8・グルメとダンジョンとワタノハラと
初階層から下に降りる階層は複数ある。その全てにサトルは行ったことがない。その中で異常行動をするモンスターの目撃例があり、なおかつ、マレインがお勧めだと言ったのは、「青と緑の平地」と名付けられているホールの一つだった。
階層はホール内の状態で付けられた名前と一号、二号という番号で識別されている。
そして「青と緑の地平三号」の内部の半分は、亜熱帯のジャングルのようになっていた。
雰囲気からして、最初にサトルがルーと一緒に潜った場所に近いが、それよりももっと風が強く、木々の間を抜ける感覚があった。
虫が多いらしく、ワームウッドが用意してくれた、樹木と柑橘とミントを混ぜたような、少量ならいい香りで済むだろう虫避けのコロンを吹きかけられた。
この世界の通常の人間であるヒュムス程度のサトルであっても相当刺激が強く、ヒュムスよりもさらに嗅覚が優れていると言う獣の特性を持つ、シャムジャやラパンナであるワームウッドたちは、自分でふりかけながら涙目になっていたほどだ。
「虫は嫌いだが、これはきついな」
「きついけど危険な虫も多いエリアだし、必要だよ」
ぽろぽろ涙をこぼしながらワームウッドは言う。
ちなみに竜と人の合成獣であるニゲラは、ぱかっと口を開いて驚いたような顔をしている。刺激物とは感じているようだが、ダメージはなさそうだ。
瞳孔が縦長なせいもあり、何処かで見たことある様なニゲラに、サトルはしみじみ呟く。
「うん、フレーメンだな」
一緒に連れてきていた妖精たち、キンちゃん、ギンちゃん、ニコちゃん、シーちゃん、フーちゃん、テカちゃん、モーさんの七匹は、それぞれ不思議そうにサトルやニゲラたちの周囲を飛び回り、匂いを嗅ぐ。
妖精には嗅覚があることを、サトルは初めて知った。
どうやらここはそれなりに人の出入りのあるホールらしく、木を伐り、踏み固めた蜜が作ってあった。
マレインが意気揚々と先頭を歩く。普段ならば隊列の編成を考えてか、セイボリーを先頭に、クレソンやバレリアンが次鋒を務めるはずだが。
マレインの尾が激しく左右に振られているのと何か関係があるのだろうかと、サトルはいぶかしむ。
「……何が?」
「楽しそうだよね、マレインさん」
何か知っているのか、サトルの呟きを拾いヒースがくすくすと笑う。
さほど歩かぬうちに、サトルの鼻が僅かに懐かしい匂いを嗅ぎ取った。
「ん?」
きつい虫避けのコロンを纏っていても、風が強く吹いているからこそ分かる匂い。
神奈川や東京で育った身には懐かしいと言わざるえないその匂いに、サトルは思わず胸を押さえた。
「父さん? どうしたんですか? 耳が赤いです。それに嬉しそうだ」
サトルの興奮に気が付いたのか、ニゲラがきょとんと首を傾げる。
「ああ、君も僕と同じかサトル! やはり君とは気が合うようだね」
ふふふと、実に楽しそうにマレインは宣言し、足を速める。
それに追いつこうとサトルも足の動きを早くする。
そして、木々が途切れ、視界が開けた。
「海……あるのか」
水面の反射や吹き付ける潮風に、サトルはたまらず目を細める。
感嘆の入り混じったサトルの呟きに、マレインは答える。
「塩の湖さ。海とそっくりなんだけど、何かが違うらしい。生物などは僕の知ってる海と変らないがね」
尾を振りながら、まるで宝物を自慢するようにマレインは手を振るい、サトルに海にたその湖を示す。
「マレインは海を?」
見たことがあるのかと問う。
日本にいては意外な話だが、世界の大半の人間は、生涯海を一度も見ずに亡くなっていくこのと方が多いのだという。
サトルにとって海は、学生時代を過ごした街にも、仕事をするために居付いた場所にも当たり前にあり、それを見ずに生きると言う事の方が不思議だった程だ。
だから懐かしさがこみあげてきた。
「僕の出身地はね、港のある町だったよ。海はここまで青くは無かったが、」
「俺の所もそうだ……」
太陽も無いはずなのに、その水はまるで南国のそれのようにどこまでも輝く青。惜しむらくは、水平線は存在せず、遠くに靄がかかったようなダンジョン石の薄い茶色の壁が見える事。
本当に海だったら理想的なリゾート地になりそうな場所だったが、そうなると、リゾートに必要となるグルメはどうだろうか。サトルは思わずそう考える。
懐かしいと感じた頭ですぐに食べ物のことに考えが行ってしまうのは、安心感があるからだ。
サトルは海の方へと足を進める。
「ここの磯は結構滑る。気を付けるんだよ」
「ああ、分かってる」
マレインも尾を振りながらサトルに続く。
海に近い足場は、天然の岩なのかダンジョン石が様々な条件により変化したものなのか分からない黒っぽい岩場で、波をかぶると濡れるため滑りやすくなっているようだった。
水面に寄れば明度はとても高く、磯の岩場の隙間を縫って泳ぐ魚の鮮やかな背すら見えた。
「魚とか……」
サトルの呟きにマレインがすぐに反応する。
「たまに、漁をしに来る者もいるよ。ダンジョンが不安定になってからは、あまりないが」
「なら……寒天は行けるだろうか?」
それも独り言のつもりだったが、後ろからついて来ていたルイボスが、その名前に心当たりがあると答える。
「寒天ならば、タチバナに聞いたことがありますね。このホールではありませんが、確かに塩の湖で採取した水生の植物を煮て作っていましたよ。一回に結構な量を作っていたので、まだ残っているかもしれませんね」
まさかの寒天が既に存在しているという事実に、サトルは驚き声を上げる。
「本当ですか! 行幸だ! ルーの家に寒天が残っていないか探してみるか」
寒天は冷温で固まるゼラチンと違い、常温で固めることが出来るので、氷を作ることが出来なくとも扱えたのだろう。
食用としてかはわからないが、タチバナが寒天を作っていたとしたら、もしかしたらルーがタチバナが寒天の材料を採取していた場所や作り方も知っているかもしれない。
ゼラチンもいいが寒天のほろりと崩れる触感も嫌いではないサトルは、わくわくと胸躍らせる。
そんなサトルの期待にクレソンが水を差す。
「いいのか? 少なくとも半年以上前のもんだぞ」
ルイボスが訂正をする。
「それ以上ですよ、毎年冬に作っていた」
しかしそこは問題ない。寒天は乾物だ。
「乾燥させて保存する物だから、ガランガルダンジョン下町ほど寒冷ならたぶん平気」
「ええ、カサカサの物体でしたね」
カサカサと聞いてクレソンはんなわけないだろと唇を尖らせる。
「えー、水の中の植物ってあれだろ? どろどろのペタペタだろ? 投げたらべっちゃべっちゃになるじゃねえか。それに何か匂うし」
普通は海藻は投げる物ではない。
が、しかし、記憶や知識が歯抜けなニゲラはクレソンの言葉をそのまま受け取る。
「投げるんですか? 海藻」
父として、サトルは教育的指導をする。
「投げちゃ駄目。嫌がらせだろそれ」
「おう!」
いい笑顔で肯定したクレソンに、バレリアンが無言のローキックをかましたことから、その嫌がらせは誰に向けて行われたのか、その場の誰もが察したのは言うまでもない。