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秘密その2 若奥様、メイドになる。




 お仕事で忙しい旦那様は、それでも朝食と夕食だけは一緒に取れるように、色々と調整をしてくれているらしい。本当だったら、ご飯を一緒に食べることも難しいほどの激務なのだと、使用人たちが教えてくれた。


「今日は、どんな一日を過ごしたの?」

 色素の薄い鳶色のサラサラとした髪は、女性が羨ましがるくらいに魅力的。

 雪を吸収したような色白の肌。優しい光と灯す、アップルグリーンの瞳には、理知的な穏やかに宿っている。少女じみた綺麗に整った顔立ちは少年時代以上で……ううん、昔にはなかった大人の男性の色香が、今の旦那様にはあった。

 いえ、男性的な色香を宿しつつも、まだ少年時代の瑞々しさを残した旦那様は、性や年齢を超えた美しさである。

 ああ、本当に最強に素敵です、旦那様。

 神様がとても気分のよい時につくりあげた芸術品のような、旦那様。

 誰しもが美しいと称するであろう美貌は、天子様の如く。

 身に着けている衣服は最高級品。その高級品を、普通に着こなしているのも素晴らしい。

 ダイニングテーブルで向かい合わせになって座り、食事をしながらお互いの一日のことを話すのが、わたくしたち夫婦の日課だった。

 一緒に過ごせない時間を、会話で補いあうのだ。

 ああ、今夜もお屋敷のシェフの作ってくれたご飯が、涙が出るほどに美味しい。

 このソースはラズベリーかしら? 甘酸っぱいソースが、お肉に大変マッチして、美味しゅうございます。あと十枚、お代りがほしいくらい。

 旦那様の顔を見ると、食欲が少し戻って来た。

 あ、このラズベリーとチーズを練り込んだパンがとても美味しい……

 おかわりに、五本ほどいただけるかしら?

 え、五本も乗せたら皿が埋まるから一本ずつ?


「えっと……今日は……」


 旦那様の優雅に動く指先を見ながら、今日のできごとを話す。

 あまりにも美しすぎて、未だに旦那様の顔がマトモに見られないのも、如何なものか。

 いい加減慣れなきゃと思うのだけれども、美しすぎる旦那様がいけないのである。

 ……嘘です。いけなくは、ありません。旦那様のすーぱー麗しいご尊顔と釣り合うことのできない、そこら辺にいそうな村娘顔のわたくしが悪い。

 子狸顔が悪い。おっぱい小さくて、お腹がむにっとしているわたくしが悪い。

 今でこそ、旦那様の奥さんとしてつり合いが取れるように、貴族の淑女として恥ずかしくない恰好をしているけれども、服を脱いで、村娘の衣服を身にまとえば、そちらの方が断線、似合ってしまうに違いない。

 たまに顔を出すサロンでも、そういう陰口を言われたことが山のようにあった。


「まあ、どこの子狸が紛れ込んだのかと思ったら、アプリコット家の若奥様だったわ」

 なんて。

 聞こえるように言って来るんだから、失礼しちゃうわ。誰が子狸だ。

 本物の狸を見たこともない、都会の淑女様たちめ……!

 本物の子狸はわたくしよりもずっとかわいいわ! 抱きしめたくなるわ!

 そんな超絶かわい子狸とわたくしを一緒にするな。ほっとけ!

 幸い、わたくしの心臓は鉄板でできているので、その程度の悪口はダメージにならないのだけれども。そういうことを言わせてしまうのが、悔しいと言えば悔しい。

 殿方にモテたいがために美人になりたいと思ったことはないけれども、旦那様の奥さんとして相応しいと思ってもらえるために、美しくなりたいと常々思う。

 わたくしは、旦那様に超絶モテたい。メロメロにしたい。

 わたくしが、旦那様の奥方を名乗ることが恥ずかしくない程度の美女であれば、どれほどによかったことか……


「リリーナ? どうしたの?」


 心配そうなアップルグリーンの瞳が、わたくしを映す。

 それはとても演技には見えず、本心からのものだと……思う。


「あ、なんでもないんです。オホホホ」


 別のことを考えていたことを、どうにか誤魔化す。チラッとだけ旦那様の顔を見ると、今度は心配そうに眉根をキュッと寄せていた。

 ああ! 美しい! 悩ましい顔が、素敵すぎる!

 絵描きを呼んで、今すぐに旦那様の魅力を絵に閉じ込めて欲しい……! 百枚くらい!

 もちろん、絵に閉じ込められる程度の魅力ではないと、わかっているけれど。

 その憂いを帯びた旦那様の表情は、男女関係なく魅了する力がある。


「そう? 最近、夜風が冷たくなってきたからね。風邪なんか引かないように、暖かくして寝るんだよ。お腹も冷やさないように」

「は、はい」


 旦那様の優しさに、妻はメロリンラブでございます。

 けれども旦那様。あなたの妻は、山や森の中を駆けずり回って、大きくなりましたのよ。

 たまには、崖を素手で登ることもありましたの。

 寒くなってきた程度で風邪を引くような身体の鍛え方はしておりませんわ!

 ……なんて言ったら、旦那様の「かわいい妻」の座からさらに遠ざかってしまいそうなので、黙っておいた。わたくしも、馬鹿ではない。殿方は、たくましすぎる婦女子を敬遠する生きものなのだ。

 それにしても、旦那様の様子を伺う限り……浮気しているようには見えないのだけれども……でもなぁ、旦那様からはたまに女性ものの香水の匂いがするのは、間違いないのよねぇ。わたくし、他の人たちよりも五感が非常に優れておりますのよ、旦那様。わんこと同じくらい、嗅覚は優れているんですの!

 そんなわたくしの鼻をごまかすことは、できないんですのよ!


「リリーナ? どうしたの?」

「いいえ、旦那様。なんでも、ございませんのよ」


 愛想笑いで、本心を隠す。

 わたくしとて、淑女として教育された貴族の娘。感情を押し殺すことくらいは、できましてよ。いやまあ、田舎貴族で野生の獣と戯れるようなことも多かったですけどね……!

 優しげにこちらを見守ってくれている旦那様の眼差しが、眩しすぎる。

 大好き。今すぐ、ほっぺに吸い付きたいくらい。

 リリーナは、旦那様を信じたいのです。

 信じて……いいですよね?







 などと、思っていた時期もわたくしにもありました。






「……旦那様の御召し物から、口紅が……」


 どうも、こんにちは。

 洗濯場で、愕然としながらプルプルしているリリーナ、十七歳です。

 浮気調査をしていたわけではなく、純粋にお仕事をしている最中に、うっかりと動かぬ証拠を見つけてしまったのです。

 なんてこったい、旦那様!


「リリィ! ほら、仕事がつっかえてんだから、キリキリ動いて!」

「イエッサー!」


 先輩に叱られ、手に持っていた旦那様の御召し物を籠の中に戻す。

 ポケットの中に入っていた口紅……しかも最新式の、筒状になっている口紅も、元通りポケットの中にしまい込む。この筒状の最新式のものは、筒を回せば中に入っている口紅が出て来ると言う、優れもの。オシャレの最先端のいく女子が、こぞって手に入れたいものじゃないですか!! リリーナはさほどオシャレに興味はないですけど、そういう情報は耳に入りましてよ旦那様! 嫁にやらずに、誰にそんな素敵なものをプレゼントしたのですか!? 嫉妬! 嫉妬しまくりますわよ、旦那様! きぃいいいいいいい!!


「……いや、プレゼントだったら旦那様の衣類の中に入っているのは、おかしいのかしら?」


 ブツブツと呟きながら、汗水流して洗濯をする。

 熱湯に汚れた衣類を入れて洗うので、いやぁ汗がダクダクと流れて、心地よい疲労が身体に……やっぱり、人間は汗水流して働かないとね!


「リリィ。こういう汚れは、こうやって落とせば綺麗に落ちるからね」

「おお! すごい! やってみます!」


 いやあ、勉強になるなぁ。

 ――と。いちおう、このお屋敷の旦那様の嫁としてやってきたリリーナ・アプリコットです。少し前から、嫁入りした屋敷のメイドとして働いています。

 まあ、わたくしも少し考えたのだ。

 毎日一生懸命仕事をしている旦那様の為に、わたくしもナニカできることはないだろうかと。

 年齢制限があるせいで、褥で旦那を癒すことができず、お仕事の関係でもわたくしに役立てる知識はない。どうせ、邪魔にしかならない。大事な書類をダメにする自分の姿しか、浮かばない。お勉強は、昔から苦手ですもの……

 遠い東の土地には、≪縁の下のタケノコ≫という言葉があり……あれ? どこか間違っているような……ま、まあ、意味は見えないところで頑張る働き者ってことですよ。


「若奥様。それを言うなら≪縁の下の力持ち≫です」

「ひょう!」


 背後でぼそりと呟かれ、ビクン! と肩を揺らしてしまった。

 肩越しにふり向くと、無表情のアリシアが立っている。相変わらずうっとりとするほどの美貌が、不機嫌そうに見えるのは気のせいだと思いたい。


「メイド長様」


 その場にいた他のメイドたちが、アリシアに対して丁寧にお辞儀をする。

 メイド長であるアリシアは、この場にいるメイドさんたちにとって一番の上司ということになる。まだ年若いアリシアだったが、たった二年程度でアプリコット家のメイド達を掌握してしまっているらしい。さすが、わたくしのアリシア。

 おっと。わたくしも頭を下げてお辞儀をしないと、いけないわよね。

 ぺっこりと、他の人たちに習ってアリシアに向けてお辞儀をしおようとする。

 頭の一つや二つ、下げることに抵抗はない。相手がアリシアならば、なおのことだ。


「こちらの娘を借りていきますよ」


 けれども、その前にアリシアの有無を言わせない雰囲気に押されて、固まってしまった。

 メイドの先輩は少し不思議そうな顔をしたものの、「どうぞどうぞ」とわたくしを押しやった。洗濯場から離れ、アリシアに連れられるままに小部屋に入る。

 アプリコット家の邸宅は、いくつもの宮に別れているので、わたくしもすべてを把握しているわけではない。この辺りは足を踏み入れたことがなかったので、小部屋が何のための部屋かわからなかったが、どうやら休憩室のようだった。


「……あ、アリシアさん?」


 二人きりになった部屋の中、カチャリと鍵をかけられて冷や汗が流れる。

 なんで鍵をかけたのアリシア!?

 わたくし、ここでナニをされちゃうの!?

 心と身体の準備ができておりませんことよ!?


「若奥様」

「は、はい」

「そろそろ、そのメイドごっこはおやめになったらいかがですか?」


 ため息を噛み殺したような声音で、呆れた視線を向けられる。

「め、メイドごっこって……。これでも一応、筋がいいって褒められてるのにぃ」


 先輩メイドたちに、これなら立派なメイドになれると、褒められることも多いのだと、小さな胸を張ってみるが、無駄だった。


「王族とも言葉を交わすことができる上級階級の貴族の奥方が、立派なメイドを目指してどうするのです」

「そうは言っても……わたくし、この屋敷でやることないんだもん」


 ブーブーと唇を尖らせる。アリシアは、わたくしがメイドの仕事をしていることを、当然のように知っている。というか、わたくしが頼み込んでアリシアに口添えしてもらって、メイドにしてもらったのだ。アリシアはなかなか首を縦にふってくれなかったけれども、昔からわたくしの「お願い」に、実はけっこう弱いことを知っているので、拝み倒して言うことを聞いてもらった。

 社交会さえあれば、わたくしの能力を発揮することはできるが、屋敷内では……無力と等しい。それでは、非常に申し訳ない。働かざる者、食うべからずですもの。


「それに、実家でもメイドのお仕事はやっていたでしょう?」


 そうなのだ。うちも貴族だけれども、本当に没落しきっていたので、広大な土地と立派な屋敷を維持するだけでも大変で、たまに他のお金持ちのお屋敷にメイドとしてバイトに出かけていたのだ。結婚しなかったら、そのままメイドとしての道を極めてもいいかなと思うくらい、メイドの仕事はわたくしにあっていた。

 お掃除、お洗濯、裁縫なんかは大好き。料理はできないけど、食器洗いはお任せあれ。

 ……貴族としていかがなものかと思われるだろうが、超没落貴族なんて、そんなものである。メイドの他に家庭教師なんかもやっていたけれども、わたくしの学力では教えられるのも、小さな子供に限れてしまう。残念ながら現在のアプリコット低には勉強を教えるような小さい子がいないので、メイドの仕事に落ち着いたのだった。

 思えば、こんな貧乏貴族に代々の(えにし)とはいえ、仕えなければならないアリシアたちには、気の毒だと思う。


「うう、ごめんよ。わたくしが、不甲斐ないばっかりに」


 余計な苦労をかけるねぇと泣き真似をしながら言えば、


「若奥様の考えの足りなさは今に始まったことではありませんが」

「なんですと!?」


 その言い様はあんまりでは、ありませんこと!?


「ご実家にいた時と今では、事情が違いますわ。新人メイドが本当は若奥様だなんて……他の方には、絶対に露見するわけにはまいりませんのよ」

「それはわかってるわよぉう」


 もちろん、次期当主の若奥様になったわたくしがメイドをやるなんて、見つかってしまえば終わりだ。もしかしたら、呆れられてこれこそ、離縁の原因になるかもしれない。

 だから変装して……まあ、変装といってもプロではないのだから、髪型を変えてメイクも少しかけて、メイド姿になっただけだったんだけど……

 そのくらいの変装で、誰にも【若奥様】とはバレなくなった。

 面接の時なんか「まあ、健康でよく働きそうな娘さんね」と褒められたくらいだ。

 それくらい、わたくしはそこらへんの健康そうな娘さんとして馴染んでいた。」

 わたくしの顔を知っているのは、わたくしに与えられている宮に努めてくれている人たちくらいなものだし、わたくしが現在働いているのは、その宮から離れている。

人目を引くような美貌も、貴族らしい気品なんかもわたくしには持ち合わせていなかったから、そういった要因でも“若奥様”だなんて、思われなかったのだろう。

 本当は掃除や洗濯などよりも、調理場の方が得意なのだが……調理場には、わたくしの顔を知っているコック長もいるので、あえて避けておいた。

 協力者であるアリシアは複雑そうではあるものの、結局はわたくしのやりたいようにやらせてくれた。けれども、やはり心の中ではわたくしが働くことには反対のようだ。

 そりゃ、そうだよね。


「あ、それよりも!! ちょっと聞いてアリシア!」


 わたくしは半分、話を誤魔化すのを目的にしながら、旦那様のポケットの中から口紅を見つけたことを話した。途端、アリシアが荒く舌打ちをする。


「え? アリシア、今……舌打ちした?」

「いえ、まさか」


 いや、今したし……

 アリシアの笑顔に押し切られて、無理やり納得するしかないけど。


「ちょっと、あんにゃろう……旦那様をどう拷問……問い詰めるか考えただけです」

「あ、アリシア。アリシアさん、落ち着いて」

「……申し訳ありません、若奥様。わたくしが、執事長のゴードン殿の妨害にさえ屈しなければ……」


 ゴードンというのは、旦那様の側近で非常に背が高く、逞しい偉丈夫である。異国の出身のようで、赤銅色の肌と漆黒の短い髪を持つ、雄々しいタイプの美丈夫だ。

 なんでも、旦那様とは幼馴染の関係のようで、気安い間柄のようである。無口な方らしく、わたくしはあまり言葉を交わしたことがないけれども、旦那様がとても信頼している方なので、わたくしも悪い方だとは、思わない。けれども、アリシアはゴードン殿の妨害にあっているらしい。

 ゴードン殿の立場から言えば、邪魔するのは当然といえば当然なんだけど……


「あの、アリシア、いちおう聞くけど、ゴードン殿にわたくしたちのことは、バレて……?」

「そこは、ご安心を若奥様。バレておりませんわ。わたくしも、身元を隠して密偵をしておりますので。ゴードン殿からすれば、主人の周囲をうろつく不届きもの程度の認識しか、ないと思われます」

「それはそれで、どうなのかしら……」


 アリシアは覆面でもして、やっているのかしら。その辺りは、あんまり突っ込んで聞かない方がいいと、何かが訴えている。本能的なものかしら。


「あの時……ゴードン殿の妨害さえなければ、旦那様の息の根を止めることができましたのに」


 ギリっと悔しそうに人差し指の付け根辺りを、アリシアは噛む。悔しい時の、アリシアの昔からの癖なんだけど……


「待って待って。動向を確かめるだけじゃなかったの?」

「え? そのまま抹殺してはいけないのですか?」


 まあ、ビックリ! と、わざとらしく驚くアリシアが怖い。


「アリシアアリシア。旦那様がお亡くなりになると、わたくし未亡人になっちゃう」


 密偵だけにしておいて欲しい。ちっと聞こえた舌打ちは、聞こえないフリな方向で。


「そうですか?」


 心底、残念そうに言わないでほしい。

 わたくしならばいいが、さすがに旦那様に対してそんなことを言っていたことが他の人にバレたら、アリシアの身も危なくなってしまう。

 この屋敷において主人は、旦那様一人なのだ。

 そして、わたくしにとってもお婿様は一人だけ。


「わかりました。それではとりあえず、ねじ切って参ります」

「どこを!?」

「わたくしの口から卑猥(ひわい)な言葉を引き出したいのですか? いけない若奥様ですね」

「そんなこと、一言も言ってないですけど!?」


 むしろ、その言い回しをどこで覚えてきた!?


「わたくしが大事に育て上げた若奥様をないがしろに他の女性とニャンニャンいたすなんて、男の風上にもおけぬと言うもの」

「……アリシアとわたくし、そんなに年齢離れていなかったはずだけど」


 物心ついた時から一緒にいるけれども、育てられた覚えはあまりない。

 おまけに、ニャンニャンて……発想が、わたくしと同じじゃない……

 アリシアには、わたしと同程度であってほしくない……そうだ。

 ワンワンじゃだめなの!?

 そう突っ込むけれど、完全に無視されてしまう。しょぼん。


「それにしても、やっぱり旦那様の浮気疑惑は……確定事項なのかしら?」


 女ものの香水、口紅……これだけ揃えば、証拠は十分な気がする。

 何よりも、あの神の領域に達している美貌を有する旦那様だ。

 他の、女たちが放っておくわけもない。彼と視線があっただけで、本物の天使すら眩暈で天から落ちてしまいそう。

 あとは、旦那様が認めるかどうかだ。その前に、わたくしが手にした証拠を突きつけるかどうかにも、かかっているけれども……どうしたものか。


「……ふぅ。本当に、あのゴードン殿さえどうにかなれば、さらに旦那様の秘密を探ることはできそうなのですが」

「アリシアも、ゴードン殿は出し抜けないみたいね」

「口惜しいことですが、左様にざいます」


 ほんの少し、悔しそうだ。普段、感情を表に出すことのないアリシアにしては珍しい。

 前々から、薄々は思っていたけれども、どうやらアリシアはゴードン殿をライバル視しているようだ。


「まあ、ゴードン殿は魔術師でもあるし、仕方がないわよ」


 魔術師。字の如く、魔術を扱う人物を指す。彼ら、もしくは彼女たちはあらゆる精霊の力を引き出し、(おの)の力に変えて使役できる人。

 ゴードン殿は、この国でも屈指の魔術らしい。

 直接、魔術を見せてもらったことはないけれども、旦那様の話しなので間違いはないだろう。この手のことで、旦那様がわたくしに嘘を言う必要はないだろうし。

 見た目は旦那様よりも剣士のように見えるのだけれども……まあ、何にしろ本物の争いごとを生業としている方に、メイドであるアリシアが敵うわけもない。

 過度な期待は、酷というものだ。


「とりあえず、そろそろ仕事に戻らなきゃ。アリシアも、これ以上の深追いはしなくてもいいわ。本来の自分の仕事に戻ってちょうだい」

「……若奥様。できれば、すみやかにお仕事からは離れてくださいましね」

「……イエッサー」


 旦那様の見えないところでもいいから、何かのお世話をしたかったけれど……あんまりアリシアに迷惑かけるのもアレかな……そろそろ潮時なのかもしれない。

 貴族に生まれなかったら、今の仕事が天職だと思うんだけどなぁ……残念。







「旦那様?」


 夜寝る前に、扉をノックする音がして返事をすると、旦那様が入ってくる。

 この時間に、わたくしの元へ訪れることができる人間は、限られていた。

 旦那様かアリシアだけだ。

 よほどの緊急でない限り、この二人以外の人間が入ってくることは、まずありえない。

 就寝前なので、彼は柔らかそうなガウンを身に着けていた。手に持ったランプに彩られた旦那様の髪も肌も、仄かに橙色を吸収していた。

 一瞬、星の王子様が現れたのかと思った。

 それほどに、旦那様は美しく、素晴らしくかっこよく見えた。

 オーラが、オーラがキラキラと眩しすぎて目が潰れてしまいそう。


「どうしたんですの?」


 昼間に見つけた口紅のことを今は、頭の隅っこの方に押しやることにして、ニッコリと微笑みを浮かべて出迎える。心の中はグチャグチャになりそうだけど、やっぱり旦那様の顔を見てしまうと、浮気のことを問いただすことができなくなる。

 だって、だって、旦那様のこと大好きなんだもの……

 これで、本当に……旦那様の裏切りが確定してしまったら、どうすればいいの。

 平民と違い、貴族同士の婚礼は浮気くらいでは離縁の理由にならない。

 貴族同士の婚礼は、個人同士のものではなく、家と家との関係なので、おいそれと離縁することはできないのだ。婚礼自体も、いわゆる政略結婚というもので、お互いの愛を育まないまま、結ぶこともある。その場合は、お互いに婚礼と恋愛は別物と考えて、公然と愛人を囲い合う夫婦もいるのだそうだ。

 万が一、離縁することになっても階級が上位の方からしか、切り出すことができない習わしがある。つまり、わたくしと旦那様が離縁することになっても、旦那様から切り出さない限り、離縁することはできないのだ。

 それに何より、わたくし自身が旦那様と離れたくなんかない。

 旦那様と離縁まではしたくない。幼い頃、あのパーティーで出会った時から、ずっと恋心を育ててきたのだ。その彼と、半年程度で結婚生活を終了させてしまうなんて、何年も想い続けていたわたくしがかわいそうすぎる。この恋心を育てる以外、他の殿方など目も暮れずに邁進していた純情をどうしてくれるのだろうか。

 こんなにわたくしの心をすべて奪い尽くしてしまうなんて、なんて憎らしい人なの旦那様は。

 憎らしくて、愛しくて、胸がキュンキュンする。

 ……もしも万が一、本当に万が一、旦那様が浮気をなさっていて、わたくし以外の女性を愛していたとしたら……わたくしはもしかしたら、近い将来……愛人を囲う旦那様を認めなければならないのかもしれない。

 旦那様を愛しすぎているわたくしに、離縁という選択肢がない以上は、公的に愛人を認める以外にあるだろうか。貴族にとって、愛人の存在は暗黙の了解として認められている。

 ……当事者の心情がどのようなものかは、外部の人間たちには測り知れないだろうが。

 う、悲しい……!


「リリーナ。少しいいかな?」


 どことなく、遠慮がちに見える笑顔で問われて、わたくしは首を縦にふる。

 もちろんです、旦那様。浮気疑惑があっても、それ以上に会いたくてたまらなかったのですから。このリリーナに、あなたのことを拒絶する理由が、ありましょうか。

 室内の灯りをつけて招き入れ、窓際の小パーラー(ようはちょっとした休憩所)に設置しているテーブルに旦那様を案内する。丸テーブルに綺麗にテーブルクロスをかけ、その上にはいつもアリシアは綺麗な花を飾ってくれている。

 このテーブルで外を見ながらお茶を楽しむのが、わたくしの毎日の癒しだった。

 テーブルに辿り着く直前に、旦那様は一歩前に進み、わたくしのために椅子を引いてくれた。

 男女の場合、当たり前のマナーだとはわかっているんだけど……なんというか、たったこれだけの動作がなんと絵になる人だろう。旦那様のエスコートはいつも完璧だった。


「ありがとうございます、旦那様」


 引いてもらった椅子に腰を下ろす。テーブルには、いつでもお茶が飲めるようにセットだけはしている。さすがにこの時間、アリシアたちについてもらうわけにはいかないから、お茶は自分で入れる必要がある。お湯は用意できないので、冷水で入れられる変わり茶を旦那様に振舞うと、彼は微笑んでくれた。


「それで、どうなさったのですか?」


 彼が喉を湿らせたタイミングで、尋ねてみる。こんな深い時間に、旦那様がわたくしの元へと尋ねてきたことなど、滅多にない。何か、あったのかもしれない。


「あのね、リリーナ」


 真摯な眼差しが、わたくしを見つめる。

 あ、旦那様の喉仏。女性的な美しさだと思っていたけれど、男性らしくて、素敵。

 ガウンに包まれている肢体から、いい匂いがしている。湯上りなのだろう。いつも以上に、お肌はスベスベで、髪も一本一本までケアが行き届いている。

 旦那様は殿方のままでも、十分すぎるほどに美しいけれども、もしも女性だったら、きっと一つの国が滅びてしまっていたことだろう。これほど美しい存在を、時の権力者たちが奪い合わないわけがない。いや、もしかしたら今のままでも十二分に、誰かを惑わせているかもしれない。旦那様の天井知らずの美しさを考えると、ありえそうで怖い。

 なんて罪な人なの、旦那様。好き好き大好き。

 例え、浮気疑惑があっても。


「何か、ぼくに話したいことが……あるんじゃないのかな?」

「え?」

「なんとなくだけど……そう思ったものだから」


 旦那様の言葉にドキリとなっていた。

 もしかして、旦那様はわたくしが浮気を疑っていることを、知っている?

 アリシアに探らせていることが、バレてしまったのかしら。

 ドキドキと心臓が高鳴り、背中に嫌な汗が流れている。

 どうする? ぶつけてみる?

 でも、やっぱり……


「イイエ。ナニモアリマセンワ」


 オホホホと笑う。

 ジーッと旦那様に見つめられて、なんというか……とろけてしまいそうです。

 しばらく無言の見つめ合いは続き、旦那様は一つため息をついて、わたくしから聞き出すことを諦めてくれたらしい。


「……リリーナがそう言うなら、ぼくの思い過ごしかもしれないね」


 旦那様がフッと息を抜くように笑ってくれた。

 ……ゴメンナサイ。旦那様。リリーナには、まだ旦那様を問い詰める勇気がないのです。

 こうやって、二人で月明りに照らされながら、お茶を飲む時間を失くしたくはない。

 日中は仕事で忙しい旦那様が、お一人でやってくる……特別な空間を、今はまだ手放したくはない。


「リリーナ」

「はい?」

「実はもう一つ、用事があるんだ」

「なんでしょう?」

「というか、どっちかというと、こっちが本題」


 彼の微笑が、深くなる。その途端、背筋に甘い痺れが走った。

 わたくしは、知っている。

 この方が、こういう微笑を浮かべた時は注意が必要なのだ。

 いつもは乙女の憧れる王子様そのものといった甘い顔立ちの美貌に、なんというか、野生の獣を思わせるような凄みが加わる。


「ねえ、リリーナ」

「は、はい……旦那様」


 指先の爪まで美しく整えられている旦那様の白い指先が、わたくしの顔へと伸び、ゆっくりと頬を撫でた。ふわん……! そ、その撫で方はちょっとエッチですわ旦那様!

 エッチスケッチワンタッチなのですわ旦那様!

 いつもは優しすぎるくらいなのに、どうして、そんなにちょっと意地悪そうな顔をなさるのですか!?

 そして、その意地悪そうな顔が、どうしてそこまで背筋がゾクゾクしちゃうほどにセクシーで美しいのですか旦那様!


「最近忙しくて、リリーナと仲良くできていなかったから、ぼくはとっても寂しかったよ」


 つつつ……と、旦那様の指先が、頬から唇へと移動し、まるで指先でわたくしに口づけを送るかのように、ゆっくりと撫でる。


「だん、な……様」

「リリーナ……君に、もっと触れたい」

「……わたくしもです」


 指先で唇をふれられただけなのに、本当の口づけを与えられた時みたいに、ドキドキする。椅子に座るわたくしの前に旦那様は跪き、彼はわたくしの両手を自らの両手で包み込んだ。下からすくいあげるような視線で、旦那様はわたくしを見上げた。

 仄かな灯りに照らされた旦那様は幻想的なまでに美しく、わたくしは息をすることすら、忘れてしまった。


「リリーナ。ぼくだけの、かわいいリリーナ」

「……旦那様……」

「今は少し仕事が忙しくて、ゆっくりできないけれど……落ち着いたら、君と二人だけで……ピクニックでも行きたいな」

「ピクニックですか? 二人きりで?」


 わたくしは平気だが、正真正銘の貴族育ちの旦那様が供を連れずに出かけることなど、今まであるのだろうか。


「供を連れていきたいというのならば、君のところのアリシアと、ぼくのゴードンを連れていこう。護衛は、ゴードン一人で十分だ」


 確かに国随一の剣士である旦那様と、名のある魔術師でもあるゴードンがいれば、ちょっとやそっとのことでは危ないこともない。アリシアだって、それなりに戦えるし。

 わたくしは、逃げ足には自信がある。


「いいですわね、ピクニック」


 大好きな旦那様と、アリシアにゴードン。四人だけのピクニック。

 想像するだけで、楽しそう。


「お弁当もいっぱい、用意して」


 リリーナのために、馬車の半分には食料を詰めていこうと言う旦那様は、わたくしが食いしん坊だと思い過ぎである。まったくもって、失礼しちゃう。


「わたくし、そこまで食いしん坊ではありません! せいぜい、三分の一程度で大丈夫です。あ、でも万が一の際の非常食などを準備したら結局馬車の半分くらいには……」


「フフ。いっぱい食べるリリーナが大好きだよ。この小さくて華奢な身体のどこに、食べ物が入っていくんだろうね?」


「とりあえず、胃ですわ」


 きっとわたくしの消化系がとってもがんばってくれているのだ。

 そんなことを思っていたら、深い時間だというのにローストビーフをたっぷりと挟んだクラブサンドが食べたくなってきた。


「今、お腹鳴った?」

「気のせいですわ。幻聴ですわ。お気になさらずに」

「そう? フフフ」


 わたくしと旦那様はそれから、おしゃべりを続けた。

 お互いが眠くなるまで……


「それじゃ、おやすみ、いい夢を」

「はい、旦那様」


 部屋の出入り口となっている扉まで、旦那様を見送りに行く。

 最後に頬に軽く唇を受ける。


「あ」


 優雅に踵を返し、出て行こうとする旦那様の肩に小さな異変を発見し、思わず声が漏れてしまった。わたくしのわずかな声を聞きもらすことなく、旦那様が「どうしたの?」と、にこやかにほほ笑みながら振り返る。

 なんだか、部屋に来訪した時よりも今の方がずっと機嫌がよさそうに見えた。


「旦那様。肩に、虫が」


 小指の爪ほどの大きさの蜘蛛が旦那様の肩の上で休憩を取っていた。

 どこから入ってきたものかしら。小さいけれども、形がちょっぴりあれな、足がけっこう多めにある虫……この嫌われることが多い虫だけど、実は益虫である。

 毒気があるものは別として、無害のものはそう邪険にしなくてもいい虫さんである。

 けれども、わたくしは見てしまった。 

 旦那様の顔から、血の気が引くのを。


「あ、ああ。そう」


 いつもロイヤルスマイルを浮かべている旦那様の笑顔が、微妙にぎこちなく見えるのは、わたくしの気のせいかしら。田舎育ちのわたくしとは違い、都会での純粋培養の旦那様は虫が苦手なのかもしれない。上品で優雅で男性だけど、可憐という言葉も似合う旦那様ならば、わからなくはない。虫を苦手とする旦那様、かわいらしい。

 そうであるのならば、わたくしとて、妻として旦那様の憂いを払わなければなるまい。

 わたくしは旦那様の肩に乗っていた虫を指先で軽くつまみ、そのまま窓へと歩み、少し開いてそっと外に出してあげた。

 わたくしは、さほど虫を厭うことはない。虫が怖くて農作業はできない。


「これで、なんの心配もございませんわよ旦那様」


 ニッコリと微笑むと、旦那様は笑い返してくれた。

 その顔が、とても引きつっていたので、きっとわたくしが思っている以上に虫が苦手だったに違いない。旦那様にも、弱点があったのね。完全無欠な人かと思っていたら、こんな小さな弱点があるなんて……うふふ、意外な一面をさらに好きになりそう。


「あ、ありがとうリリーナ。うん、感謝するよ。お、おやすみ」

「おやみなさいませ、旦那様」


 こうしてわたくしたちの、おしゃべりだけの健全な逢瀬は終わった。






→その3に続く


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