第一章55、『白銀の剣聖』
熱くはない。
代わりに、匂いがきついだけだ。
アズマがノエルの手を優しく離すと、【転生者】は静かに『不死鳥』――フェネクスを見据えて、そのままアズマに向けて、淡々と達観したような声色で告げる。
「舞台は整えた。あとは、貴様次第だ」
「……分かってる」
今にも倒れそうな【剣聖】は、いわば、千鳥足のようなものになりかけながらも、確実に一歩前に足を出すと、それと共に、茶化しているつもりなのか、趣味が悪そうにニタニタと笑いながら【転生者】は言う。
「手を貸してやろうか?」
それは、悪魔のささやきのようだった。
「まだ要らない」
余裕のない声色だった。
それでも、アズマは首を振らない。
それは肯定でも、否定でもなかった。
【転生者】のそれが、面白そうな笑顔に変わる。
「そうか。ならば、適度に手を出そう」
「ああ、それで良い。……ひとまず、オマエは後ろに下がってろ」
「良いだろう、せいぜい足掻くがいい」
そう言うと、【転生者】は、『不死鳥』に背を向ける。
絶対防御の壁も貼られていない様子だった。
今なら、後ろからいくらでも彼女を殺すことが出来るだろう。
可能だったろう。
だが、攻撃はない。
ただ、【剣聖】と『不死鳥』がにらみ合い、牽制し合うだけだった。
それを理解しているがゆえに、【転生者】はそうしたのだろう。まるで、王者のように悠々とした様子で前へと歩み、アズマから――否、まだ炎を纏ってはいない『不死鳥』から距離を取っていく。
そして。
彼女は屍山血河の頂点に立った。
それを確認したからであろう。
『不死鳥』は地面を蹴り、同時に炎を纏う。
いわば、炎の翼だった。
続けて、僅かに空を飛んだ。
おそらくは、いわゆる、低空飛行で【剣聖】に体をぶつけようとしているのであろう。一直線に、【剣聖】に向けて加速する。もしも、ぶつかってしまえば、ただの人間の肉体である【剣聖】とっては、ひとたまりもないものだろう。少なくとも、やけど程度では済まないのは確実であった。
「ふぅ」
一息、【剣聖】は深呼吸をする。
そうしつつ、敵を見据える。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
そうやって、徐々に『不死鳥』との距離は縮まってゆく。
残り三メートル。
「――死ね」
『不死鳥』がそう言ったと共に。
彼女は【剣聖】の間合いに入った。
だから、【剣聖】は力と共に刀を振るう。
悲鳴はない。
けれど、されど、【剣聖】の白い髪は僅かに赤に浸食され、それと共に『不死鳥』は真っ二つに分断された。そして、何事のなかったかのように平然と、【剣聖】はクルリと回るように後ろを向くと、みるみるうちに、その『不死鳥』の体は、その右の片方は漆黒の塵と化し、もう左の片方は何回転かしながら再生させていった。そして、再生を終えた『不死鳥』はタイミングよく地面を蹴って、そのまま立ち上がる。
そして、ニヤリと笑いながら言った。
「なるほど。この程度なら、貴様は俺を殺せるようだ。流石に、貴様のことを舐めていたようだな、【剣聖】」
『不死鳥』の持つ炎の翼が、その力が膨張する。
そして、羽ばたいた。
「っ!」
思わず、目を細め、さらに【剣聖】は反射的に息を止めていた。
炎の翼の膨張と共に、人間がやっとの思いで生きていられるレベルの暑さを持つ熱気が、この空間を支配したのである。
ただ、その脅威はそれだけではない。
突進。
まだ、距離はあった。
「やっと、捕まえたぞ」
けれど、それを認知したその時、覆いかぶさるように【剣聖】は体を掴まれていた。
(――蜃気楼か!)
徐々に加熱されている空間とは違い、驚くほどに冷静な思考で、冷汗を流しながらも【剣聖】はそう断じた。
至近距離。
間合い内。
それゆえに、咄嗟に、慣れた手つきで【剣聖】は、あるはずのない短刀を『不死鳥』の腹あたりに刺すが、ただ若々しい肌からドクドクと血が出るだけで、その情熱的な拘束は緩む気配を見せない。
むしろ、不老不死であるからこそ、一瞬でその傷は癒えていく。
『不死鳥』は、様々な感情が入り乱れている感情的な声色で言う。
「まだ、貴様は死なせない」
その刹那。
【剣聖】の見ている景色が、徐々に地面が遠くなることに気が付いたのだ。
それが、加速する。
そして、グルグルと回転して、その勢いが最高潮に達した時。
【剣聖】の体は、はるか上空に打ち上げられた。
上へ、上へと。
クルクルと回りながら。
段々と勢いを失いながらも、打ち上げられる。
が、一瞬だけ止まった。
それを兆しとして。
【剣聖】は落ち始めた。
「くそっ!」
咄嗟に体を動かし、二本のあるはずのない刀を握って、地面から『不死鳥』が放ってきた炎球を斬り伏せる。
(――クソ、どうする)
流石に慌てはしたが、【剣聖】にとって、あの炎球はそれほど大きな障害ではない。彼が知る限りでは、最も対処が容易な攻撃手段だった。
そんなことよりも、まず、現在進行形で空から落下している【剣聖】がするべきなのは、空高く打ち上げられた体をどうやって、安全に着地させるのかだった。
次々と飛んでくる炎球が、【剣聖】の思考をかき乱す。
「……」
次にそれを見て、後悔するように【剣聖】は絶句した。
目の前では、先程から飛んできていたものよりも数百倍は大きな炎球を『不死鳥』は放とうとしていた。
そして、何の前触れもなく。
それは容赦なく放たれる。
次の瞬間。
【剣聖】が防御するまでもなく。
まるで。
人類の焔のように。
その巨大な炎球は、己の形を保てられずに。
容赦なく。
炸裂した。
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世界は煙に包まれていた。
まるで。
かつてのロンドンのように。
そんな中。
落胆するように、ポツリと誰かが呟く。
「……呆れたな。今代は、この程度か」
すると、誰かがそれを鼻で嗤った。
「笑わせるな、焼き鳥職人」
「……何?」
女を模った『不死鳥』は、その声の主の正体を知るがゆえに、その声の方を向きもせずに睨みつけた。
「まさか、吾輩が貴様の【神代領域】を塗りつぶすためだけに、自らの歴史を曝け出したと思っていたのか? ならば、貴様は実に浅はかだ。まさか、吾輩がそんなかまってちゃんに見えていたのか? ならば、貴様は実に軽率だ。まさか、過去の存在が今の存在にいとも簡単に敗れると思っていたのか? ならば、貴様は勝てるはずがない」
「その結果がこれか、【転生者】!」
その感情は何だったのか。
焦りか。
それとも、後悔か。
【転生者】は淡々と続ける。
「貴様が思っているほど、吾輩が認めるラインは低くはない。少なくとも、無知であるという自覚がない奴が、吾輩に勝てるはずがないだろう。そもそも、【剣聖】だからで、アズマ・ノーデン・ラプラスであるからで、そんな理由で、吾輩が認めるはずがないだろう。っは、よく見るがいい。そして、自分の目を疑え。その先に、終わりがあることを認知しろ!」
そして、ようやく、『不死鳥』は思い出したのである。
【転生者】が受け継いでいる、その力の一端を。
「――まさか!?」
一つ。
かの『不死鳥』は忘れていた。
否、知らなかったのだろう。
確かに、かつてのアズマ・ノーデン・ラプラスには、不老不死を殺す手段は存在していなかった。
けれど。
一つだけ、希望がある。
否。
もはや、これは希望ではない。
この希望を掴むだけの条件はそろっている。
ならば、すでに。
それは現実だ。
「――俺はオマエを認めない」
アズマ・ノーデン・ラプラスには。
【転生者】に勝利する手段は一つしかなかった。
けれど、それは常時使用できる代物ではない。
だからこそ、即興で、それを成し遂げるために、足掻き続けた。
結果、【奥義】を使用することで【契約】を結べた。
あるはずのない刀で、彼は使うことを許さない。
ありふれた刀剣で、彼は使うことを許さない。
彼が許した最低ライン。
あるはずのない理想の一刀。
「――俺はオマエを認めない!」
それを握って、彼は繰り返し、叫んだ。
それがそこにあるように。
振る舞うことを止めない限り、その一刀はあり続ける。
「――確かに、オマエの計画は『絶対』的なものだ。その計画は、ノエルを『絶対』に救える代物なんだろうさ。でもさ、それで当たり前と死んだ人はどうなる。それで当たり前を奪われた人はどうなる。それで当たり前のように狂ってしまった人はどうなる。確かに、俺たちには知ったこっちゃないかもしれない。だからこそ、その計画は『絶対』なものなんだからな。だが、それは俺たちの話だ。俺たちが苦しまなくたって、そんな計画で救われた――救われてしまうノエルは、これの所為で未来永劫に苦しむぞ。結局は、オマエのしようとしていることはさ、ただの同情でしかないんだ。テメェには、救うことだけに縛られて、救った先が見えてない。そういう点で、傲慢で残念な話だが、オマエは仲間に相応しくない。だが、惜しいところだったよ。もしかしたら、この計画の欠点がこれだけだったら、俺はきっと、その『絶対』に乗っていたよ」
ただ、それさえあるのなら。
かの【剣聖】に、斬れないものはない。
「――それは『絶対』であって、俺の望む『最善』じゃない。俺は犠牲を認めない。認めるわけにいかない。俺は誰も死なせない。確かに、オマエの言うとおり、俺の理想はギャンブルかも知れない。だけど、叶わないわけじゃないんだ! 俺はまだ、諦めない。俺はまだ、絶望しない。だからさ、僅かにでも、それが叶うかもしれないのに、それを不可能と、それをできないと、そうやってノエルの未来を無視するのなら!」
死体の灰が、散っていく。
そこには。
【転生者】のすぐ傍には。
【剣聖】が立っている。
「――俺がテメェを、【運命】諸共ぶった斬る!」
一瞬。
刹那。
表現はどれでもない。
その先の先。
その後の後。
地面を蹴る。
距離を詰める。
詰める。
詰める。
詰める。
詰める。
そして。
そして。
そして。
「――【無窮一閃】」
敵は目の前にある。
意識は冴えていた。
感情は死んでいた。
一切の躊躇なく。
その刀を振った。