12・雨の日
しばらく雨の多い時期が続くとルーの言っていた通り、今日も今日とて雨が降っていた。バケツをひっくり返したような雨という表現があるが、本当にバケツの水でも降ってきているかのように、ドドドドと叩きつける水音がしている。
これならばいっそダンジョンに潜っていた方が良かったかもしれないとサトルは思ったが、しかしダンジョンの中も水浸しの可能性がある。
ダンジョンの中が水浸しになった理由として今推測されるのは、ダンジョンの崩落により本来川に注ぐはずの雨水がダンジョン内に流れ込んだのではないかということ。
ダンジョン内の空間はどういうルールで成り立っているのか、未だはっきりしていない部分も多い。しかし地上と繋がっている部分には、地上から物質が流入してくることがある事がはっきりと確認されている。
まさに今日、今この時ダンジョンに水が増しているかもしれない。だとすればそんな場所にサトルが行けるわけがない。
サトルは水音のせいで頭痛を感じるようになっていたため、リビングの横長のソファの上でだらしなくて足を投げ出していた。
「いい姿ね。部屋には戻らないの?」
そうサトルに声をかけたのはアンジェリカだ。一人リビングでお茶を飲んでいる。その手前にはサトルがここ最近焼いていたナッツのクッキー。タチバナの味を再現できているなとお墨付きだ。
同じクッキーを差し入れた他の者達はそれぞれ自室で自前の武器の手入れをしているらしい。
「……一人だと、死にそうなくらい不安になる」
サトルが溢した低い呟きに、アンジェリカが不安げに眉を顰める。
「ならばもうしばらく付き合うわね。もしこれ以上貴方の気分がすぐれないのなら、私かルーの部屋にいらっしゃい。もしくは、姐さんたちの部屋でもいいかしら?」
サトルはしばらく考え、だったらと答える。
「ルーの部屋でお願いします」
アンジェリカの部屋で二人きりというのは、紳士を標榜する聡としては避けたいところ。オリーブたちの部屋では気が休まるどころか、構い倒されるのが目に見えている。セイボリー達はワームウッドとヒースを連れて、今は外に出ている。クレソンとバレリアンは今日も遊びまわっているとか。条件を考えていき、ルーの部屋ならばルーも受け入れるだろうし、サトルが大人しくしていればルーは何も言わず本でも読んでいるだろうとサトルは結論付けた。
遠慮するよと、格好をつけることもできないほど参っていたので、アンジェリカの提案はありがたく受け入れる。
「わかったわ」
ならばお茶を飲み終わるまでしばらくは、アンジェリカもここでゆっくりし、その後ルーの部屋に二人で訊ねると宣言する。
しばらく無言が続き、ふと何かを思い出したかのようにアンジェリカが口を開いた。
「周りが言う程、ルーはあまり怒ってもいないのよ」
それが何に対してなのか、サトルは一瞬理解が追い付かなかったが、アンジェリカは別に答えを望んでいなかったのだろう、視線は自分の手元に落としていた。
しかし不機嫌な表情のアンジェリカを見て、サトルには思い当たる物があった。
「アンジェリカも?」
曖昧な問いかけに、アンジェリカは頷く。
「かもしれないわ……。もちろん、苛立ちはあるのだけどね……先に周りの人たちが怒ってくれると、どうしても……ああでも、今回のことは私心底腹を立てているわ。何でよりによってサトルにとね」
はっきりとは言わないが、アンジェリカはサトルにモーションをかけてきた、ベラドンナやバーベナの事を話しているのだろう。
「この間のこともね、あれは怒っていたのではなくて、サトルのことを心配していたのよ」
心配と言われ、サトルは何かあっただろうかと首をかしげる。
ベラドンナ、バーベナ、オキザリスの三人には度々遭遇してはいるが、そのどれも三人の思い通りになっているとは思えない状況。
何せサトルが三人にそれほど興味を示さないのだ。
珍しく察しの悪いサトルに、アンジェリカは危機感が無いとため息を吐く。
「貴方薬盛られて傀儡の術かけられていたでしょう?」
「あれは場所が場所だったし、ローゼルさんも常々似たようなことをしてくるから」
だから問題は無い、と言いかけて、いややはりかなり重大な問題ではないだろうかと、サトルは唸る。
すっかり常態化して警戒が薄くなっていた。当たり前だと思うほどに感覚がマヒしていことに気が付く。
「くそ……問題だよな」
「問題よ」
「じりじりと罠の方に追い込まれていた気分だ」
警戒が薄れていた。もし今もっと強い術なり、別のアプローチなりを仕掛けられていたら、上手く気が付けていたか分からない。
まるで追い込み漁のようだとサトルは両手で顔を覆って呻いた。
サトルのその様子に、アンジェリカはもう一度大きなため息を吐く。
「ええそうでしょうね。そうでしょうとも。それで、ベラ……ベラドンナはああ見えて結構臆病なの。感情的になるまでにそういう事をしがちなのよ。そうなるよう性格の破綻したボスが性格破綻するように教育したんですもの」
今にも舌打ちしそうなアンジェリカの悪態に、サトルはアンジェリカの怒りがベラドンナではなく、ローゼルに向かっていることに気が付く。
ベラドンナがサトルに対して近付く際に、ローゼルがしたような術を用いた誘惑から入るのは、ベラドンナが臆病で自分の本来の感情を隠すからだとアンジェリカは言う。
人が思う程ルーもアンジェリカもあの三人に怒ってはいない、その言葉の真意はそういった背景があってのことかもしれない。
ならばバーベナについてはどうだろうかと、サトルは問う。
「バーベナもローゼルさんが?」
「いいえ、でもあの子はよく分からないわ。色々我慢のし過ぎで、自分の中でも感情に決着が付いていないことがよくあるようだけど、まさかそれでとは思ったわね。……けなげな子よ、ルーと同じように、妹のようだと思っていた」
まさかルーと比べるほどの情を抱いていないとは思っていなかったので、サトルは少し驚く。しかし、アンジェリカもまたアロエが言ったように、タチバナの葬式をボイコットしたバーベナのことを、裏切りだと感じているのだとした、可愛さ余って憎さ百倍になっていてもおかしくは無いのかもしれない。
怒っていない、そう口では言っていても、アンジェリカの心境は複雑だろう。
サトルはついでとばかりにもう一人。
「オキザリスは」
オキザリスについては、サトルとしては完全にコンプレックスからの拗らせで、嫌がらせまがいな行動に走っているように見えた。所謂酸っぱい葡萄である。
アンジェリカもそのことには気が付いているのだろう、オキザリスの名に
「私が考える上では個人としては三人の中で一番厄介。たぶん感情的なベラよりも、本当はやきもきしてるだけで自分から動きたがらないビビよりも……あいつの嫉妬が一番厄介」
「実際被害もあるんだったか」
妙に他害をけん制し合うクレソンとバレリアンの仲を引っ掻き回したのが、オキザリスだったというのは最近聞いたばかりの話だった。
最初はヒースのように懐いてみせておいて、その女性的な外見を利用し女性に甘い二人に取り入った。そうしておきながらクレソンの前ではバレリアンを、バレリアンの前ではクレソンを誉め、互いがそれぞれ少し劣らないのではないかというような言葉を言う。
互いがライバル視するように仕向けた後、なお相手に懐いているふりをしながら、自分は弱いからあの人に憧れるのだと話す。お前が一番ではない、憧れる対象と親しくなる対象は違うのだと、嫉妬心を焚きつけた。
そうやってじりじりと二人の離間を進めるオキザリスにマレインが気が付き、あまりふざけた行動を取るべきでは無いと注意をすると、今度は二人にマレインに迫害されているかのようなことを匂わせ、不安だからとすり寄った。
喧嘩が増える二人に、セイボリーのパティ―は一時的に瓦解し、ガランガル屋敷と呼ばれるこの家の下宿から立ち退いて行った。その後再結集したのはタチバナの葬式で久々に顔を合わせるようになってからだったらしい。
そこまでやらかしたのなら、それは確かに厄介だとも言われるだろう。
ワームウッドが強くオキザリスを警戒していたのも十分に理解できた。むしろできすぎるくらいだった。
「腕力が無い分、あの子は他人に取り入ろうとするのよね。そういう点では、サトルが簡単に騙されるとは思わないのだけど……」
けど、何だと言うのだろうか。またもため息を吐いて、アンジェリカはじいっとサトルを見つめる。その背後では同じような表情のお兄ちゃん(仮)。
「貴方警戒をするくせに、ルーみたいに一途に頑張ってるけなげな子好きでしょ? 妖精に対してもそうよね。頑張り屋の子が好きなようだわ」
アンジェリカの断言に、サトルは首を縦に振る。恋愛ではないが、とにかくサトルはけなげな存在にほだされる。それを好きという言葉で表されてしまうと、違うとは言えなかった。
だからこそアンジェリカは、サトルが本当に警戒すべきは、最もサトルが好意を寄せやすいバーベナなのだと繰り返す。
「貴方が本当にルーに恩を返したいのなら……誘惑には乗らないで上げてね」