第一章16、『遅すぎる眠り』
早朝にて。
眠たげに、アズマはベランダで欠伸をしていた。
先月に比べ、より冷たい空気がアズマの体を震わせる。
耳を澄ませるまでもなく、自然と小鳥のさえずりが聞こえてくる。チラリとベランダから見下ろす景色は、特と言って素晴らしくも美しいわけでもない。――曖昧に言うのなら、この部屋だからこそ見れたものというわけでもなく、アズマが数週間過ごしていた病室の窓からも見ることができたような、そんな、飽き飽きとしたありふれた早朝の風景だった。強いて言うのなら、ただ、街道を照らしていた灯は燃え尽き、それよりも輝かしい太陽が、世界――『三枝学園』を朧げに、実に曖昧に照らしていた。
そんな中。
「はぁ」
アズマは口から欠伸が出そうになって、それよりも先にため息が出てきてしまっていた。
ガラケーを開くと、現在の時刻が午前六時であるという事実を知らせてきていた。
「……」
早朝――大体五時くらいに、アズマは【パンドラ】に対して、三十分ほどの間を空けて、電話を掛けているわけだったが、これが三度目の挑戦――三度目の正直だった。
アズマの目的はただ一つ。
イドラに関する情報の提供だった。
否、違う。
イドラが実際に、【パンドラ】からアズマの援護をするために派遣された人間であるのかの確認をしようとしていた。
いずれも失敗。
おそらくは、まだ寝ているのだろう。
どうやったって、今のアズマには、そんな希望的観測しか、実行に移せるものはなかった。
「……」
それはそうと、早起きは三文の徳、と言う諺を聞いたことがある。
これの意味は誰でも知っている通り、『さっさと起きたら健康にも良いし、勉強やらいろんなことをする時間が増えまっせ!』と言うやつなわけだが、後半に関しては、別に早起きをしようがしまいが関係ないとアズマは思っている。起きるまでもなく、眠らなければ、早起きするよりも、より多くの時間を有意義に使うことができるのではないか、と。
子供の暴論に等しい――それ以下かも知れない理論を、アズマは今、実行に移している。
これで、寝ないのは五日目である。
授業中に寝ているため、一睡もしていないというわけではないが、人間が徹夜をする限界は五日間となっている。このまま順調(?)に行けば、アズマは幻覚や幻聴が出始め、暴れ始めることになるだろう。
「『おかけになった電話番号は――』」
流石に三度目にもなると、馴れた手つきで電話を切ることが可能になっていた。
アズマは、ため息を吐く。
そして、ガラケーをズボンの右ポケットに入れながら、ベランダの扉を開くと、ノエルが来る前にイドラを起こすべく、『自分の部屋《イドラの寝室》』に向かうことにした。
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閑話休題。
ふと、『自分の部屋《イドラの寝室》』の扉を開こうとした時に、一つ気が付いたことがある。
イドラは今、どんな服装で寝ているのだろうか、と。
……。
「……はぁ」
三回ノックが妥当だった。
「イドラ、朝だから起きてくれないか?」
ついでにそう告げるが、返事はない。
……返事はない。
残念な話だった。
「――紅茶でも飲もうかな?」
失笑しながら。
アズマはそう呟いた。
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そんな訳で、紅茶の作り方が分からないので、その代わりに、コップへ水を注いで、それを片手に、そのまま椅子のある場所へと移動すると、コップを机に置いて、アズマは椅子に座った。そして、椅子の背にはもたれずに、前に倒れ込んで、重ねた両腕に顎を乗せて、置いた衝撃か、アズマの衝撃か――そのどちらかで揺らいでいたコップの水面を無意味に眺める。そうすることで、ようやくアズマは一息つけていた。
「――はぁ」
一息つくつもりが、ため息をついてしまう。
おそらく、疲れているのだろう。
ただ、それだけの話だろう。
そう思って、いきなり体を上げると、それと共に椅子の背にもたれ込む。――そのまま、上を向くと、白い天井がアズマを見下ろしていた。
意識が、飛びかけて、ふとアズマは思う。
――どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
と。
しかし、それをかき消すように、来訪者の訪問を知らせるチャイムが鳴る。
ゆっくりと立ち上がり、続けて背伸びをすると、普段よりも早めに足を前に出して、玄関へと向かっていく。
玄関と言うと、その大体が靴を履いたまま家の中に上がるものだが、ここの寮の部屋は、日本人対応バージョンのようで、玄関で靴を脱いで上がるような作りになっている。一応、天月のような例が存在するがゆえの作りだろう。
アズマは、靴を履く。
そして、冷たいドアノブに手をかけた。
アズマは、深く息を吸う。
ドアを開ける。
そして、一人の少女を視界に入れた。
ノエルは言う。
「おはようございます、アズマ君」
と。
アズマは嬉しげに言う。
「おはよう、ノエル」
と。
この時、アズマは安心した。
だからこそ、小さな油断を呼んでしまったのだろう。
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意識が転々とする。
目の前に広がる景色は、台所だった。
「今日の朝食は、初心者でも簡単なフレンチトーストにしますか、それとも、難しめの奴にしましょうか?」
楽しげに、ノエルはそう口にしていた。
それを見て、アズマは率直に言った。
「……じゃあ、フレンチトーストで」
すると、一瞬、ノエルの動きが止まる。
そして、アズマの方にスタスタと近づいてきた。
「どうかしましたか?」
「ん、いや、どうもしてないけど」
「でも、いつもよりも元気がないですよ?」
「ほら、環境の変化ってやつだ」
「それだったら、結局は元気がないってことになりますけど?」
「……あー、うん。そうだな」
普段ならまずありえない――そんな失言だった。
ただ、情報がまとまらない。
「……学校、今日は休みますか?」
ノエルの、その一言で、アズマの目が覚めた。
「駄目だ、休まない」
「でも、その調子じゃ、いつ倒れるか……」
「俺が休んだら、ノエルを守れるやつが、誰もいなくなってしまう」
「大丈夫ですよ、アズマ君。私のことは、天月先輩やトム君が守ってくれます」
「――信用できない」
「……」
「ごめん、違うんだ。でも、俺は、アイツらのこと、よく分からないんだ。良い奴だってことは、俺も分かってる。オマエの味方だってことも分かってる。でも、アイツらのことを、それでも信用できない」
『世界神秘対策機構』の人間であるという側面。
それを考えると、アズマは彼らを信用するべきではないのだろう。
しかし、彼らはノエルの友人だ。
その側面を見てみると、彼らは信用に当たるのだと、アズマは思える。
だが、同時に思うことがあった。
「――怖いんだ、ノエルの日常が壊れてしまうのが。俺がいないところで、ノエルの日常を作る人たちが、死んでしまうことが怖くてしょうがないんだ。オマエの日常を守ることが、ノエルを守ることにつながるんだから! だから、どうか戦わないでほしい。戦う人が必要なら、俺が戦えば良いだけの話なんだ。……なのに、何でアイツらは、最終的に戦うんだ。俺が苦しむだけで、アイツらの守りたいものは救われるのに。俺よりも弱いアイツらが、ノエルの日常を形作るはずのアイツらが、何で、戦わなくちゃいけないんだ」
アズマは知っている。
日常が壊れる音を。
日常が壊れる色を。
日常が壊れる匂いを。
――それは、ノエルに味合わせるべきものではない。
他も皆同じだ。
苦しみは、自分にだけに許されるべき感覚なのだ。
そうでなければ、いけない。
だからこそ、アズマは不安でしょうがない。
いつ、ノエルが苦しんでしまうのか、不安で不安でしょうがない。
それは、アズマの苦しみでもあるのだから。
優しい声色だった。
そんな風に、ノエルは、張り詰めた様子のアズマに尋ねた。
「……何で、アズマ君は戦うんですか?」
「――それは、ノエルを守るためだ」
守りたいからだ。
「何で、私を守るんですか?」
「……ノエルが、弱いから」
分からない。
分からない。
分からない。
答えを出さなければ。
出さなければ。
出さないと。
駄目だ。
「なら、私が強かったら、アズマ君は私を守るのを止めちゃうんですか?」
「っ!」
違う。
答えは違う。
違う、ありえない。
守りたいんだ。
守らせてくれ。
「……それは」
言い分を変えることへの忌避感が、アズマを襲う。
焦りが、アズマに苛立ちを与える。
正体不明の感覚が、湧き出る。
「アズマ君、別に言い分は変えても良いんです。どんな言葉にも、責任は当然のように伴ってきますけど、それを恐れていては、何もかもが出来なくなってしまいますからね」
「俺は……」
アズマは、首を振った。
ようやく、諦めた。
「――ごめん、まだ言えない。でも、少なくとも、俺をノエルを守るのは、ノエルが弱いからじゃない。――と言うか、訂正するけど、ノエルは俺なんかよりもずっと強いよ」
それを聞いて、ノエルは微笑む。
「当たり前ですよ。私は、アズマ君の一つ上ですからね」
対するアズマは、苦笑いをする。
「経験の差かぁ。そんな基礎中の基礎、とっくの昔に理解しきれてたと思ってたんだが、どうもそれは違うらしいな」
「それで、今日はどうします、学校は?」
「ハイハイ、休みますよ。ああ、完全敗北寸前で降参だよ」
ノエルは、それを聞くと、スタスタとソファに座る。
「膝枕です、病人は大人しく寝てください」
そう言って、ポンポンと、ノエルの自分の膝のあたりを二度優しく叩く。
「……」
フラフラと、今にも倒れそうな足取りで、アズマは、ソファに向かう。――もはや、恥ずかしさとか、そう言った感情を認知できる余裕は、彼には無かった。そして、だからこそ、一切の抵抗なく、そのノエルの要求に大人しく従った。
大人しく、膝枕をされた。
アズマは、ポツリと呟く。
「ありがとう、ノエル」
「どういたしまして」
目を閉じる。
「ようやく、安心して、眠れる」
意識が落ちていく。
「ええ、安心してください。……それと、膝枕の代金はアズマ君の寝顔ですから、後になっても、一切何も気にしないでくださいね」
優しげな、そんな声を、アズマは耳にする。
「良く、そんな台詞を、一切の躊躇なく言えるな」
「アズマ君のこと、誰よりも信頼していますから」
「わけ……わからねぇ……な……」
一瞬、静寂が空間を支配した。
それをノエルが打ち破る。
「おやすみなさい、アズマ君」
愛おしそうに、アズマの頭をなでながら、彼女は言った。
こうしてアズマは、五日ぶりに、静かな眠りに就いたのだった。
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ドアが開く音がする。
ノエルは、後ろも振り返らず、淡々と声を発した。
「――おはようございます、イドラさん。いや、先に久しぶりと伝えるべきでしたか。まぁ、そんなことはどうでも良いですよね。えぇ、えぇ、心底、心底、心の底からどうでも良いんです。私はただ、どうして、いつもアズマ君は目の下にクマを作っているのかが、心から気になっていただけです。おかしいですよね、おかしい話です。寝ていないってことですよね、それは。何か、知っていますか?」
玄関には靴があった。
アズマだけではなく、誰かの靴も。
そして、ノエルには、その靴には見覚えがあった。
「……私は何も知りません」
イドラは、様子をうかがうような声色で、そう言う。
ノエルは、相変わらずアズマの頭を撫でながら、言った。
「昨日の夜、一体何が起こったのか、教えていただけますか?」
「はい、もちろんでございます」
「……意外と素直ですね。てっきり、アズマ君から口止めをされていると思ってたんですけど」
「いえ、口止めはされていませんが――」
「どうかしましたか?」
「――今のノエル様は、誰よりも恐ろしい。逆らうのは、適策ではございません」
ノエルはそれを聞いて、苦笑いをする。
そして、そのまま、こう口にした。
「そう、ですか。――別に、いつも通りと思いますけどね」
イドラには、その笑顔に見覚えがあった。
数年前。
初めて、ノエルに。
そして、記憶を失う前のアズマに、出会ったときに見た。
そんな、笑顔だった。