4・愛情か恩情
ダンジョンの水没の調査をした日の夜、サトルはルーにダンジョン内部で見た事、気が付いたことを一通り話した。
ルー自身が詳しく聞きたがったこともあるが、サトルはまだ文字を書くことができないので、ルーに代わりに書いてもらうためだ。
場所がルーの自室だったため、サトルの潔白の証明のためという名目で、アンジェリカにも同席してもらっている。
「はい、分かりました、ではこれをまとめてローゼルさんに提出しておきますね」
これで終わりと締めくくったサトルに、ルーはメモを終えてそう返す。
しかしサトルはそれはまだ待ってくれと返す。
「ああいや、明日もダンジョンに潜るから、それの後で……」
「磯の匂い、ですっけ?」
明日もダンジョンに行くと言うサトルに、ルーは自分の書き付けたメモに目を落とす。
気になる事と注釈し、下線迄引いてある。
「ああ、どうしても気になって……」
「そんなにはっきりと分かったんですか?」
「この間私たちを置いてダンジョンに行った時のような、生臭い匂いはしていないわよ」
磯の匂いという物は、ルーにはあまりわからない。アンジェリカも、サトルがダンジョン内の海に行った時のような匂いは、今回はしていないと言う。
海で獲れる魚自体は、ダンジョンのおかげでガランガルダンジョン下町内でも流通しているが、この町で多く消費される鯉や鱒の仲間に比べて幾分も高く、ルーが自ら買って食べると言う事は無かった。
タチバナも魚よりは肉や菜食に特化した料理を作っていたようで、魚のレシピはあまり残していなかった。
「いや、むしろぼんやりとだ。けどプクちゃんも落ち着かない様子だったし、何かある気がして」
プクちゃんと聞いて、そう言えばまだ姿を見ぬ妖精がいたと、ルーはクスリと笑う。
「海で見つけた子なんですよね」
姿を見せてはくれないが、時々ルーにも感じる泡のはじけるような音や匂いがあった。その音や匂いがする時はサトルがプクちゃんの名前を呼んでいたので、それが磯の匂いなのだとルーにも納得がいった。
あの匂いは記憶に残る匂いだ。それが真水しかないとこでしていたのなら、確かに違和感があるだろう。
「ああ、妖精たちはそれぞれ好みの場所があるみたいだし、プクちゃんもそうなんだよ」
答えていたサトルが、突然椅子の上から飛び上がった。
「水に、うわ、ちょ、冷たいプクちゃん」
サトルの声とともに、ルーやアンジェリカの耳や鼻にも、プクちゃんの音と匂いが感じられた。音はシュワシュワと激しく泡のはじける音だ。
「どうしたんですか?」
「まるで冷や水を浴びせられたような反応だわ」
アンジェリカの言葉に、サトルはその通りだと返す。今まさに、サトルはプクちゃんにシャツの内側をはい回られていた。外から見てわかるほどに、シャツが不自然に動いていた。
「シャツの内側に、ひえあ、止め、何……どうしたどうした」
女性二人の前で醜態を見せながらも、サトルは自分のシャツの中を落ち着きなく這うプクちゃんに必死に呼びかける。
「うん、そうか、不安なんだな? 大丈夫、明日ももう一度ダンジョンに行こうな」
ルーやアンジェリカにプクちゃんの姿は見えない。一人プクちゃんをなだめるサトルの姿は、まるで何もない場所に向かって独り言を言っている人の様。
アンジェリカが呟く。
「変人よね」
ルーが苦笑しながら返す。
「さすがに慣れました」
二人の冷たい視線に、サトルは渋面で答える。
「そんな顔をしてくれるな」
他人の目に見えないもの相手に話しかけるという行為がどれほど怪しいか、サトルにだってわかっているのだろう。それでも妖精たちは確実に存在するのだから、蔑ろにはできない。
せめてモーさんを連れてくるべきだったかとサトルは後悔して呟いた。
「見えていればこの気持ちわかるから」
ようやくプクちゃんも落ち着いたらしく、サトルは自分のシャツの胸元を撫でる。姿は見えないがそのシャツが少し膨らんでいることから、そこにプクちゃんがいるのだろうことは分かった。サイズは鶏卵よりもやや小さい位だ。
「べつに呆れてるとかじゃないんですけどね……そう言えば、サトルさんって、人間よりも人間の形してない生き物の方が好きですよね」
ふっと、思ったことをそのまま口に出してみるルー。それに対して、サトルはそんなつもりはないんだと首を振る。
「いや人間も好きだよ」
しかしアンジェリカがそうは見えないと返す。
「そうかしら? の割に私たちには触れてこないわ」
「女性にむやみやたらに触れるのは紳士じゃないだろ」
それは初めてルーに会った時からサトルが貫いている態度なので、ルーとしてはもう何も文句を言う所ではなかったが、アンジェリカはそうでもなかったらしく、その態度はあまり気に入らないわと返す。
「エスコートもろくにできないのでは紳士でなくてよ」
エスコートに関しては覚えがあるのか、サトルはわざとらしく呻いてアンジェリカに頭を下げる。
「ぐう……女性は、苦手です」
「よろしい、正直に言いましたね」
頭を下げるサトルに、アンジェリカがまるで教師か何かの様に上からの物言いで赦しを与える。
サトルはますます腰を折り、床に膝をついてアンジェリカよ理も頭を低くする。
茶番である。それも二人はその流れを最初から決めていたかのようにやってのけたので、ルーは何をふざけているのかと呆れる。
「アンはサトルさんの何なんですか?」
「師匠かしら?」
何のとは言わない。サトルは頷きかけて、やっぱり違うなと首を振る。
「ただの友人だよ。この間ローゼルさんのエスコートについて、相談したんだ」
「あら友人と思ってくれるのね。ではルーのことはどう思ってるのかしら? 私とは扱いが違う用だけど」
アンジェリカとしては自分がサトルの友人、という立場である事には不満は無いようだったが、それならばと、自分が一番溺愛する妹分のことをどう思っているのか問う。
「ええ、そんなそれって今聞くことですか?」
ルーは慌てる。嫌われていない自信はあったが、だからと言って踏み込んだ関係になっているわけでもない。ダンジョンの勇者という興味を持っている存在以上に、サトルを好ましく思っていなくもないので、ここでサトルの心情次第では、ルーとしてもいろいろやぶさかではない部分もあり、と、ルーはめまぐるしく考えを巡らせる。
「恩人だな」
ルーの思考をきっぱりと切り捨てるようなサトルの言葉に、ルーは引きつった笑顔のまま肩を落とした。
「……そうですねー」
「友人よりも気持ち、重要というか、正直ルーには感謝しかないよ」
少し照れたように口の端を持ち上げ笑うサトル。その心情としては、気恥ずかしいながらもルーへの十分な好意を示しているつもりなのだろう。
しかしそこには恋愛感情のような、将来的にパートナーになりたい、などの発展的な感情は無いように思えた。
ルーは少しがっかりする、
サトルの中では最初にルーに対して決まった、恩人という評価から何一つ変わっていないのだ。
ルーの中では利用できる人間、だった相手が、今は傍にいてほしい人間、に代わっているというのに。
話が途切れたことで、サトルももう今日の報告は終わりだと判断したのだろう、それじゃあとルーの部屋を後にする様子。
「それじゃあ俺は部屋に帰るよ」
部屋から出ていくサトルを見送りながら、ルーは少し忘れかけていたこと付を思い出す。
「はい、お疲れさまでした。あ! そう言えば今日ニゲラさんが一回返って来てましたよ。クッキー食べてすぐ行っちゃいましたけど。感想を紙に書いて部屋に置いておくと」
「ああ分かった、ありがとう」
軽い感謝の言葉とともに部屋を出ていくサトル。
扉が閉まるとルーは苦くため息を吐いた。
アンジェリカがその横にピタリとくっつき、同じようにため息を吐く。
「鈍いと言うわけではないようだけど、あれよね」
「私サトルさんの中で女性じゃないんですよ、きっと」
「そうでは無いと思いたいけど……」
「もー……これじゃあベラやビビと変わらないじゃないですか。嫌われてないだけましって感じで」
「さすがに聞く限りでは、それよりはだいぶ扱い上だと思うけど」
交互に言葉を交わし、もう一度二人はため息を吐く。
「サトルさんの馬鹿……」