3・絡新婦の巣
見知らぬ匂いという物は人に強いストレスを与えると、サトルは以前何かの本で読んだ、しかしそれは、知っている匂いがストレスにならないという事とは同義ではない。
サトルはベラドンナたちからどう距離を取ろうかと頭を悩ませ、ため息を吐いた。
ローゼルの使っていた物とを同じだろう、人を魅了したり幻惑にかけるための香、その匂いを放つベラドンナ。
不快なにおいというわけではない、むしろ香水としては甘く香る程度なので不快にまではならない。何だったら周囲に並ぶ薬の原料だろうあれこれの方が匂いが強い。
だというのに、サトルにとってはどうしてもベラドンナの匂いが鼻に付いて仕方なかった。
また二人はサトルが人ごみから守れるようにと先頭に立ち歩けば、わざとらしくよろめき体を、それも胸を当てて来たり、腕を取って歩こうとしたりしたので、サトルはそれを避けるのに神経を張っていなくてはならず、わずが数十メートルを歩くだけでかなり疲弊していた。
距離を取るためには、相手の位置を知っておかなくてはいけないなと、サトルは思いついた言葉を口にする。
「少し、後ろを歩くよ。どうも後ろからぶつかってくる人の方が多いようだ」
追い越しざまにぶつかる手合いから守れるようにと言い訳し、サトルは足を止め二人の後ろに付く。
「あん、私たちならば大丈夫ですのに」
「そんな気を使っていただかなくても」
「気など使っていないよ。貴方たちが何度も倒れこんでくるから」
ベラドンナがしまったとばかりに口の端をゆがめる。
「すみません私たち迷惑だったかしら」
迷惑かどうかで言うならば、はっきり言って迷惑だった。警戒している相手に触られるという事は喜ばしい事ではない。相手が外見的に好みの範疇だとしても、その言動が怪しいと思えば好意を向けること難しかった。
しかしサトルはそれをごまかす。
「いや、貴方たちのせいでないというのは分かっているんだ。何度も人がぶつかっているようだから……女性の身も守れないんじゃ紳士じゃないしね。俺の顔を立てると思って、背中を守らせてくれ」
「……まあ、それでしたら」
「助かります」
ベラドンナもバーベナも遠慮をして見せるが、露骨に何度も胸を押し当てるような真似をしていたので、サトルに強く言われてこれ以上言い訳はできないらしい。
二人は積極的にアプローチをするというよりも、基本的に嫌われないように、というスタンスであることが分かった。
サトルは二人に先を歩かせ、距離を取って後ろを付いて行く。
後ろから二人を観察してみれば、人の流れをきちんと自分たちの目で追えているようで、そうそう人にぶつかってしまうという事も無いように思えた。
足を止め二人の動きを観察するサトルに気が付いてか、ベラドンナとその連れバーベナが不思議そうに振り返る。
「何をしていらっしゃるの?」
「どうしたんですか? 何か気になる物でも?」
二人がサトルに問いかける。店に並ぶ何かの商品に気を取られ、足が遅れたと思ったらしい。
「すまない、少しよそ見を……バーベナたちは中央の広場まででいいんだよな?」
頷いてしまったからには広場迄は付き合うが、そこまで行けば流石に別行動をしようとサトルは心に決めていた。
「ええ、でも……できれば一緒に見て回りたいなと思ってるんですよ。サトルさんが一緒にいてくれるお陰で、先程より人に声をかけられることが少なくて」
バーベナはふわりとはにかむように笑って言うが、サトルはそれを信じてはいなかった。
二人と歩いた距離はまだ短い。確かにその間に女性二人ならくみしやすいと見てか、サトル一人の時よりも声をかけてくる男は多かった。
サトルが店頭に並ぶ品を興味深く見ている時にかけられた声が、男女比率で大差なかったことから比べると、二人は男性にばかり立て続けに声をかけられていたので、サトルと合流する前はもっと鬱陶しいと感じるほどだったのかもしれない。
しかし、ベラドンナもバーベナも、そんな商品の売り込みや客引き、ほとんどナンパに近いような声かけに関しても、サトルが何かを言う前に断ることが出来ていた。
サトルの助力が必要な場面など一回も無い。
「俺がいなくても、貴方たちは自分で断ることが出来るのでは?」
「ですが……知らない方に、声をかけられるだけで恐ろしいのですわ」
バーベナは儚げに俯いて見せる。その立ち振る舞いに、サトルは小さく呻きを漏らす。
ローゼルやベラドンナのような、盛りを誇るような美しさはバーベナにはない、しかし、何故かこの俯きがちな視線や、少し疲れたような表情が、妙に庇護欲を掻き立てる。
「俺にも連れがいるんだ……今は別行動しているが、広場で落ち合う。そいつと話して時間があるのなら」
かまわない、そう言いかけてサトルは言葉を途切れさせる。
応えながら窺っていたバーベナの表情に、かすかな違和感があった。口の端をゆがめるような、不快を示す表情をとっさに隠すような……。
「……ワームウッドというんだけど、俺のことを聞いたことがあるなら、知ってるんじゃないだろうか?」
バーベナがガランガル屋敷と呼んだルーの家に下宿している冒険者の一人だ。それも町屈指の冒険者セイボリー達と行動を共にすることも多い人物なので、知っている可能性も高いとサトルは考えたのだが。
「名前は、聞いたことがありますね。……お会いした事は無いのですが」
答える声の出だしが震えていた。言葉を選ぶ時間が先の会話よりも長かった。視線が僅かに上方を向きサトルから離れた。バーベナの横でベラドンナの耳が震え、一瞬菫の瞳が暗く見えるほどに瞳孔が広がった。
それらを総合して、サトルはバーベナが嘘を吐いていると感じた。
「そうか、気のいい奴だよ。彼と合流して時間がありそうだったら、貴方たちの用事に付き合うよ」
「ありがとうございます……お時間あるといいのだけど」
僅かに硬くなった笑顔と末尾の擦れる声に、サトルはますますバーベナを疑う。
堪えても耳や目に分かりやすく感情が出てしまうベラドンナはともかく、バーベナという女は穏やかな笑顔をしているが、その分感情や何を考えているかが読めない。よほど疑って今、ようやくその繕っている表情のブレを捕らえているに過ぎなかった。
バーベナ単体で出会っていたら、ころりと騙されていたのではないだろうかと、サトルは背筋を震わせる。
サトルはこの海外の市場を思い出させるバザールで考えていたことがあった。笑顔で近付いてくる人間は、良くも悪くも何か思惑のある人間だ。海外旅行でこれを忘れた事は無かった。
そして今も。
笑顔の美女二人もまた、サトルをだまし篭絡しようと企んでいるのではないだろうか。
少なくともベラドンナは妙な薬や香を使ってサトルに近づこうとしているように感じる。
二人に悟らせないように警戒の度合いを上げ、サトルは二人からまた数歩距離を開けた。