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秘密その3 尾行は妻の必需能力でございますのよ



 普段は山やら森の中を自由に走り回っていた当時七歳のわたくしが、一番年齢が近く仲のよいメイドのアリシアに取っ捕まえられ……いえいえ、“取っ捕まえられ”だなんて、淑女の使う言葉ではありませんでしたわね。

 拿捕……捕獲……むむむ。

 ……まあそんな感じで、身柄をアリシアに拘束され、髪の先から足の先まで泡だらけにされ、綺麗に洗われた、あの日。

 いつもよりも、それはもう念入りにキレイキレイにされた。

 お誕生日でもしないような、極上の余所行きのおめかしをされて、パパ様とママ様に連れて行かれたのは、何かの大きなパーティーだった。

 馬車で移動すること、ほぼ半日。パパ様が収めている領を出ることのほとんどなかったわたくしは、不安や不満でまだ膨らんでいない薄い胸をちょっぴり震わせながら、それ以上にパパ様とママ様とご一緒にお出かけできることが嬉しくて、馬車から見える景色を眺めながら、ワクワクしていたのを、今でも覚えておりますの。

 どこ行くの? と、パパ様たちに聞いても、「いいところ」としか、教えられず……着いた先は、我が家とは比べ物にならないほどに、それはもう立派なお屋敷。

 というか、お城。

 庭の広さも、お屋敷の大きさも段違い。アプリコット領では一番大きなお屋敷に住んでいるわたくしでも、見たことのないほどに立派で、素敵なところだった。

 まあ、あとから知ったことだけどアプリコットの屋敷は他の貴族の方々の豪華なお屋敷に比べたら、大したことないんだけど……。

 まあ、何にしても。

 そのご立派なお屋敷で行われるパーティーに、わたくしたちもご招待されたのだと聞いたのは、お屋敷に入る直前。

 それはもっと早くに教えてくだいさいよ、と子供ながらに思わなくはなかったけれども、何せ当時はお子ちゃま時代。さほど深くは考えなかった。

 パパ様とママ様とのお出かけだとしか、認識していなかった。

 たぶん、他の貴族の家庭だったら当時のわたくしくらいになれば、それなりに貴族の織女としての自覚が芽生えていたのかもしれないけれども……その辺り、うちの両親はそろってのんびりほわわんと構えていたに違いない。

 とにもかくにも、貴族の娘としては自覚の薄いまま育ったわたくしには、豪華絢爛なパーティーはご馳走がいっぱい食べられる素敵な場所……程度の認識だった。

 そういうわけで、自分にはさほど関係はないかと思い直して、パーティー会場となったホールに並ぶお料理の数々の方にしか、わたくしの意識は向いていなかったと、今だからこそ告白できる。

 しかし。

 その大きなパーティーで、引き合わされたのは、わたくしよりも少し年上のスーパーびゅーてぃふるな王子様。

 美形には、両親とアリシアで慣れていると思っていたけれども、同じ年頃で、こんなにも目が潰れそうなほどの美人な男の人を見たことは、それまで一度もなかった。

 当時の彼は、少年なのか少女なのかわからないほど、中性的だった。


「彼が、リリーナの将来お婿さんになる人だよ」


 わたくしたち貴族にとっては――例え、うちが没落貴族だとしても結婚は当人同士が決めるものではなく、親同士が決めるのが通例だった。

 年頃のお姉様たちは、平民たちと同じような恋愛結婚に憧れるらしいけれど……何せ当時のわたくしは七歳。婚約者様は十二歳。

 愛だとか結婚だとかは遠い未来のお話で。

 ぶっちゃけた話、この超美形の王子様が未来の旦那様になるなんて、バチが当たるパパ様! と、心の中で何度も叫んだ記憶しかない。

 年上の王子様のなんと、麗しいこと。

 さらさらの鳶色の髪に、白い肌。

 澄んで温かみのある色合いの、穏やかに輝く緑色の宝石のような瞳に。

 スッと通った目鼻立ち。

 おとぎの国の王子様だって、目の前に立つ将来のお婿さんには勝てないのではないかと、真剣に思ったくらいである。

 わたくしが着ているドレスが、わたくしが着るよりも彼の方が似合いそうなくらい。

 彼は、少女じみた美少年だった。

 その場に立っているだけで、その場に神聖な空気が漂うような気品を感じさせた。まさに、王子様。いや、本当に貴族のお坊ちゃまんなんだけど、うちみたいに田舎にある没落したところとは、なんというか血筋からして違うというか……。

 うちも貴族だけど、生活はほぼ平民とかわらなかったし……

 変な話だけれども、本物の貴族の王子様だと思った。


「君がリリーナ嬢? よろしくね、ぼくのかわいい未来のお嫁さん」


 なんて言って、わたくしの真っ赤に染まっているであろうほっぺんに、チュッとキスをしてくれた。一応貴族の令嬢とはいえ、山やら川やらで遊ぶばかりだった田舎娘丸出しの、りんごのようなほっぺたに、天使の現身のような美少年が、きききききききキスである。

 その時、婚約者様にうっとりと見惚れていたわたくしの顔は、間違いなく閲覧注意レベルでヤバかったと思う。目も鼻の穴も口も、ポッカリと空いていたんじゃないかしらン。

 そんな見ちゃいけませんレベルになっているわたくしのほっぺにちゅって……

 わたくしはその時、自身の頭が爆発したような錯覚を覚えた。

 もしもわたくしに前世があるのならば、どんな善行を重ねてこんな幸福をわたくしに授けてくれたのですか、神様。グッジョブ神様。今まで大して信仰していなかったけれども、明日からはきちんと祈りを捧げます神様。

 そして、そして……

 ああ、婚約者様。

 なんて、素敵。

 なんて、王子様……

 その時まで、周囲の男の子たちに“女の子”扱いをされていなかったわたくしのハートは婚約者様に奪われた。ハートを撃ち抜かれるって、まさかにアレを言うのね。

 しかしながら婚約者とはいえ、おいそれといつも会えないのが、貴族社会の難しいところでして。何せ、わたくしの生家は王都から離れた地方の田舎。対して、旦那様のおうちは王都のど真ん中。超都会。馬車で片道十日以上である。物理的な距離がありすぎる。

 そんなわけで一年に数える程度しか、会うことは叶わなかった。

 おまけに、婚約者様が全寮制の学校に入っていたことも、滅多に会えない原因を増やしていた。婚約者様の在籍していた学校はとても厳格で、長期の休みでも何かしらの役職についている生徒は、自宅へ帰ることもままならなかったようだ。

 外見だけではなく、学業でもスーパーお出来になる上に人望もあった婚約者様は、生徒会に入っており、なかなかご実家に帰ることもできなかったらしい。

 ……学校で、生徒会の購買部への買い出し係をしていたわたくしとはエライ違いだ。

 没落しているとは言え、貴族なのにこの扱い……!

 まあ……そんなこんなで数年が経ち。


「かわいいね、ぼくのお嫁さん」


 小さい頃から憧れてウエディングドレスを着て、数年ぶりに顔を合わせた婚約者様――成長しても、相変わらずにミラクルびゅーてぃふぉーな王子様な婚約者様、いえいえ、これからは旦那様と呼ばせていただきましょう。

 十七歳になり、貴族の娘として結婚ができる年齢に達してすぐに、旦那様は改めてわたくしにプロポーズをしてくださり、結婚することになったのである。

 それはまるで、わたくしが十七歳になるのを今か今かと待っていたような素早さだった。

 没落した我が家では到底開くことなどできないような盛大かつ贅沢な結婚式を終え、わたくしと旦那様は無事に夫婦となった。

 婚約をしていたとは言え、本当にこの日を迎えるまで、真実わたくしと結婚をしてくれるか不安で仕方がない日々だった。

 何せ、旦那様は非常に美しく、性格も誠実で優しく勉強家で、おまけに剣の腕も立ち、誰かに劣るところなど一つもないような神々の祝福を全て受けて生誕したような方なのだ。

 田舎育ちの没落令嬢でしかないわたくしなど、彼の気が変わってしまえば、すぐに婚約破棄されても仕方がない、吹けば吹き飛ぶような軽い存在なのだ。

 けれども、旦那様は幼いころに交わした誓いを破ることなく、わたくしを妻として迎えてくれた。

 あれから約半年。

 わたくしは旦那様の浮気の物象となる最新カラーの口紅を、そっと己のスカートの中にいつでも潜ませている。

 これが切り札になると、わたくしは知っていたから……――。











 とある夜。

 わたくしは前々から行動に移すかどうか悩んでいたことを、ついに決行することと決めた。殿方は度胸、淑女は愛嬌などと言うらしいけれども、淑女だって度胸が必要となる場合が、多々あるのですわ。

 もう、わたくしは我慢ができませんのよ、旦那様。

 きっと、旦那様以外の方も、愚かな妻だと、わたくしの取ろうとしている行動を諌めることだろう。

 けれども……止まることなど、できない。

 これ以上、旦那様の愛を疑い続ける時を過ごすことは、できない。

 ――否。

 そうではない。

 疑い続けることが苦しいから、行動に移すわけではないのだ。

 現状が、旦那様にとってきっと、心地の良い環境ではないと思うから、どうにかしてあげたいとわたくしは考えてしまったのだ。

 もしも万が一、旦那様の愛情がわたくしではなく、他の女性に移っていたのだとしたら……いえ、それ以上に元からわたくしに対し、妻としての愛情を抱いていないのだとして、本当は他の方と幸せを掴みたいと、あの方が願っているのであれば……

 わたくしは涙を飲んで、旦那様の幸せのために身を引く所存なのである。

 旦那様はとてもお優しい気性の方なので、仮にも妻となったわたくしに対し、自分から離縁を申し出ることはできないだろう。

 わたくしの生家と、旦那様の家の力関係を考えれば、あの方が望めば、わたくしに抵抗することなど、できるわけもない。

 旦那様から切り出されてしまえば、それは“提案”ではなく“命令”になってしまう。

 それが旦那様もわかっているから、きっとあの方から申し出ることはないのだ。

 その旦那様の優しさに、わたくしは甘えるわけにはいかない。

 わたくしは――ジュリオ・アプリコットの誇り高き妻なのだから。

 そりゃあ、きっと……三日ほどは泣き暮らすことになるだろう。

 泣いて泣いて、涙がこれ以上に流れないと思うくらいに泣いて、全身の水分が無くなるくらいに涙をこぼしたあとは、決別することになった旦那様と新しい奥方のために、わたくしは心より幸せをお祈りしようと思っている。

 だってわたくしは、一度は旦那様の妻となった女ですもの。

 小さいとはいえ、没落してしまったとはいえ、貴族の娘ですもの。

 貴き血に繋がる者として、無様な真似はいたしませんの。

 ……旦那様の吐息すら保管してしまいたいくらいに、深く深く愛してしまったあの方が幸せになれるのであれば、わたくしの痛む心など、どうってことはない。

 ……う……考えると、ちょっぴり涙が出てきた。仕方ない。淑女ですもの。


「とにかく、旦那様が話をスムーズに持っていけるように、動かぬ証拠を掴まないと」


 誰に言うともなく、口の中で決意を呟く。

 旦那様の心が他の女性に移っているという証拠を見つけ、旦那様をわたくしという枷から解放してさしあげるのだ。

 がんばれ、わたくし。

 あなたはやれる子ですわ、リリーナ・アプリコット。

 旦那様への愛のためならば、この身と心を削るのに、ためらいなどあろうものか。


「よし」


 これまた口の中で小さく気合を呟き、わたくしはとうとう行動に移すこととした。




 旦那様がわたくしにおやすみの挨拶として口づけを与えてくださり、部屋を出て行くのを確認したのちに、いつもならばベッドに移動するところを、ベッドではなく廊下へと続く扉へと身体を向ける。

 いつも身に着けているネグリジェは、普段着よりも動きやすいので、そのまま。

 対象に見つかる前に、とんずらこく……こほん、失礼。

 逃亡を図る必要があるので、動きやすさは何よりも重視しなければならない。

 素顔をさらすのは、マズイような気がするので、頭に絹の布地を巻いて、そのまま鼻の辺りで、キュッと結ぶ。

 たったこれだけで、鼻先にある結び目のおかげで顔がちょっと見えにくくなるのだ。

 今夜の計画に際し、顔を隠す方法を考えた末に編み出した秘策である。

 アリシアにも、この姿も計画も、秘密にしている。

 これはわたくしと旦那様の夫婦の問題なので、できるだけアリシアを巻き込みたくはなかった。日中に探ってもらう分には、どうにか言い訳もできるけれども、このような夜半に主人である旦那様の動きを探ろうとすることは、とても罪深い行動だ。

 大切なアリシアに、そんな罪を背負わせるわけにはいかなかった。

 旦那様とは別のベクトルで、わたくしはアリシアが大好きなのだ。

 まあ、とにもかくにも、完璧ではないだろうか。この姿。

 この姿なら、見つかる寸前に退避するさえできれば、きっとわたくしの正体に気づかれることはないだろう。

 確固とした証拠が見つかるまでは、わたくしが旦那様の秘密を探っていることがバレるのは、避けた方がいいと思うのである。

 準備も整ったので、さっそく部屋の外に出る。一応、出る直前に首だけを扉から出して左右を確認。廊下には使用人の姿はない。事前に調べている巡回のパターンは、頭の中に叩きこんでいる。大丈夫、行ける。


「旦那様……」


 あの方の姿はすでに見えない。なので、匂いを辿って追いかける。旦那様のつけている品のよい香水とわずかに混ざる体臭を、わたくしは完璧に嗅ぎ分けることができる。

 そして猟犬と同じくらいの制度で追いかけることができるのだ! 愛ゆえに!!

“若奥様が変態なだけでは……?”

 などという、アリシアの幻聴が聞こえた気がしたけれども。気にしない方向で!

 クンカクンカと廊下に残る旦那様の残り香をかぎ分け、こっそりスタコラと追いかけながら、わたくしはもう一つの可能性について考えていた。

 それは、旦那様が他の女性に想いを寄せながらも、わたくしとは離縁しない道を選んだ場合のことだ。わたくしたち貴族の婚姻は、平民と違い、離縁をしたからといって簡単に新たなる婚姻を結べるわけではない。いろいろと煩雑な手続き等が必要になるのだ。

 ゆえに、離縁した貴族が新たに婚姻関係を結ぶことは、そう多くない。

 冷え切った夫婦関係のまま、婚姻を結び続け、互いに了承した上で、それぞれ愛人を抱える……というパターンの方が多いのである。

 その場合、わたくしは旦那様が他の女性を愛人として迎えることについて、頭を悩ませなければならなくなるのだ。

 きっぱりと離縁するのであれば、旦那様と物理的な距離ができ、旦那様がどのような女性とアレやコレであんなことやこんなことをしていても、実際のわたくしの目に入ることはない。けれども、万が一……旦那様がこのお屋敷に愛人殿を迎い入れることがあれば、いくら広いお屋敷とはいえ、きっと何かしらで旦那様と愛人殿の行動がわたくしの元へと入ってくるだろう。それは正直、けっこう……辛いと思う。

 離縁する以上の苦しみを、わたくしに与えるだろう。

 それに、わたくしは耐えることができるだろうか。耐えるかわりに、旦那様の身に着けている何かとご褒美にもらえるであろうか。

 そうだったら、少しくらい耐性がアップする……ような気がする。

 気がするだけかもしれないけれども。

 でも気のせいって大事よね。病は気からって言いますもの。

 そこまで考えて、プルプルと首を横にふる。

 うじうじと悩むのは、わたくしの性にあわない。

 とにもかくにも、今は怪しすぎる旦那様の行動の原因を突き止めるに限る。

 うん。そうだ。

 例え旦那様にわたくし以外に心を寄せ、快楽を共にする女性がいるというのならば、秘密にはせずに、堂々と教えてもらおう。

 離縁しても、離縁せずとも、わたくしにとっては苦悶の道である。

 ならば、どちらの道に進んでも自ら覚悟の上で、耐えきろうとわたくしは決意を固めた。 

 妻として、淑女として、殿方の後をこっそりと追いかけるなんて、アレだな……と思わないわけではないけれども、 ちょ、ちょっとくらいは……そのぉ……プライベートを暴かれるくらいのお仕置きは受けていただかないと、妻としてのメンツが立たない。


「憎さあまって、かわいさ百倍ですわよ旦那様……!」


 この場にアリシアがいれば「反対です、若奥様」と突っ込まれそうなことを呟き、わたくしも旦那様も匂いを辿り、早足で廊下を駆け抜けた。

 廊下に設置されている窓の外では、月と星々が白く輝いていた。

 ターゲットである旦那様の姿が近づいてきているのが、匂いの濃さでわかる。

 旦那様は殿方なのだが、どことなく春の花を思わせるような女性的な香りを好んでつけている。正確には、残り香としてつけている。

 わずかな香りは、おそらくわたくし以外の人間には……きっと、わかることなかっただろう。わたくしの嗅覚を初めとする五感は、野生の獣並みだと……村の猟主のオジサマたちに褒められているのだ。

 だからこそ、気づいてしまった……最愛の方の秘密と、裏切り。

 その香りは確かに、絵本に出てくる王子様――旦那様のれっきとした大貴族の若様なのだけれども、若い娘たちが夢見るような気品のある美貌の王子様といった感じの、旦那様にはその女性的というか中性的な匂いは非常に合っている……

 けれども、男性が自発的につけるにはあまりにも、女性的な香りだった。

 似合うけれども、選ばないだろう香り。

 旦那様に、女性の影を感じるには十分な……証拠の一つ。

 距離がいよいよ近づくと、わたくしは足を進める速度をゆるめた。

 旦那様の姿を追いかけられる、ギリギリの距離を保つ。

 あまり近づきすぎると気づかれてしまうし、あまりに遠いと見失ってしまう。

 この辺りは、わたくしも伊達に野生の獣たちと戯れていたわけはない。適性な距離さえ保つことができれば、そう簡単にばれることはないと……はずである。

 旦那様はわたくしの部屋を出てから、まっすぐにご自分の屋敷に向かうことは、なかった。わたくしの屋敷と旦那様の屋敷は渡り廊下でつながっているお隣同士なので、すぐに行き来することができるのだけれども……

 旦那様は、わたくしの屋敷内を歩き続けている。わたくしすら、立ち入ることのない……奥の方へ……

 もしかしたら、散歩をしているだけなのかもしれない……と思うほど、ゆったりとした足取りで、わたくしが生活をいている空間である、わたくし用のお屋敷内を歩いている。

 無論、このお屋敷全体のご主人である旦那様が足を踏み入れることを禁じられている場所など、一つもないので、自由に歩き回られて構わないのだけれども……

 このような夜の深い時間に、旦那様はいったいどのようなご用件で歩いてらっしゃるのか……それが、浅学であるわたくしには考えつかない。

 わたくしと旦那様の他、たくさんの使用人たちが住んでいるお屋敷はとても広く、実を言うとわたくしはすべての部屋の数や全貌を把握しているわけではなかった。

 自分が普段行動している範囲ならば問題はないのだが、それ以外になるとさっぱりである。それは、わたくしの住み家として与えられているこの区域でも、同じことである。本当に、広いのだ。このお屋敷は。

 旦那様を尾行し続けた結果、わたくしは自分の現在地がわからなくなっていた。

 このままでは、屋敷内で遭難である。なんてこと……!

 と、わずかに顔から血の気が下がるのを感じる。旦那様を見失ってしまえば、大変なことになるのをヒシヒシと感じていた。

 そういう理由も加えられて、ますます旦那様から目を離すことができなくなる。

 廊下に等間隔で設置されている窓から差し込む月光に照らされながら、歩を進める旦那様の後ろ姿は芸術品のように美しく、見ているだけでご飯がモリモリと美味しく食べられそうである。わたくしはついつい、自分の置かれている現状……不貞疑惑のある旦那様を尾行している旨を忘れて、見入ってしまった。

 ああ、あの素晴らしく美しいわたくしの旦那様は、もしかしたら月の妖精なのではないかしら?

 などと、頬に手を当ててうっとりと息を吐く。

 旦那様から「実は妖精なんだ」と告白をされても、わたくしはちっとも驚かないと思う。

 殿方としての美しさ以上に、中性的というか女性的というか……そういう繊細な美を、旦那様は有しているのだ。少なくとも、わたくしなどとは比べ物にならないほどに。

 それにしても、旦那様ってばどこに向かってらっしゃるの?

 わたくしへの夜の挨拶が終ったというのに、わたくしの屋敷にいつまでも滞在して、何が目的なのだろうか。もちろん、わたくしの元に旦那様がいらっしゃるということは、嬉しいことなのだけれども、目的が不明瞭な今の状況では、単純に喜んでもいられない。

 散歩……だと思いたい、旦那様の歩みは想定よりも時間をかけたもので、わたくしへの挨拶は物のついでで、本来の目的は、この歩みの先にあるのでは……?

 などと、思わず疑ってしまう。

 いつもは使用人たちが通っている廊下もひっそりと静まり、足音や息遣いなど気をつけないと、うっかりとバレてしまいそうだった。

 着かず離れずの距離を保ちながら、旦那様を追いかける。

 一度、己の靴の音が鳴ったような気がしたので、足音がしないように、わたくしは途中で裸足になっていた。裸足で廊下を歩くなんて、なんてはしたない……などと、ママ様には怒られそうだけど、今のわたくしは密偵なのだ。許して、ママ様。

 それに邸内はどこも舐めても大丈夫くらいにピカピカに磨き上げられているから、裸足で歩くくらい問題はない。コソコソと、履物を手に追跡再開。

 旦那様は、わたくしの追跡には気づいていないようだ。

 ホッと胸を撫で下ろした時、ようやく旦那様の足が止まった。

 旦那様が注意深く左右を見て確認するのを、柱の陰に隠れて見守る。

 そして……――


「え?」


 旦那様の姿が、消えてしまった。

 本当に、魔法のように。跡形も、なく。消えている。

 嘘でしょ?!

 わたくしは目をパチクリさせ、見間違いじゃないかと目をこすってみたけれど、先ほどまで旦那様が立っていた場所から、あの方の姿はなくなっていた。

 慌てて、それでもできる限り足音を立てずに、旦那様の消えた場所に向かう

 本当に、いない。なんの変哲のない廊下。そして、壁。部屋があるわけではない。

 姿を隠すような場所は、一つもない。

 どこにも、ドアなんて――ない。

 試しに通路の壁をペタペタと触ってみるけれど、何もない。

 隠し部屋があるような感じも……しない。手で触れている感触でわかる限り、であるけれども。わたくしも、特にこういったことに詳しいわけではないので、絶対にないとは言い難い……実際に、旦那様の姿がここで消えたのだから、隠し通路か何かがあると考えた方が、自然だとは思うだけれども……

 わたくしは思案し、もう少し詳しく通路の壁や廊下を調べることにした。

 鼻をクンクンと鳴らす。

 旦那様の香しい花のような匂いが途切れているのは、ここだ。

 そして、クンクン……


「ここだ」


 壁の向こう側から、仄かに旦那様の匂いが漂っている……ような気がする。

 それは本当にかすかな、ともすれば感じることができないような微細な香りだった。

 わたくしほどの旦那様への愛と忠誠心がなければ、見落としていたかもしれない。

 何か、旦那様の隠していることが、ここにあるのだと直感した。

 さらに、丁寧に慎重に壁に触れていく。

 指先に、意識を集中して。きっと、何か手がかりが隠れているはずだもの。

 わたくしは自分のこういう勘を、信じるようにしている。

 昔からわたくしは考えて行動するよりも、直感で動いた方が物事がうまく行く確率が高いのだ。


「あった」


 小さな、ヒビにも見えるわずかな歪。小指の先ほどの、小さな小さな傷のような跡。

 そこを爪でなぞってみる。

 当てずっぽうだったが、吉と出たようだ。

 何もなかった壁に、ドアのようなものが浮き出てきた。

 ――どうやら、魔術か何かで偽装していたようだ。

 わたくし自身はまるで魔術など扱ったことはないけれども、そういった不可思議な力を操る人間がいることは、知っている。

 きっと、旦那様の最も信の厚い近習――ゴードンの仕業だろう。

 彼がこの壁には摩訶不思議な細工をしているに間違いない。

 こっそりとため息を落とし、わたくしは気を取り直した。

 じっとりと、出現した扉を睨みつける。この先にあるのは、どのような光景だろうか。

 わたくしにとっては苦しく悲しい光景かもしれない……

 もしかしたら、この先に……浮気相手を囲っているのかも……

 絶世の美女と戯れている姿が、あるのかもしれない……

 それでも、ここまで来てしまった。引き返すことはできない……!

 いや、本当に……帰り道がわからないから……!!




→その4に続く


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