第一章1、『親友の名残』
入学した当日。
特に何の説明もなく、そんな訳で――どんなわけで――アズマは授業を受けることになってしまっていた。コンコンコンコンとまだ何なのか理解できる音が響き、「――そして、ベクトルの内積は――」などと教師が口にしている訳の分からない音を背景に、黒板は白だけでなく赤ーーと言うよりも、ピンクや黄緑色の解読不可能な形を己に刻んでいる。
その一方で、四方八方から、アズマに向けて、様々な視線が降り注いでいた。
アズマは誰よりも知っている。
おかしなもの、珍しいもの、見慣れないもの、そう言うものは基本的に、暫くは人間として扱われることはない。そんな気持ち悪い話を知っている、物心ついた頃から知っていた。だからこそ、それを仕方のないものとして、アズマは引き出しの中に用意されていた教科書を大人しく開いていた。
ありがたいことに、それは英語ではなく日本語だ。教師の言っていることはまるで理解できないが、それでも、この教科書の内容はまだ理解できる。それゆえに、教師の音をまるで興味の無いように完全に無視して、その教科書だけを彼は黙読していた。
……わけなのだが。
問題が一つ。
学生諸君ならば、誰にだって理解のできるはずの問題が、アズマの前に相対する。
さて、授業中に寝てしまうことは、いけないことなのだと、一度も学校に行ったことがないアズマでも、【パンドラ】からの事前情報として、そうなのだと認識していた。
「……」
けど、しかし、どうしたって、眠いのだ。
本当に、眠くてしょうがないのである。
片目だけ閉じて、片目だけ見開いても、その眠気は徐々に悪化していくだけだった。
人生最初の授業は、これが何を言っているのか、さっぱりちっとも理解できなくて、だからこそ、喉から欠伸が出るほどの退屈だった。教科書に書かれている文字が理解できても、専門用語が出てきてしまえば、そこまでと言える。
これを人生最後の授業にしてみたい気分に彼は陥ってしまっていたのだ。
――何で、こんなに眠いのだろうか?
理由は簡単だ。
アズマは寝ていない。
ここ数日、寝ることが出来ていない。
正直言うと、アズマは一人で寝ることが苦手なのだ。
真っ暗なのが嫌いで、真っ暗なのが怖かった。
真っ暗な所為で、アズマは何も理解が出来ずにいた。
――違う、違うな。
真っ暗なことが悪いんじゃない。
孤独であるのが、駄目なのだ。
明るすぎては眠ることが億劫になり、暗すぎては何とも言えない恐怖を覚え、眩し過ぎるのはむしろ理解できなくて、真っ暗なのは理解する気も失せてしまう。
だから、アズマは月が好きだった。
丁度良く、平等に自分を照らしてくれるあの球体が大好きだった。
「……」
息をのむ。
最後に寝たのは、ノエルとの添い寝。
孤独を忘れて、安らかに眠っていた。
実際は、ただの気絶かもしれない。
だけど、あの時は、確かに眠れていた。
――ああ、そうか。
今、アズマの周りには、名前も知らない――興味もないクラスメイト達がいる。
ただ、彼らは狂っていない。
アズマとは違う。
アズマがよく知らない。
ただの普通の人間だ。
魔弾を放つ魔術師でも。
蒼穹を飛ぶ魔法使いでも。
悠久を生きる神造人間でも。
すべてを斬れる剣聖でもない。
異常でもない存在だ。
ただのありふれた存在だ。
だから。
【無敵】の剣たるアズマを傷つけることは、決して絶対的に出来ない存在だ。
そんなアズマよりも弱くて、こんなアズマよりも普通な存在だ。
それゆえに、彼は……アズマは怯える必要はない。
――僕は今、安心しているのか。
孤独じゃない。
周りには、自分よりも弱い人がいる。
彼らは、アズマを傷つけようがない。
傷つけたくても、きっと報復を恐れてしまう。
考えてみれば、簡単な話だった。
――退屈とか、関係ないな。
例えば、
師匠と勝ちようのない試合をした時。
例えば、
クソ淫魔と他愛ない会話をした時。
例えば、
ノエルと愛おしい会話をした時。
今と比べてみれば、これらは、アズマにとって、かけがえのないものであり、どうしようもなく興味深いものであり、絶対に手放したくないものだった。だから、そのいずれの時も、絶対に『退屈』とは呼べないものだ。
けれど。
それでも、つい眠くなってしまう。
安心できてしまう。
コイツらの前だったら、別に安心して良いな、と。
弱者のように振る舞ってしまう。
――眠い。
睡魔。
この感覚を人はこう呼ぶらしい。
どこぞのクソ淫魔の親戚か何かだろうか?
奴の親戚は、面倒なことをしてくれるな。
――……。
まだ、一時間目。
いや、まだ一時限目と言うべきか。
そんなものはどうでも良かった。
勉強なんてものに、興味はなかった。
アズマはただ、眠りについた。
孤独の穴を埋めていた。
睡魔の穴に、吸い込まれていった。
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「――と、こんなことがあったわけだよ、【パンドラ】さん」
「なるほど、よく分かりました。ノエルの護衛のために入学したというのに、それをサボって貴方は授業中に居眠りというわけですか。ほぅ、へぇ、これはこれは、お仕置きが必要なようですね、アズマ」
機嫌が悪そうな声が、右手に握る携帯電話から聞こえてくる。
時は放課後。
時間が過ぎるのも早いようで、気が付けば学校の初日は終わりを迎えていた。
そして、すべての授業を寝て過ごしたアズマは、そそくさとホームルーム後の人混みに隠れて、人気の失せた屋上にて……ほとんどわかりやしないが、それでも、自身の任務の一つである今日の出来事について【パンドラ】に報告していた。
いわば、情報の共有と言うやつをしているわけであった。
そんな機嫌の悪そうな声を聞いて、それに感化されたように、されてしまったように、アズマは不満げな声で反論する。
「それを俺に言うなよ。……と言うか、訳の分からない言葉を発しているだけのティーチャーを見る時間とか、どんな新手の拷問だよ」
「我慢してください。そもそも、苦痛がない『仕事』なんてこの世に存在しませんよ」
己の不幸を嘆くように文句を言うアズマの言い分を、明らかに経験を多く積んでいる【パンドラ】が軽々と一蹴りする。【世界神秘対策機構】の人事と財政を担う彼女の言葉は、何よりアズマには重く感じてしまっていた。
その戦況(?)は、圧倒的にアズマの不利のように見える。
「へいへい、分かりました」
呆気なく手を引こうとする。
――が、この男、だいぶ吹っ切れていた。
「……とでも言うと思ったか!」
ノエルにバレないように――というか、立ち入り禁止の屋上にいることがバレないようにコソコソと話していたくせに、こんな場面になってみると、馬鹿デカい馬鹿みたいな声で、その白旗を赤色に染める。そもそも、会長に対して演技でアルバイトが暴言を吐くような状況を実践した奴に、そんな容赦など存在しているわけがない。
どうやら、アズマはやけくそになっているようだった。
「――はぁ。それで、どうかしましたか?」
それにうんざりしたようにため息を【パンドラ】は吐く。
否、それはウンザリしているのではない――すっかり呆れられてしまっているのだ。だがしかし、いつもの連絡もすでに終わっており、ならば普通に電話を切ればいいものを、どうも彼女の性格の良さから、そんなものは選択肢に入ってはいないようである。
アズマはドンっ、とこう口にする。
「スマホだ!」
返事はない。
数秒間の沈黙の果てに、【パンドラ】は静かに困惑を露わにした。
「……はい?」
「だから、スマホだ!」
「は、はぁ、それで、スマートフォンがどうかしましたか?」
明らかに【パンドラ】は動揺していた。
そのアズマの馬鹿らしい言動――だけでなく、彼女からしてみれば、そもそも、この話は、英語が分からないアズマがワーギャー騒ぎ立てていて、つまり文句を言っていて、【パンドラ】はそんな話の延長線上が今であると考えていたのである。
端的に言えば、会話が成立していない。
しかし、それに気づかないアズマは、堂々とした態度で言葉を続ける。
「ガラケーではなく、スマホを俺に寄こせ!」
「……理由を聞いても?」
「聞いて驚け。……どうもどうやら、かのスマホには、言葉を自動に変換する翻訳アプリがあるらしい」
「却下します」
即答だった。
まだ、理由を聞いてくれただけマシだったかもしれない。
その声色は、あぁそう言うことか、なんてニュアンスが含まれた、アズマが会話の成立しないヤバい人ではなかったことを安心したかのようなものであったことを、彼は聞き逃さなかった。だが、無視していた。何せ、それはアズマにとってどうでも良かったのだから。
「なんでだ!」
「予算がかさみます」
「っち、ケチだな」
「はぁ、良いですか、アズマ? 貴方には特別にいいことをお教えしましょう」
教師のような口調だった。
「そのガラケーだって、私のポケットマネーから買って、貴方に与えたものなんですよ。言語が異なるとかいう我慢すればいいものを理由に、スマホなどと言う、未だに私が買えていないものを買えると思わないことです!」
それならしょうがない、とアズマは瞬時に判断する。
イカレていた理性が、ようやくマトモになった瞬間である。
そもそも、【剣聖】一行を擁護する彼女のその行動は、『世界神秘対策機構』の参謀である【パンドラ】自身の身勝手な願望かつ要望であり、『世界神秘対策機構』全体の意思ではないと言える。彼女は、巨大な一つの荒波に抗いながら、アズマたちの支援を続けてくれているのだ。あの青年――日比谷は、『世界神秘対策機構』には【三枝財閥】を敵に回す覚悟はないとは言っていたが、敵に回して勝利する実力はない、とは言っていない。これ以上の我が儘はやめておいた方が良い、というのがアズマの判断であった。
それは、まるで諦めたような声だ。
「はぁ、寝るか」
「駄目です」
「……はいはい、分かったよ。それじゃ、そろそろ電話切るぞ。いい加減に戻らないと、ノエルに文句を言われちまう」
「まだ電話を切らないでください。その要求で思い出したことがあります」
「さっさと言え。さっさと家に帰りたい」
「……言語の違いによる周囲との齟齬は、私も問題になるのではと以前から考えていました。ですので、一応、有効であろう解決策をそちらに送りましたので、これからはおそらくは楽しい授業が絶対に楽しめますよ」
まるで授業が楽しくないような言い草であった。
善意の中に若干の悪意を感じる。
「そりゃどうも。そうならさっさとそう言ってくれればよかったのに。じゃあ、切るぞ。次の連絡は来週の終わりな」
「了解しました、それでは」
――通話は切れる。
手にしてから少ししか経っていないというのに、まるでその道の『専門家』のような仕草でガラケーを閉じて、そのまま右ポケットにそれを仕舞い込んだ。
「さて、帰るか」
返事はない。
そんなもの、彼は最初から望んではいなかった。