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秘密その4 秘密の扉を発見ワンワン ~扉の向こうの麗人~



 ゴクンと唾液を飲み込み、わたくしはそっとドアの中へと身体を入れた。

 入れた途端、後ろにあったはずの出入り口が消えて壁に戻る。

 ジャが出るか、ヘビが出るか……あれ、どっちも同じじゃない?

 などと、どうでもいいことを思いながら、歩を進める。

 中は、仄暗い通路だった。通常の通路よりも、床がひんやりとしているのが素足の裏から伝わり、背筋がゾクゾクした。

 何かしらの灯りがついているわけではないのに、不思議と自分の周囲だけは確認できるようになっている。これもまた、なんらかの魔術が施されているのだろう。

 わたくしには、まったくわからないけれども。

 気を付けながら、わたくしは前へと進んだ。この先に旦那様の匂いは、続いている。

 少しして、予想外の行き止まりに当たってしまった。

 行き止まりというか、正確には扉がある。木のように見えるけれども、木とはまた違う不可思議な素材が、その扉には使われていた。

 しかし、この扉は鍵がかかっているようで、簡単に開けることはできなかった。

 まあ、ノブを回せば簡単に開くなんて、思っていたわけではないけれども。

 そうよね、簡単に開くわけがないわよね。旦那様の秘密の場所だもの。

 魔術まで使って、隠していた場所だもの。わかってた。


「……駄目ね」


 これ以上は行けないかなあ、と淑女らしからぬ舌打ちなどをしてしまった。

 ここは一旦廊下の方まで引き換えし、柱か何かの裏で旦那様が出て来るのを待つ方がいいのかもしれない。けれども、このままでは決定的な証拠とは言えない、状況証拠くらいしか手に入らないだろう。思考を巡らせた結果、ひとまず今回は身を引くことに決める。

 無理にことを進めるとロクなことにはならない……ような、気がした。

 ああでも、出入り口って消えていたような……ああ、どうしましょう。

 無理に進むか、諦めて戻るか……

 よし、とりあえず一旦戻ってみよう。

 ネグリジェを翻し、元来た通路を辿ろうとしたその時。


【合言葉をお願いします】


 突如、聞き慣れない声が静かに響いた。若い男性の声のように聞こえる。

 思わず、びくりと全身を跳ねさせてしまったわたくしに、きっと罪はない。心臓が、おそろしい鳴り方をしている。まるで、跳ね馬のようだ。


「な、何?」


 自分しかいないと思っていたのに、他の誰かが潜伏していたのかとキョロキョロ周囲を見渡すも、あるのは壁と床と天井と、扉だけ。


【合言葉を、お願いします】


 再び同じ声と言葉が響き……それは、わたくしの勘違いでなければ、この扉から聞こえて来るように思えた。


「あ、合言葉?」



 おうむ返しに呟き、ようやく声の主が魔術で施された仕掛けなのだと、思い至る。

 扉は合言葉なるものを、求めている。つまり、この扉は合言葉にて開錠されることになっているのだ。

 合言葉……

 そんなもの、わかるわけがない。

 やっぱり、ダメだ。諦めて、引き返すしか……


【合言葉をお願いします。純情可憐なるリリーナ夫人の好きな色は?】


 え?

 今、なんつった?

 その問いかけに、思わず素で答えてしまう。


「……桃色?」


【お通りください】


 え?

 扉は呆気なく、パカーンと開いた。

 え。えー?

 わけもわからず、わたくしは首をかしげながら、扉を通り抜ける。

 合言葉が、まさかのわたくしの好きな色。これを仕掛けた相手――おそらく旦那様だと思われるけれど、きっと……合言葉を考えるのが面倒になったに違いない。

 そこで適当に思い出したわたくしの好きな色なんかを、合言葉にしたのだ。


「迂闊ですわね、旦那様」


 ぐふふ……と笑いながら、通路を進む。

 おそらく旦那様は、わたくしがこの通路を見つけるなんて、微塵も考えなかったのだ。

 だからこそ、わたくしが簡単に解ける鍵を作ってしまった。旦那様らしくはないけれども、そういうたまにちょっと抜けているところが、また舐め回したくなるほどに、おかわいい……

 などと、妄想の中の旦那様を舐め回していると、再びわたくしの前に扉が現れた。


【合言葉をどうぞ】


 今度は若い女性の声が響く。だが、内容は同じだ。

 扉が二重あるとは、なんとも厳重である。


「……桃色?」


 一応、先ほどと同じ答えを告げてみる。

 が、ある程度予想していた通り、扉が反応することはなかった。


【合言葉をどうぞ。清純無垢なる清らかな乙女、リリーナ夫人の好きな食べ物は?】


 再び、答えを求められる。二度目は、どうやらヒントを出してくれるシステムのようだ。

 しかし、その……わたくしの名前の前に変な枕言葉がつくのは、なぜなのかしら?

 なんなの?

 わたくしを妖精か何かだと、この扉は言いたいの?


「……ラブベリー」


 頭に浮かんだ、赤く小さな木の実を答える。甘酸っぱくて、見た目もかわいらしい果実は、実に乙女たちが好む果物なのだ。

 だが、扉は反応しない。

 ちっ。


「……肉類ならなんでも」


【正解。お通りください】


 くそー!!!

 扉相手に乙女ぶってもダメだった!

 というか、旦那様には肉食系女子であることがバレていたのね!!

 特に揚げている鳥の肉が大好きだってことも、知られているのかしら?

 一羽分の揚げ鳥を食べたいと、風邪を引いた夜に熱にうなされながらぼやいていたわたくしの過去が知られていたら、どうしよう……

 ううう……旦那様の前では、かわいらしく慎ましい妻を演じているつもりだったのに……淑女とは、いつでも愛する殿方の前ではかわいい存在でありたいものなのです……

 見えない涙を流しながら通路を進む。

 それからも、扉は何度もわたくしの前に立ちふさがった。


【夢のように愛くるしいリリーナ夫人のお気に入りのぬいぐるみは?】


【世界中の芸術家とて表すことのできない美しいリリーナ夫人の嫌いな食べ物は?】


【幸せの象徴たる星の輝きをまといし乙女リリーナ夫人のお気に入りのお茶は?】


【女神に等しく慈悲深き聖女リリーナ夫人のお気に入りの湯剤は?】


 などなど。

 いくらなんでも多すぎじゃないかしら、扉の数!!

 そして、出される設問の度に聴かされる枕詞はいったいなんなの!?

 というか、すべてわたくしに関することって……いったい何を考えて旦那様はこんな仕打ちを!?

 これじゃあ、まるで旦那様はわたくしのことをものすごく好きみたいじゃない!

 べ、別にそんな勘違いなんかしないんだからね……!

 きっと、旦那様は誰にも堪えられない問題として、わたくしのことをネタにしたのよ!

 そうに違いないわ!

 そう……よね? ね?

 わたくしは動揺しつつも、数々の扉を突破し……そして、なんとなく雰囲気的にこれが最終関門なんじゃないかしら……? と思われる、今までのものよりも重厚な雰囲気を持つ扉の前に立ち、途方に暮れてしまった。

 出された問題の答えが、わたくしでさえ……まるでわからなかったのだ。


【蒼の月の五の日にリリーナ夫人がはいていた下着の色は?】


 蒼の月といえば、今から数えて三つの前の月である。三つ前の月に身に着けていた下着の色など、わかるわけもない。だいたい、下着に限らずわたくしの衣服のほとんどはアリシアが決めているのだ。むろん、わたくしの好みや気分を第一に考えてくれているので、アリシアがコーディネートしてくれる衣服に、わたくしは何一つ不満などない。

 この場にアリシアがいれば、答えを教えてくれただろうか。

 いや、いくらアリシアが優秀なメイドとはいえ、そのような前の、そんなくだらなくもささいな事柄を覚えているはずもない。これは本当に、難問中の難問だ。

 下着を保有している当人が頭を抱えているのだから、間違いはない。


「……その前に、旦那様はわたくしの下着の色なんて、知っているのかしら?」


 問題に出すくらいなのだから、知っていると思われるけれど……

 それはいくらなんでも、わたくしとて淑女としての羞恥心はあるのですから……ちょっぴり恥ずかしいですわよ、旦那様?

 眉間に皺が思い切り寄っているのは、回答のわからない難問ゆえなのか、それとも旦那様がわたくしの下着の色をどうやって知ったのか、それについて頭が痛いせいなのか……自分でも判断がつかない状況だった

 後者のことは、のちのち考えよう。

 ひとまず旦那様のことは置いておいて、頭の中を整理することにする。

 わたくし、あまり座学は得意な方ではないのだけれども、実は記憶力というものには、ちょっとばかり自信がある。特に旦那様のことに関しては。まあ、今回のことについては旦那様に関する記憶ではないけれども、自分自身のことなのだから、なんとかして思い出さなければ……

 ここまで扉を突破した流れでわかっているのは、質問の答えは三度まで間違えることができるということ。それ以上を間違えると、なんらかのペナルティーを与えられるか、もしくは扉が開くことはない――のだと、思う。

 今のところ、答えを間違えることはなかったけれど、まるで答えがわからない今回は、慎重に考えて、答えなければ……

 わたくしは、眉間に人差し指を当て、思考を巡らせる。脳内の奥の奥にひっそりと閉じ込めていた記憶を呼び起こすのには、少々時間がかかってしまうものだ。

 自然と、瞼を閉じて視覚を遮断する。

 あの日、わたくしが身に着けていた下着は……

 下着は……

 レースの白……いえ、情熱的な赤……いえいえ、クールに決めてやりますわよ水色……

 意識を研ぎ澄まし、脳内の奥底に眠っている記憶を呼び覚ます。

 奥の、奥にある……わたくしの、記憶……

 懸命に思い出そうとしているのが、自分の下着の色というのがアレですけれども……

 あ、と小さく呟いて目を開けた。薄闇の中で、扉が待ち構えている。


「――乙女チックに落とせ、桃色のレースとリボンですわ」


 用心深く答えると、扉はわたくしが予想していたよりもあっさりと正解であることを告げた。ドッと身体から力が抜ける。ホッと息を吐き、扉に手をかけた。

 今のは緊張した……ふう、よかった。我知らず、肌にはうっすらと汗をかいていた。

 扉を開けると、そこには再び通路が現れた。けれども、今度は今までの無機質な通路ではなく、きちんと灯りが等間隔に設置されており、足もとも貴人が歩くのに問題がない程度には柔かな絨毯が、敷かれていた。

 つまり、誰かしらが生活……とまではいかなくとも、行動をとることができる空間が、この先にあるということだ。わたくしは頭を包んだ絹を結び直し、今まで以上にそろそろと慎重に歩を進めた。通路の少し先の方から、灯りが漏れている。

 どうやら、最後の部屋には扉がないらしい。

 ようやく、ゴールに辿り着けたようだ。

 安堵と共に、緊張感が一気に戻って来た。

 深呼吸で呼吸を整え、壁沿いに身をひそめながら、そちらへと足を動かす。

 果たして、わたくしは今まで疑い続け、不安に胸を震わせていた光景――現実を、目にすることとなった。







「この季節の新色は、本当に好ましいと思うわ。なんて、素敵な色合いかしら」


 白魚のような指先についている綺麗な形の爪に、その人は丁寧に色をつけていた。

 形のよい魅力的な唇が語った通り、確かに魅力的な色合いが、元から素敵な爪を彩り、魅力が爆発的に上がっているような気がする。

 美しく彩られた爪先で、クイッと顎なんか持たれたら、それはもう心臓がときめきすぎて死んでしまうのではないかと思うくらいに、実に似合っていた。

 わたくしはきっと、その人ほどに麗しい人を知らない。


「でも、この前新しく買った口紅は失くしてしまったのよね……一度しか使っていなかったのに、残念だわ。どこに行ってしまったのかしら……」


 ふぅ……と悩ましい吐息をつきながら語られる内容に、わたくしはピンときた。

 洗濯物に紛れていたあの口紅は、この人のものだったのだと。

 信じられないような気持ちで、わたくしは様子を観察することしか、できない。


「まあ、わたしは紅よりも、こういう風に爪を綺麗にする方が好んでいるわけだけど……」


 秘密の部屋だと言うべき、その空間は……なんというか、わたくしが想像していた十倍くらいオシャレな空間が広がっていた。広さで言えば、わたくしの寝室と同じか、少し広いくらいだろう。つまり、人が生活するのは十分な広さがあるということだ。

 テーブルやソファを初め、くつろぐのに不自由することのないように、調度品はすべてそろっているように見える。天井には、煌めくシャンデリアが。無機質な壁には、いくつもの色が折り重なったカーテンがかけられており、その色合いで空間全体が華やかに見える。

 華やかではあるが、けして下品ではない。貴族御用達の高級ブティックなどに通じる、品のよい、そして非常に女性的な空間が、わたくしが盗み見たものだった。


「……ふー」


 吐息を爪先にふきかけているのは、乾かしているのだろう。

 かの人は広いソファーとベッドの中間みたいなゆったりとした何かに身体を横たえ、背中にいくつものクッションをしいて、ゆったりと爪を彩っているわけだけど……その姿がまた、絵画のように素晴らしい。

 絨毯の上には、お茶や菓子などが用意されていた。わたくしが見える範囲に、キッチン等は確認できないけれども、きっとお茶などがある以上は、用意できる施設も内蔵されているのだろう。


「……どうせ、この部屋を抜ける頃には色を落すのに、飽きもしませんね」


 もう一つの声が、ほんの少しだけ呆れたような意味合いを込めた声で言う。

 舞台で映えそうな、艶やかな甘い声音だった。

 声だけで女性を虜にできそうな、声の主を……わたくしは知っていた。

 彼とは、直接言葉を交わしたことはあまりないけれども。


「ここじゃないとできないんだから、ほうっておいて! いいのよ、一夜の幻のような楽しみでも、十分にわたしは満足なんだから。それは、あなただってそうでしょう?」


 目を細めて笑う麗人に対し、苦笑のようなものが返ってくる。

 二人がとても安らいでおり、なおかつ、二人の関係がとても親密なのだと思わせる空気が、そこにはあった。

 そう……だ。彼らは、強い絆で結ばれている……のは、知っていた。


「……確かに、そうですね」


 苦笑を返した人物の手は、せっせと器用に編み物をしているようだ。

 あれは、ぬいぐるみ?

 一抱えくらいありそうな、立派な……しかも、お店で売られていても遜色のないような品物が、できあがりつつあるようだ。

 武骨にすら見える手が、器用にぬいぐるみを作り上げていく。

 わたくしが茫然と盗み見をしている間も、ものすごいスピードと正確さでぬいぐるみは完成しつつあった。

 なんて、愛くるしいぬいぐるみだろう。

 このような状況でさえなければ、あの人の両手を握りしめて「世界中の子供と乙女のために、その才能を発揮すべきよ!」と力説していたことだろう。

 それほどまでに、遠目から見ても素晴らしい出来栄えだった。

 売りに出せば、コレクターができるかもしれない。わたくしも、欲しい。


「あなたもそろそろお休みして、お茶でも飲んだら? ブランデーたらす?」


「ありがたく、ちょうだいいたします」


 ウフフ、アハハという二人の周囲には花が散らばっているような錯覚が見えて、わたくしは思わず目をこすった。

 ゴシゴシと丹念にこすって、もう一度、その光景を――わたくしが受け止めなければならない事実を、目に焼き付ける。

 かの人々は、ゆったりとお茶を飲みながら世間話に花を咲かせ、次第にその内容はこのお屋敷内のできごと――……わたくしに関することへと、移行した。


「……わたしもね、心苦しいのよ。こんなとんでもない秘密を抱えたまま……彼女に対して、誠実であることができないことが……」


 天上の美とも言える麗人が切なげに息を吐く。

 マッチ棒が乗りそうなくらいに長い睫毛が伏せられ、目元に影を作っている。

 このような表現は間違っているかもしれないけれども、アンニュイな表情が、驚くほどに似合っていた。


「でも、秘密は秘密にしないと……こんなわたしと、あの人は受け入れてくれるわけがないもの……」


「……わたしは、かの方なら受け入れてくれるのではないかと夢想することがございます」


「そうだったら、とても嬉しいけれど……いえ、やっぱりダメ。わたし自身が、知られたくないもの……嫌われたくないの……リリーナには」


 悩み多き乙女のようなため息が、双方の口から零れ落ちた。

 特に、麗人の唇から洩れる吐息は切なく、わたくしの胸を締め付ける。

 形のよい唇からもれたわたくしの名前に、心臓が跳ね上がった。

 今、間違いなくあの方々は、わたくしの名を口にした。

 ああ、嘘ではないのだ。

 夢でも、わたくしの妄想でもなく……すべて、事実なのだと。

 諦めとは少し違う、なんというか事実を事実として受け止める、不思議なほどに潔い感情が、わたくしの胸に宿る。

 たぶんそれは、先ほどの影のある表情を見てしまったからなのだと思う。

 ふしゅー……と、気づくとわたくしは細い吐息を吐いていた。ため息とは異なる、己の気持ちを整理するための深く、静かな呼吸である。


「嫌われたくないのよ、絶対に」


 胸を締め付けられるような切ない表情を、その麗人は浮かべていた。

 そこまでが、わたくしの我慢の限界だった。


「ちょっとお待ちになって!!」


 これ以上、どことなく泣き出しそうに聞こえる声を耳にしたくなくて、わたくしは勢いよく部屋に飛び込み――勢いがありすぎて、そのままふかふかの絨毯に転がり込んでしまった。

 ぽかんとした二つの眼差しが、転がっているわたくしの肢体に突き刺さる……

 時が凍り付くのを感じた。

 それでも、わたくしは彼らの――彼の目を見て、言わなければならないことがある。


「え、ど、ど、どうして?」


 茫然――いや、愕然とした麗人の宝玉のような目が、そこら辺に転がっていそうな平凡なわたくしの瞳とかちりと、合う。

 一瞬で、血の気が引いてしまうその美しい面に胸が痛む。

 そんな顔をさせたかったわけではないのに。

 かの人は慌ててソファーから腰をあげ、わたくしの元へと走り寄って来た。

 絨毯に転がっているわたくしに、おそらくいつもの癖で手を差し出し、だけどその手の先――爪が可憐に彩られている事実を今更のように思い出したように、止まった。

 逡巡は一瞬だった。

 戸惑うように彷徨(さまよ)った指先が、わたくしへと再び伸ばされる。


「……そんなところで横になると、身体を冷やすよ」


 唇が、いつものように優しい笑みを浮かべている。

 その顔色は白い紙のように血の気が失せ、深い悲しみを瞳は宿していたけれども、凛然とした眼差しで、わたくしを映していた。

 わたくしも、同じように笑みを浮かべる。できるだけ、思い切り。

 伸ばされた手を、わたくしは強く握りしめた。

 本当に、美しい指先。

 よほど丹念に、手入れがされているのだろう。

 ほうっと、ため息が出てしまいそうなほどだ。


「ありがとうございます――旦那様」


 わたくしがこの世でもっとも美しく、愛しく、素晴らしい人だと思っている――わたくしの大切な旦那様の爪は、当人が彩った色にて可憐に様へと変貌していた。

 ソファーの近くで立ち尽くす形となったもう一人の人物――旦那様の側近、ゴードンも旦那様に負けないくらい顔色を無くして、唇を噛みしめていた。

 彼らの秘密は、わたくしの前に今、差し出されている。







 対面式のベッドのようなソファーに、わたくしと旦那様は座っていた。旦那様の背後には、ゴードンが佇んでいる。二人は断罪を待つ囚人のような面持ちだった。


「……色々と、聞きたいことがあるよね?」


 旦那様はかすかに笑っていた。枯れゆく可憐な花びらのように。

 わたくしは旦那様の問いにすぐには答えることができず、ただただ、旦那様の姿を真っ直ぐに見つめていた。

 わたくしが、幼い頃より王子様と慕っていた旦那様だけども、今の彼を、乙女の夢見る王子様だと思える人は、あまりいないかもしれない。

 衣服こそは、わたくしの部屋で挨拶をした時と同じ、ゆったりとした寝室着だったけれども、浮かべる表情はたおやかな女性にしか見えない。

 元から、旦那様は中性的な方だったこともあり、さほど違和感を抱かないのは、わたくしの愛ゆえか、それとも旦那様が美しすぎるゆえか、悩むところである。


「リリーナ……離縁を願うのならが、言ってほしい」


 微笑のまま、旦那様は静かに言う。その声音は、非常に硬い。

 わたくしが姿を見せるまで、絶対に知られたくはないと語っていた方は、わたくしに秘密が露見しても、足掻くことはしなかった。

 ただ静かに、哀しい瞳をしている。

 先程まで、わたくしが乱入するまでいたリラックスしている可憐な少女のような麗人はもう、存在しない。そのことが、無性に悲しくなる。


「若旦那様……!」


 もう一人の同室者――旦那様の近習であるゴードンの焦ったような声が、わたくしには少し嬉しいなんて言ったら、旦那様は怒るだろうか。

 いや、きっとこの人はそんなことで怒ったりしない。

 わたくしは、旦那様の為に心を痛めてくれる人間が存在することが、たまらなく嬉しく、ありがたく感じる。ありがとう、この人を一人にしないでくれて。

 一人きりで、秘密を抱えさせないでくれて。


「旦那様……」


 わたくしは旦那様を呼んだ。

 旦那様の海の底のような瞳が、わたくしを見返す。

 アップルグリーンの瞳は深い瑠璃のように、静かに輝いていた。


「わたくしは、何からお聞きすればよいのでしょうか?」


 考えた末に出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だった。冗談で言ったわけではない。

 本当に、何をどう問いかければよいのかわからなかったのだ。

 この部屋が旦那様とゴードンの秘密部屋であることは間違いないだろう。

 そして、二人はこの秘密の部屋で実にリラックスしているように見えた。

 それは悔しいことだが、わたくしの前で見せていた姿とは、また違うものだった。


「……わたしの、趣味を……語らなければ、始まらないようだね。きっと、リリーナには不快な話になると思うけれど、許してくれるかい?」


 わたくしは是と答えた。

 旦那様はゆっくりと語り始める。


「……始まりは、五歳の時だった……親戚の姉さまたちの集いに、わたしも参加をしていた。わたしの家、アプリコット家はリリーナも知っているように、女児が生まれることが多くてね」


 確かに、旦那様のご家系は女系家族である。旦那様のご親戚類は、女性の数がかなりの比率を占めているようだった。


「わたしは、その当時から綺麗なものや、かわいいものに目が無くてね……女性を華やかにするものにも、心を奪われることが多かった……女性に囲まれることが多かった影響かもしれないけれどもね」


 旦那様曰く、気づいた時には女性が身に着けるものは好むものばかりに、目が言っていたらしい。それでも、貴族の男子として立派に育つべく、剣術や馬術なども習ったけれども、幼い頃から密かに育てた“好み”を捨て去ることはできなかったらしい。


「……わたしは、こういう部屋で過ごすのが、とても好きなの……」


 震えるような吐息で、旦那様は言う。

 女性的な口調になっているのは、意図的なのか違うのか、わたくしにはわからない。けれども、さほどの違和感は覚えなかった。


「口調は……こちらの方が、楽なの……本当は」


 小さな声には、自嘲のような苦い響きを感じる。

 それはきっと、今まで旦那様は感じていた息苦しさとか、後ろめたさがにじみ出てしまったのだろうと思う。

 伯爵家の嫡男であられる旦那様が、女性的な自分を隠すのは、さぞ大変なことだっただろう。妻であるわたくしにさえ、今の今まで知られることはなかったのだ。

 わたくしには、想像することしかできないけれども、それはたぶん、とても窮屈な生き方だったのではないだろうか。だからこそ、このような秘密の部屋を作り、素でいられる空間と時間を作り上げたのだ。

 なぜ、わたくしが住んでいる区域に部屋を作ったのかと尋ねれば、元々、この秘密の部屋があるところに、わたくしの住み家が用意されたのだという答えが返って来た。

 なるほど。この部屋の方が、先にできていたのか……と納得する。


「旦那様……わたくしとの婚約を、婚姻を……どうお考えですか?」


 わたくしは切り込んだ質問をした。

 女性的なものを好むということは、もしかしたら恋情を向ける相手も女性ではなく、殿方なのかもしれない……という思いが、頭をもたげた。

 実はゴードンと深い関係なのだと告白されたら、どうしよう。


「……もしや、将来を誓いあいたい殿方がいたというわけでは……?」


 チラリと、思わずゴードンを見てしまう。ゴードンは唇を真一文字にしていた。

 ゴードンはとても、素敵な殿方だ。あまりおしゃべりを好む方ではないようだが、とても雄々しく、そして親切で、仕事に関して誰よりも真面目にと取り組んでいるように、わたくしには見える。旦那様を抜きにすれば、とてもゴードンという男は、好ましい人間なのだ。

 その評価はきっと、わたくしだけが抱いているものではないだろう。

 万が一、旦那様の性癖がそちらの方であれば、ゴードンのような素敵な同性に胸がときめかないなんてことは、あるのだろうか?

 公私共に旦那様を支えているゴードンがライバルでは、プライベートでしか一緒にいることのできないわたくしでは、勝ち目がないような気がする。

 そもそも、異性に対し胸をときめかせることがないのでは、わたくしがどれほど努力をしても無駄なのではないだろうか……と、不安になった。

 ゴードンが相手でなくとも、他に旦那様の胸を震わせた殿方がいるかもしれない。

 わたくしと同じ女性が相手でも、わたくしのような取るに足らない者では勝ち目がないのでは……と戦々恐々としていたのに、性別の壁があるとなれば、さらに問題は倍率ドーンである。勝ち目など、さらさらないどころか、同じ戦場に立つこともできないのだ。

 しかし、わたくしの杞憂に対し、旦那様はきっぱりと否定してくれた。


「……わたしがこういう男だから、信じられないかもしれないけれども……同性に対し、そういった感情を抱いたことはないわ……リリーナと一緒になれたのは、わたしの人生でもっとも喜ばしいことだと、心から思っているの」


 真摯な言葉だった。

 信じてほしい。だけど、きっと信じてはくれないだろう……

 そんな想いが、どこかに滲んでいるような気がするのは、わたくしを真っ直ぐに見つめる瞳の中に、諦めの色を見つけてしまったからだろうか。


「本当に、わたくしとの婚姻を……後悔されてはいませんか?」


「してないわ」


 きっぱりとした答えが聞ければ、わたくしはもう十分だった。

 ソファーから腰を上げる。旦那様がわずかに身構えるのがわかった。

 わたくしは旦那様へと歩み寄り、そして絨毯に膝をついた。

 驚く旦那様の手を、わたくしはそっと握りしめる。抵抗なく、旦那様の手を捉えることができた。


「ならば、何も問題はございません旦那様」


 旦那様の手を、わたくしは強く握りしめた。

 わたくしの手よりも大きい立派な、殿方の手。剣術の稽古で、それなりに荒れていてもおかしくはないのに、ともすればわたくしよりもしっとりとスベスベで、よく手入れがされている手は、きっと旦那様の努力の賜物なのだろう。

 この方が、この手を手に入れるのに、どれほどのことを心掛けてきたのだろう。

 淑女と違い、剣を握ることも多い、旦那様が。


「素敵な爪ですね」


 握りしめた手を少しゆるめ、旦那様の爪を近くで見る。

 旦那様は脱力しているかのごとく、わたくしにされるがままだ。

 ただその顔は未だに、血の気を失って真っ白になっている。


「わたくしには、こういった才はまるでないので、とてもうらやましく存じます」


 オシャレ関係はすべてアリシア等の周囲の人間に任せきりだったわたくしは、己の言葉通り、こういった才覚はまるでない。好んではいても、自分でどうこうすることは、できないのだ。だからこそ、自分で彩ることができる人は、素晴らしいと思う。

 世の中には、こういった趣味を男性が持つことを好ましくないと思う人もいるだろうが、わたくしは、旦那様の愛情さえいただければ、それ以外のことは構わないのだ。

 驚かなかったといえば嘘になるが、それは嫌悪から来るものではなく、長年――それこそ、幼いころから婚約者という位置にいたというのに、旦那様の大切な秘密を教えていただけなかったことに対する。ちょっとした胸の苦しさからくるものである。


「……う、そ」


 信じられないように、旦那様がこぼす。


「嘘……?」


 何がだろう。綺麗な爪だと褒めたのが嘘だと疑われるのは、心外である。

 わたくしは自分で言うのもなんだか、おべんちゃらとかは苦手なタイプなのだ。


「り、離縁したいとは……思わないの? こ、こんな……薄気味悪い趣味を持つ夫なんて、嫌でしょう?」


「何をおっしゃいます、旦那様。わたくしは旦那様に対する愛情に関してだけは、誰にも負けないと自負しておりますのよ。旦那様に女性的な趣味がある程度のことが、わたくしの旦那様に対する愛情を薄れさせる要因になるとでも?」


 わたくしは旦那様の麗しい顔に、己の平々凡々とした面を近づけた。

 旦那様は怯える子供のような表情をしていた。

 愛しさと切なさで、わたくしの苺ゼリーのようなハートが震える。


「ありえませんわ、そんなこと」


 わたくしと婚儀を結んだことを、旦那様が後悔していないのであれば、それでいい。

 それに……


「……いちおう、お尋ねするのですが……だ、旦那様はその……よその姫君と……」


 アレやコレやな関係ではないのかと、もじもじ尋ねると、目を丸くして旦那様は驚いた。


「ど、どこからそんな話が出てきたんだい?」


 今度は殿方の口調に戻った。


「……だって、旦那様の衣服から女性ものの香水の匂いが」


「……匂い?」


 旦那様はゴードンをチラリと見やる。ゴードンは首を左右にふった。

 それを受けて、旦那様は感心したように息を吐く。


「……訓練している者でも、匂いには気づかないそうだよ。リリーナは、すごいね」


「それはもちろん、旦那様のことですもの。妻として、気づかないわけがございませんわ!」


 いささかボリュームに欠ける胸を張ってみせた。

 実は口紅も拾ったことを告げれば、旦那様は少しだけ笑って、


「新色なの……。どうしても、我慢できなくて」


 恋の秘密を告げる少女のように頬を赤く染めて、睫毛をわずかに伏せた。

 うぉおおおお……か、かかかかかかかわいい……

 ともあれ、この誰の目からも隠れるように作られている秘密の部屋で、もしかしたらわたくし以外の素敵な女性と、あんなことやこんなことをアンアンしているかもしれない……と、胸を痛め、その痛みにも決別する為に、こんな淑女としてあるまじき、追走劇を繰り広げたわたくしと、秘密を抱えていた旦那様のとある夜は更けて行った。







→その5に続く


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