第二章36、『裏話・1』
アズマが足を踏み入れた部屋は、所謂書斎のようなものであった。
【世界神秘対策機構】――この組織の頂点は、この部屋の机の上に乱雑に置かれてある書類のうちの一つに目を通している。余程、集中しているのだろう。彼女はアズマの来訪に気づくことなく、真剣な雰囲気を保っていた。
(うーん、素顔が見れると思ったんだけどな)
そんなことを考えていそうな、あからさまな表情を彼は浮かべていた。同時に、自業自得のため息を吸う。この後、何をどうするべきなのか、サッパリ考えていなかったのだろう。期待を裏切られたような、予想を裏切られたかのような、――いや、ような、と言うか、それは事実である。
ある意味、彼らしいと言えば、彼らしい話ではあるが。
「アズマ」
「っ」
子供を叱るような声だった。それが響くと共に、びくりとアズマは体を震わせる。それは、恐怖、ではない。
「……え、あ」
過去に一度、彼はこういう声色の言葉を耳にしたことがあった。もう二度と、聞くことはないであろう、聞く権利がないであろう、彼が喉から手が出るほどに欲している『何か』がそこにはある。
「部屋に入る時は、ノックをするものです。それが女性のいる部屋ならば、尚更。フレイから教わりませんでしたか? 次からは気を付けてください。育ての親である、彼女の名に傷を付けたくなければの話ですが」
「……すいませんでした」
「よろしい」
彼女はそう口にして、資料を机の上にそっと置いた。その視線は自然とアズマの方へと向けられ、本能的に目を逸らしそうになるが……彼はそれを理性で抑えた。その表情は過去一番に申し訳なさそうで、年頃の子供の様だ。その一方、ウムルのその口元には、僅かな微笑が浮かんでいる。
「……ウムル・ノーデン・ラプラス。改めて、こうして、俺との時間を作ってくれたことを感謝する」
「やれやれ、感謝してくださいよ、アズマ・ノーデン・ラプラス。本来、今日は、世にも奇妙な魔法使いの数少ない休日なのですから。そもそも、【世界神秘対策機構】の【統括団長】を呼び捨てにする、なんて無礼千万な話なのですから。敬意を抱くと同時に、喜びを覚えてください」
ふざけたような口調だった。わざわざ、真面目な心構えで挑んだアズマの方がおかしいのではないかと思ってしまうぐらいには。――遊ばれている、と。そう考えたのだろう。
アズマはニヤリと笑った。
「……それはそれは失礼した。いやはや、実のところ、久方ぶりに気分が高ぶっていてね。ずっと、知りたかったことをようやく知ることが出来ると考えたら、心底心底楽しくて楽しくて――本当に、しょうがないんだ」
「同意です。では、そこのソファにでも座っていてください。……紅茶と珈琲、どちらが良いですか?」
珈琲で、とアズマは答えると、彼女はクスリと笑う。
「ココア、ですね? 珈琲は分かりますが、紅茶の味は君の舌には合いませんか。いえ……、えぇ、そうでした。記憶を失っても、やはり君は甘いものが好きでしたね」
彼女が独り言に近い形でそう口にして、その細い手で触れようとしたのはどんな家にもありそうなありふれた電気ポットだ。その手がそれに触れることはなく、まるで忘れていたと言わんばかりにその対象を下へ向ける。電気ポットや資料の置いてある机の引き出しを彼女は開くと、二つの高そうなティーカップを取り出した。そうして、ようやく彼女はお湯を注いだ――のだが、珈琲・紅茶・ココア云々の話をしていた割には、お湯をそれらにするための道具が周りに見当たらない。
「――エンチャント・ココア」
その現実を目にして、アズマは自身の頭を疑うように目を見開いた。先程までお湯だったそれは、今ではもうココアになってしまっている。それはどう考えても普通ではなく、彼女の肩書きから思案すれば、その正体は明白だ。
「……いや、えっと、【魔法】?」
「はい、【魔法】ですよ」
「いや、あの、ココアを作るために【魔法】を使ったってことか?」
ウムルはこくりと頷くと、そのお湯だったココアをアズマへと差し出す。彼は困惑を忘れやれない様子で、それを見て、彼女の笑みは別のものへと変化していた。
「君はこれを見たことがあるはずでしょうに」
「……」
アズマが知る【魔法】は総じて三つ。一つ目は【夢幻】の名を冠す【魔法使い】マーリンの【夢幻魔法】、二つ目は【浮遊】の名を冠す【魔法使い】天月未来の【浮遊魔法】、三つ目は【白銀】の名を冠す【魔法使い】ウムル・アナスタシアの【白銀魔法】。このうち、アズマが具体的な内容を知るモノは【浮遊魔法】しかない。確かに、半年の間、彼はマーリンと共に過ごしていたわけではあるが、その本質を掴めたことは、それこそ、夢を掴もうとするようなもので、一度もなかったのだ。
ただ、少なくとも、それは【浮遊】ではなかった。
「【白銀魔法】」
「正解。その効能は『概念の付与』、強力な属性、性質を本質に付与することによって、場合によっては元の形を失わせることも可能とする最も【奇蹟】に近しい【魔法】。どうぞ、召し上がれ」
「……」
彼にしては珍しい話だった。
好物を目にしているというのに、それはそれは嫌そうな顔を彼は浮かべていた。
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雑談を交わす。
『アズマ』はどんな人間だったのか、ノエルはこれまでどんな人間だったのか、ノエルと『アズマ』はどんな関係性を築いていたのか――それを彼は耳にしていた。そんな彼の様子は何処か苦しげで、その口から発せられる不完全な嘘はとても聞いていられないモノだった。当の本人自体、これについて、具体的なエピソードを覚えていない。
情報だけが、その脳裏に刻まれていた。
「……プライベートな場で言うのは失礼ですが、一つ提案しても?」
「話だけは、構いませんよ。その判断はその後で」
その一声で半分、それに対する返答で完璧に、彼は意識を取り戻す。
「【世界神秘対策機構】の【参謀】になるつもりはありませんか?」
「嫌です。てか、趣味悪すぎません?」
「――理由を聞いても?」
「アンタの部下にだけはなりたくない」
「……ショックです」
「それは失礼、謝罪しよう」
「結構ですよ」
それこそ、他愛のない世間話だった。
互いに、嫌々したような声だった。
「その代わりに本題に移ってもらえたら幸いですかね。僕は、君の思惑を知りたくでしょうがないんです」
「自分でズラしたくせに」
「おっと、そうでした」
少年の瞳に光が戻る。
少年は再び、過去から目を逸らした。
「――【転生者】、その集合体、アレの正体は何だ? そもそも、アレの成立理由が分からない。アレが、世界の予防線として成立したシステムだったら、いずれ現れるであろう危機に対応するために成立した存在だったとして、どうしてここまで非効率的なんだ。……ついでに、どうして五代目とアンタが同じ名前なのかも聞きたい」
「分かりません」
「……え?」
偶然でもなく、意図的でもなく――分からない。
六代にも渡って形成されたはずの存在の具体的な存在理由が、何一つとして判明していないと、彼女はそう口にした――
「あぁ、前者についての話ですよ」
――わけではなかった。ウムル・ノーデン・ラプラスは一切の迷いない様子で、すっかり慣れ切った様子でスラスラと言葉を紡ぐ。
「そして、正しくは、分からないのではなく、純粋に知りません。いや、そもそも、調べることが出来ません。【転生者】は【運命】を担っている以上――その目的が分からない以上、どのような行動が、どのような判断が、世界にとっての敵対行為なのかも分からない……というのが定説なんですよ。【転生者】が世界から遣わされた『世界の味方』である以上、『人類の味方』ではない以上、【転生者】という存在が、世界を何らかの形で救うことは確定しているんです。それを邪魔するのは忌避するべきであり、どんな行動が邪魔になるのかも分からない状況で、必要以上の干渉は避けるべき……というのが、最初で最後の調査によって判明したことです」
「……それについて詳しく」
彼女は懐から一枚の白紙を取り出すと、小さな声で何かを呟く。そうすると、彼女が握る紙に書いてある文字を口に出した。
「【運命】を持つ存在に対して、【世界神秘対策機構】は一度だけ調査を行ったことがあります。おおよそ、四代目の【転生者】が出現し、その人生に終わりを迎えようとしていた頃の出来事。これにより、その【運命】を持った存在に刻まれている結末が何故か存在しておらず、ただ、彼女の代わりに誰かが死ぬだけの存在であることが確定しました」
いわば、ノエルの劣化版。目的を果たすまでは死ねない、だからと言って、ただ都合が良いだけではない【運命】。目的がないというのに、存在理由がないというのに、どうして、その存在は死ぬことを許されないのか。
アズマ・ノーデン・ラプラスは俯き、そして考える。思案し、思考し、熟考して、納得が出来る答えを得たのだろう。彼はニヤリと口元を緩ませ、答え合わせを求める生徒のように前を向いた。
「……【運命】に対する対処法の開示――それが、その子の役目なんじゃないか?」
「正解――と言うよりも、そうとしか考えられないですかね」
結果、答えはなかった。
誰にも、それは分からない。
誰にも変えようのない過去は、もはや【運命】以外の呼び様がない。
「で、何で名前が同じなわけ?」
「尊敬です」
「尊敬……」
アズマが、『ノーデン・ラプラス』と云う名を先代から家族として与えられた……それだけでなく、自らの師匠や兄弟子、姉弟子に対する尊敬と■■■を抱いていること、それと同じ感覚だろう。――だから、彼は納得した。
同時に、共感した。
「はい、僕の本名は【ラプラス】です。如何せん、あの偉大な【白銀の魔法使い】の後継者になってしまった上に、【世界神秘対策機構】の【統括団長】になってしまって……あー、一応伝えておきますが、表向きには、『ウムル・アナスタシア』は死んでいません。というか、『ウムル・アナスタシア』という名前は誰にも知られていません。彼女が【白銀の魔法使い】になった時、彼女は【転生者】であることを秘匿するために、自らを『ウムル・ノーデン・ラプラス』と改名しました。――とにかく、彼女の威光を僕は利用しているのです。なので、表向きには、『ウムル・ノーデン・ラプラス』はまだ生きているのです。私が、ルーンによって、顔を隠しているのは、それが理由ですよ」
――一種の神話とすることで、守護者として完成する。
日比谷博文という男が、アズマ・ノーデン・ラプラスに対して望んだ、その完成形が『ウムル・ノーデン・ラプラス』なのだろう。その恩恵を受けているのが、彼女の影を借りた目の前の人間であり、そうあるべきなのが、ノエル・アナスタシアだ。
「なぁ」
ただ、問題が一つだけある。
「えっと、どうかしました?」
「それを知ってる奴、他に誰がいる?」
嘘がバレては、それが通じない。
過去の威光が、別物として切り離されてしまう。
「ジャックとパンドラくらいですけど」
完全な味方にしか、伝えるべきではない事実。
それを――
「――どうして、俺に話した?」
雑な言い方をすれば、嫌な予感を捉えたのだろう。
面倒ごとに巻き込まれてしまいそうな、そんな予感を。
「君が」
その色は分からない。けれど、確かに、その目と目が交差する。
「ノエルの【剣聖】だから……ですよ?」
訳が分からなかった。
ただ、これ以上の情報を得られることはない――そんな事実だけが、彼の悟った事実であろう。