な、店舗として整えられたものでは無い。恐らくは認可さえ受けてないものの方が大半であろう。
火を使って肉を焼くもの魚を焼くもの、焼かれる前のそれらを売るもの。冒険者向けの安売りの武器防具、旅人向けの消耗品、生活に役立つちょっとした品、怪しげな宝石や装飾品……。
通りには雑然と人と物が入り交じっていて、それらが醸す得も言われぬ匂いがむせ返っていた。その中を、肘や足を避けながらくぐり抜けるのは楽しかった。人波の中に、景色が色鮮やかに見えていた。
しかし俺は急いでその中を突き抜けていった。こういったときに戦闘の経験が役に立つというものだ。いや、寧ろこれからはこういった場でしか活かせないかもしれないな。などと思いながら俺は人と物の隙間を縫うようにして歩いて行き、第二の城門の目の前にまで着いた。
道なりに続く商店と人の数は、丁度そこに近付くほどに少なくなっていき、先を行く数多の人も大抵はその前で右か左かに逸れていく。或いは終端に来てしまった事に気が付いて、折り返して道を帰っていくのが大半だった。
ここは貴族街の門前ということもあって、貴族を目にすることも珍しくは無い。たいていの人は貴族なんかに関わらない方が幸せに暮らせるのだから、わざわざここに来ようとする物好きはいないだろう。
居るとすればそこらに転がっている物乞いか、自信の有り過ぎる大道芸人くらいのものだ。
門前を守る兵士の練度は先程のそれよりも明らかに優れていて、職務態度などは比較にさえならないほどだった。近付いてくる俺を四人の兵士は怪しげに睥睨しながら、槍を握る手を固くしていた。
その内の、一人だけ制服に過剰な装飾を重ねる男が、しかし口振りは丁寧に、一緒の高貴さをも漂わせながら問うた。
「何用ですか? これより先は王城と貴族街であり、許可の無い開門は認められませんが」
「許可はあるよ」
そう言って俺は懐から一枚の手紙を取り出した。封蝋にはセルドニア家の紋章が押されていた。
それを目にすると、彼は警戒を幾らか和らげて、
「これは、これは。誠に申し訳ありません。セルドニア様の御客人でしたか」
と言った。兵士は何らかの書類と手紙の紋様とを確認して、俺は通された。
数多の人が引っ切りなしに出入りするため、刻限までには常に解放されている前の門とは異なり、ここを通されるのには随分時間が掛かるようだ。
勿論、貴族と一目で証明できるような人々には関係のない話なのだろうが……。これでは、あの商店街に遊びに行くのが億劫だな。
「案内いたしましょうか?」
「助かるね」
後方から続く大通りは、勿論この門を過ぎても広がっては居るが、雰囲気はまるで異なっていた。
あの熱狂的とも呼ぶべき人々の犇めきはどこにも見当たらず、立派に構えられた店舗が連綿と並んでいく道なりを、これまた立派に整えられた人々が行き交っている。
別に閑散としているわけではなく、寧ろ他の都市に比しても賑わっている方ではあるのだろうが、先にあの光景を見てしまったために少々物足りなく感じてしまった。
その道を中途まで進んだところで先達は右に折れ、左に折れ、真っ直ぐ行ったりして、段々と豪壮な門構えと長大な塀が目立つようになった。並ぶのは領地にある本邸ではなく、王都に置く別邸である。
しかし、やはりいかにも貴族らしい、肌に合わぬ門構えである。この更に先にセルドニア邸があるというのだから、その豪奢でごてごてとした様相は想像に難くない。
「こちらです」
先を行っていた兵士が言って、ある家の門前で立ち止まった。それは、思ったよりはすっきりとした門構えをしていた。わざとらしく飾り付けられず、言ってしまえばただの門だった。
「ある種の余裕の現れなのかもね」
そう呟いたのが、聞こえなかったのか、彼らは無言に一礼をして去っていった。
俺は一つ息を吐いて、門を叩いた。暫くもしない内に門は開かれて、門構えに似た、すっきりとしながらも威容を伝える屋敷と、それなりの広さの庭が見えた。そして俺の前には一人の下女と思しき女性が立っていた。
俺は、彼女に向けて、と言うよりも、この屋敷全体に向けるようにして言った。
「初めまして、こんにちは。今日からこちらのイリス・セルドニアさんの家庭教師として呼ばれた、ニール・フォルテです。……さて、件のお嬢様は何処に?」
「いやあそれにしても広く立派なお屋敷で! 先程ちらと見ただけではありますが、何ともまあ、流石はセルドニア家の御邸宅と言ったところでしょうか。自分は生まれもありまして中々こういった所には馴染みがないもので、いやあ、これからこんな所に勤めることが出来ると思うと嬉しくて嬉しくて……」
応対した下女に先導される形で、俺は庭を歩いていた。
べらべらと喋る姿に軽薄さを感じるだろうが、一応、言葉に嘘はない。立派だと思ってるし、貴族という存在に馴染みがなくて新鮮だというのも事実だ。
だと言うのに目の前を行く下女は、一度振り返って、こちらを胡散臭そうな者を見る目付きで見た後、「そういうことは旦那様か奥様におっしゃってください」と言って、その後は振り返ることもなかった。
ふうん、と思って、その後は俺も黙った。やがて石材がふんだんに使われた小道の先に、明確な屋敷の形と、その扉の前に佇む幾人かの人影を見た。
「旦那様と奥様、お嬢様がお待ちです」
「あれが」
「はい」
「別に中で待っててくれても良かったのに」
「それが『勇者』様に尽くす礼儀であると」
「元ね」
「そうですね」
素っ気ない会話で大して親しみが生まれるわけでもなく、俺達は足早に先を急いだ。植えられる葉の広い木を四本五本通り抜ける内に遠くの人影は明瞭となって、顔かたちさえ見て取れた。
口ひげにあごひげを蓄えた、いかにも貴族然とした男性と、これまたいかにも貴族の奥方という風な、嫋やかでおっとりとした中年の女性。それと、美しく儚げな少女の三人である。
俺はここでやっと、これから付き合うことになる人々の顔を知った。それは向こうも同じようで、こちらの風貌をその目に認めたのか、男性がやけに安堵した顔を見せて女性と顔を見合わせていた。
その一方でもう一人、件のお嬢様と思しき少女は混じり合わずに立ち尽くしていて、その近付くごとに鮮明になる表情は、明らかな緊張と不安を示しているようである。
「さあ、どうぞ」
と、下女が道を譲った。俺は努めて笑顔を浮かべながら彼らに近付いた。
「初めまして、こんにちは! 元勇者のニール・フォルテです」
「ああ、ニールさん! お目にかかれて光栄です!」
彼は大仰に歓迎の言葉を口にして身振りも大袈裟であった。握手を求めてきたので右手を差し出すと、それをわざわざ両手で取ってぶんぶんと振り動かした。その大きく丸い青い瞳は真摯であった。
「まさか、まさかあのニールさんが、私共の依頼を聞いていただけるとは、本当にもう驚いて……! おっと、申し遅れました。私はこのセルドニア家の当主、伯爵のディアズであります。こちらは妻のソフィ」
襟を正して彼は隣の夫人を紹介した。彼女は小さく笑みを向けてきたが、それは夫の大袈裟な歓迎に苦笑しているようでもあった。
何だか小市民的な貴族だなあ、と俺は思った。伯爵は勿論、その厳ついとさえ見える風貌を笑みに崩し、身振りに砕くような男であったが、その奥方もまた、何だか人の良さという者が溢れ出て止まらないような女性だった。
もっと太って小汚くすれば、良い感じのパン屋の女主人、という風である。勿論、丁寧な所作と貴族特有の優雅な雰囲気によって、実際に相対してみれば微塵もその様な事を思わせないのだが。
しかし、二人には共通して、貴族らしくなさ、というものが流れてあった。人の良さというか、親しみというか、とてもでは無いが俺の知るような貴族ではなかった。
いや、そう思わせるのも、優雅さの一つの表れなのかもしれないな。そう思いながら俺は「これからよろしくお願いします。ソフィ様」と言った。
「ああ、ソフィ! 勇者様に様付けされるなんて! ああ、いや、訂正しなくて構いません。そう、ニールさんは元勇者。私も存じておりますから。そのために私たちの可愛い可愛いイリスの家庭教師をしてくれるのでしょう? いやあ全くなんて幸運なんでしょうね!」
「ええはいその通りですはい。で、彼女が……」
俺は伯爵の左を見やった。金色の髪を靡かせて、青色の瞳を憂うるように伏せながら、イリス・セルドニアは、遂に話題が自分に及んだことに唇を強く結んだ。
「イリスです。家の二男三女の末っ子で、十三歳です。さ、挨拶なさい」
「……イリス・セルドニアです。ご教授、よろしくお願いします」
イリスが頭を下げた。その仕草はまさしく優雅という言葉をそのままに体現するようであった。
裾を持ち上げる腕は華奢で、肌色は陽光に透き通るかと見えた。胸元まで伸ばされた金髪は、僅かにウェーブを含ませて、風の中に揺蕩うようである。
「いやあどうにも緊張しているようでして、ニールさんを呼ぶと告げてからずっとこうなのですよ」
「…………」
「ははあ、そうですか」
は、は、は! と、伯爵が快活な声を上げる度、イリスは萎縮するようだった。
「さあ、お疲れでしょう。どうぞ、ニールさんのための部屋を用意してあるのです。レイラ……いや、折角だから私が案内しましょう!」
伯爵は俺の後方に仕えている下女を一瞥して、その名を呼びつけたかと思うと、また自分一人で納得していった。
「あなた……」
流石に、と諫めるように奥方が呟いたが、伯爵はもう気分が高揚に高揚を重ねてしまって止まらぬようであった。
「いやいや、自分は全然疲れていませんから、それよりも、今後の事を話し合いたいですね」
「と、言うと?」
「伯爵のご長男、ステイスさんからは、実はイリスさんの事を頼んで欲しい、と言うことしか聞かされていないんですよ。だから、どのようなことをどのように頼みたいのか、今ひとつ、説明して欲しいのです」
すると伯爵は納得したようで、快活に笑って言った。
「ああ、成る程。いやあそう言うことでしたら存分に話したいことがあるのですよ。ではどうぞ、私の後に。レイラ、お茶を用意しておきなさい」
「はい」
扉の先に広がる館内は概観に違わぬ豪奢さであって、その中でも案内された客間は輪を掛けて気が行き届いていた。
ここに来るまで散々目にした鬱陶しいほどの装飾の乱立ではなく、あるべき所にあるべき調度品がある。それも味気ないものでは無く、壁に掛けられた絵画、隅に置かれる壺一つ取っても鑑賞に値するような、客人を相手にすることを実に心得ている部屋だった。
しかし、勧められた腰掛けも茶も俺には新鮮で慣れぬものであった。が、相対する伯爵はただニコニコと笑うばかりであるものだから、こちらも同調するように笑うしかなかった。
「それで、頼みたいこととは何でしょう? ステイスさんからは、ただ頼まれて欲しいと言われたばかりで……。とてもイリスさんに何か問題があるとは思えないのですが」
俺は伯爵の側に腰掛けるイリスを見ながら言った。彼女の前にも茶は用意されているが、まるで手を付けようとはしないでいた。
その一方で、伯爵は喉が渇いていたのかぐびぐびと一息に飲み干して、俺に言った。
「まさしく、そうなのです! イリスは確かに礼節が完璧で、その容姿も十年に、いや百年に一人とも呼ぶべき美少女です!」
「お父様……」
「いや、いや、うん。そうだ。……いや、しかしね、ニールさん。しかし、公には言いづらいのですが……」
と、そこに来てようやく伯爵は口を重くした。
「ニールさんは、王都の学院のことをご存じですかな?」
その話題に及んだその時、イリスは俺から目を逸らして伏せた。恥じるように、憂うように。
「……一応は。数え年で十三から十八までの優秀な子供達が、生来の為に勉学を治めるための学院ですよね。今は三の月ですから、そろそろ新学期ではないですか」
「そうです。よくご存じで」
「自分の知り合いにも似たような所に通っていた者がいたもので、そこでの生活の様子はよく聞かされました。まあ、場所が違えば色々違うとは思いますが」
「ああ、勇者様の知り合いと言えば……」
「『魔法使い』と『僧侶』です。彼らが通っていたのはリーリュオンの魔術学院でした」
「おお……」
感嘆の声を耳にしながら、俺は茶を飲むふりをしてイリスの様子を見た。
と言うのも、茶葉が高級すぎるのか、俺には味がまるで分からんのだ、故に楽しめようもなく、ならばここで彼女をしっかと観察しようと思ったのだ。
今俺が口にしたのは、国々に遍く学院の中でも頂点のそれである。かつて『魔法使い』のキケロは「俺はあそこを十二歳で卒業した」と自慢げに語っていたが、そもそも生粋の自信家であり、周囲全てを見下すような彼が、曲がりなりにも卒業したことを自慢するということこそ、かの学院の格というものを証明しているだろう。
リーリュオンの名に伯爵はすっかり感銘したようで、流石だ、頼んで良かったと言葉を溢しているが、当のイリスとは言えば、その名を口にした瞬間に、びくり、と身体を震わせて、元々白い肌が更に白く、青ざめるようだった。視線は最早、足下を通り越して胸元にまで注がれている。
……ふうん。どうやら、込み入った事情があるらしい。
俺はまた、茶を飲んだ。喉を流れる茶の、その喉ごしだけを味わってから俺は言った。
「……それで、その学院が何か」
「ああ、実はですね……」
と、そこで伯爵も息を落ち着けるようにカップを取った。が、既に中身は空であったので、「レイラ」と呼びつけて、再びカップに茶が注がれてから、彼は言った。
「実は――私の娘、イリスが、その……学院で、悪い成績を取ったのです」
「はあ」
自分でも気が抜けてるなあと思ったほど、気の抜けた返事だった。
「いや、いや、これだけ聞くと全く親馬鹿にしか聞こえませんがな」
伯爵は、俺の声の気が抜けたのを気にしたのか、言い訳をした。
「しかし、これがどうにも、親馬鹿だけではないのです」
「と、言いますと?」
その問いに対し、返答はすぐに帰ってこなかった。重大な事実を告げる心の準備のためか、伯爵は逡巡と共に一拍を置いて、それから口を開いた。
「――イリスは、無属性魔術を使えるのです」