6・拭えない泥
アロエが言っていた危ない所、というのは以前サトルがダンジョンの崩落に巻き込まれたまさにその場所だった。
サトルが落ちた場所には地面に大穴が開いていたはずだが、そこが土砂で埋まっていた。
一度その周辺にも大量の水が流れ込んだのだろう。周辺は木々がなぎ倒され、泥をかぶった流木や大きな岩がごろごろと転がっている。
辛うじて立っている木々の枝葉もことごとく引きちぎられ、幹も抉られている。水跡の残るの高さは他人の身長を軽く超えているように思えたが、土砂に埋まっているので正確なところは分からない。
一緒に連れてきていたキンちゃんたちの様子を窺うと、どうやらダンジョンの組み換えは起きておらず、崩落の危険は無さそうだったが、大量の土砂が流れてきたその場所は、明らかに腐った水の匂いがしていた。
サトルは顔を白くしながらも、その場にしゃがみ込み、泥や流木の様子を確かめる。
「……泥が乾いていいない……まだここに水が流れてきて日にちが経っていないのか……流木の方もあまり距離を流されていないのだと思う。樹皮や葉が残っている。長い時間流されるとそれらは剥がれ落ちる。幹の中に水分が残っているな……」
普段以上に硬く低い声で、分かったことを一つ一つ確認していくサトル。それが一体どういう意味を持つのかわからないからと、ヒースが素直に問う。
「どういうこと?」
サトルは表情の薄い顔をヒースに向け、今口にした情報から推測されることを答える。
「この木が折れて乾くまでの時間が経ってないってことだ……昨日今日で、多分水の流れが変わった。ただ一日は経過していると思われる。この悪臭は……黴じゃなく、水の底で腐った植物の匂いだ……」
いわゆるヘドロのような匂いに胸が悪くなると、サトルは口元を袖で拭う仕草をして見せる。
確かにこの匂いは気分が悪いなと、オリーブたちも同意する。
しかしとアロエが苦笑しながらサトルに尋ねる。自分もよく知らないことを、水が苦手だと公言するサトルがよく知っている物だと。
「それにしてもさ、よくわかるよねそういう事。嫌いなんじゃなかった?」
「苦手だからこそ、ある程度知っていないと落ち着かないし……」
サトルは苦手だからこそ、苦手や恐怖をそのままにできないと答える。
知っているからこそ怖いが、知らないままでも怖い。知って対処をできるようにならなくては、この恐怖は無くならないと肩を震わせる。
それに、まだこの地での恐怖は完全に対処できている状態ではない。
「まだしばらくここは立ち入りを制限した方がいいだろうな。こういう水害の後は土の中にいた悪い菌が人間の体に影響を与えるんだ」
「ああ、水溢れると病気が出るっていうもんね。土が悪くなって作物に影響が出るのは知ってたよ、でも人の病気までは迷信だと思ってた」
ガランガルダンジョン下町では水があふれる事はままあるらしいが、どうやらそれは他人の町に直接的に影響を与えてはいないらしい。アロエは本当にそんなことがあるのかと、眉唾であるかのように言うが、サトルは本当だとはっきりと言い切る。
「いや実際にある事だ。ここでは綺麗な水が手に入りやすいから実感はないだろうが、水が濁ると病気が出る。しかも災害の後だと心も弱くなっていて、より病気にかかりやすくなる。こういうにおいがする土は中に悪い菌……人や動物の病気になる原因を持っていて、乾いた後に細かく舞うようになり、吸い込んだら肺の病気になる……だから、しばらくここは立ち入り禁止にしてもらえるようローゼルさんに進言しよう」
それはサトルが実際に経験して知っていたことだった。
大量の押し寄せる水から逃れたとしても、安らげる家も、支え合う事の出来る家族も失い、弱った心と体を、病気は容赦なく蝕んだ。
当時のサトルは今以上に若く、体力もあったので辛うじて重症化は免れたが、共に避難していた者達の中には、急激に呼吸もろくにできなくなった者もいた。前日まで少し苦しいねと咳交じりに言葉を交わしていた相手が、翌日には呼吸が出来ず、意識を失うようなこともあった。
中にはサトルよりも体力がありそうな大人もいた。彼は他人よりも体格がいいからと、やや過度なのではと思うほどに、避難所内で動き回っていた。体力を過信していたのか、人が良すぎて無理をしたのか、その人は病院に運ばれるも重症化して時間が経っていたため、耳や平衡器官に後遺症が残ってしまったと聞いた。
その場から動かず当時を思い出すサトルの厳しい表情に、何かしら思うところがあったのか、オリーブは分かったとサトルを落ち着けるようにサトルの言葉を肯定しつつ、それでもこのダンジョンの特異性を説く。
「わかった。サトル殿がそう言うのならば信じるよ。だが、このダンジョンでは病が治り、深い傷も後遺症も治癒すると言われている。実際、他のダンジョンに比べて、とても傷の治りが早くなるんだ。だからそれほど、サトル殿が心傷めるほどの心配はいらないのではないだろうか?」
それは以前ルーにも聞いていた。またマーシュとマロウの兄弟のように、ガランガルダンジョン下町に治療のために移住してくる者もいるという事も、サトルは理解していた。
しかし薬が作られ、発達した医療技術を持ち、見えないはずの体の内側を見る事の出来るようになったサトルのいた世界でさえ、理由のわからない病気という物は幾らだって存在した。
感染症などまさにその筆頭だ。
ただの「風邪」と分類される病気ですら、菌を特定できるとも限らず、年間何万人も死んでいた。
単純な気管支の炎症を引き起こし、寝ていれば数日で完治するはずの風邪の菌も、気管支以外に感染すれば風邪とは比べ物にならないほどの重症化から、入院に至ることだってある。
「どんなに医療の力が発展しても、高度な医療を格安で受けることのできる俺の国ですら……肺を患ったら死ぬ人間がそれなりに多かった。だから楽観視はしたくないんだ」
生物以外で最も人類を殺していたのは細菌に間違いないと言われるほど、人間は細菌の恐怖を克服できていなかった。
だがそれをここで語るのは本末転倒だろう。何せここは「空気が悪い」のだ。
サトルは「すまない」とオリーブたちに謝罪し、泥まみれのその場を離れることにした。
「でも……さっきサトルが言ってた水が怖いって、ちょっとわかったよ」
泥の地面から足を上げながらそう言うヒースの視線の先には、大の大人が腕を回しても向こう側まで届かないほどの巨大な岩。その泥にまみれ、倒木と絡み合うように不自然な位置に転がる姿から、その岩が水に流された物だと分かった。
あんな巨大で重そうな岩が流れ出してくると考えたら、それは確かに脅威だろう。家屋の土台にぶつかれば、倒壊すら引き起こしかねない。
岩だけではない。この辺りに散乱している木々は、そのほとんどが人力で動かすには巨大な、丸太だ。
根元から根こそぎなぎ倒されている木々も、それを切り出そうとしても、人間の力では一日二日で出来るものではない。
水の力をまざまざと見せつけられ、確かにそうだとオリーブたちも揃って身を震わせた。