序章 星暦1891年5月24日 共和国東部 対帝国国境
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今年で軍歴20年になる共和国陸軍大尉プレストル・ド・ヴィラールは閃光と爆音の渦の中にいた。数時間前までは麦の穂が豊かに実る農地だった場所は辺り一面に降り注ぐ砲弾に耕され、掘り起こされ、無惨な荒れ野と化している。その灰色の世界に走る一本のか細い塹壕の中に、彼は自らが指揮する独立歩兵第423大隊第2中隊とともにその身を埋めていた。急造の塹壕は猛烈な砲撃に耐えうるものではなく、時折爆風で吹き飛ばされた兵士が空中へ舞い上がり、直撃弾が不運な分隊を肉片に変えた。その爆発音と舌を噛みそうになるほどの振動がヴィラールのもとにも轟いてくる。
「中隊長殿!、この砲撃はいつまで続くのでしょうか?」
砲撃の轟音にかき消されぬよう声を張り上げたのは、ヴィラールの横に控えている第3小隊長のデスパレ少尉であった。彼は士官学校を出たばかりの新任少尉であるため、第3小隊は中隊長であるヴィラールが直卒する形をとっている。
「そりゃあ、敵さんが満足するまでさ。わかったら口を閉じておけ。舌を噛んではそのよく回る口も永遠に開けなくなってしまうぞ?」
ヴィラールがそう返すとデスパレ少尉はその愛嬌のある丸顔になんともいえない表情を浮かべて押し黙った。少尉の横では先任下士官の曹長が苦笑を浮かべている。だが新任の少尉にしては見所があるな、とヴィラールは内心独りごちた。人間は命を脅かす轟音に晒され続けると気が触れてしまうものだ。シェルショックなどがそれに当たる。事実、ヴィラール自身も周囲の兵士たちも一時間以上に及ぶ砲撃で極限状態にあった。
そんな中誰もが聞きたいことを平時と変わらぬあっけらかんとした声で叫んだデスパレ少尉はある意味大物なのかもしれない。もっとも、そんなことはこの豪勢な砲撃の送り主である帝国軍に聞かなければわからないのだが。
そんなことをヴィラールが考えていると、一瞬周囲が静寂に包まれた。先ほどまで轟々と降り注いでいた砲撃がピタリと止んだのだ。兵士たちが安堵したのも束の間、塹壕の向こうから笛の音が響き渡った。幾百とも幾千とも知れぬ軍靴の音が聞こえてくる。ヴィラールとデスパレ少尉は示し合わせたかのように同時に塹壕から頭を覗かせ、唖然とした。地平線を埋め尽くす人の群れ。筒先を揃えたカーキ色の集団が一糸乱れぬ足取りでこちらへ向かってくる。大陸最強の帝国歩兵の前進が始まったのだ。それは砲撃でぼうっとしたヴィラールの頭を覚醒させるに余りある光景であった。ヴィラールは即座に各小隊長へ被害確認と兵たちの装具点検を命じると傍らのクレマン曹長を振り返った。
「大隊本部からの指示は?」
「通信兵に先ほどから連絡を試みさせていますが、通信が繋がりません。味方砲兵の防御射撃もありませんし、恐らくは‥‥」
「どちらも砲撃で潰されたか‥‥」
「その可能性が高いかと。」
「仕方ない、援軍の到着まで耐えるほかないな。」
そう言いつつもヴィラールは最終的には自分の独断で部隊を引かせる覚悟を決めた。先ほど見た限りでは敵戦力は1個連隊以上はいた。もしかすると1個旅団に達するかも知れない。こちらの戦力はわずか1個大隊である。「持ち場を固守せよ」という大隊本部が発した最後の命令には背くことになるが、このまま戦い続ければ部隊の全滅は目に見えていた。兵たちとて死にに来ているのではない。兵たちの命をどう使うか委ねられているのが指揮官だといっても過言ではない。無論ヴィラールも兵たちを無駄死にさせるつもりはなかった。いかに多く生き残らせ、いかに多くの時間を稼ぐかが彼に課せられた使命であった。
「各小隊、被害報告!」
「第1小隊、戦死12,重傷8!」
右側から第1小隊長ブルネル中尉の声が響く。
「第2小隊、戦死15、重傷11、ギョーム少尉殿戦死されました!」
左側から第2小隊先任下士官のダラス軍曹の絶叫が響く。
「第3小隊、戦死7、重傷13」
すぐそばから妙にあっけらかんとしたデスパレ少尉の声が聞こえてきた。その声に若干の安心感を覚えながらも、ヴィラールはすでに中隊戦力の3分の1が失われたことにめまいのする思いであった。他の中隊の状況も横一線に展開している上に塹壕に籠もっているためよくわからない。それでも彼は自らの義務を果たさなければならなかった。
「それにしてもどうしてこんなことになってしまったんでしょうねえ。帝国は連邦と開戦間近という話だったではないですか。なんだってこっちへ来るんです?」
マイペースなデスパレ少尉がぼやいた。
「それを考えるのは上の役目さ。」
ヴィラールはそっけなく返しつつ兵たちの様子を伺った。やはりひるんでいる。先ほどの砲撃のショックが抜けていないのだろう。ベテランのクレマン曹長すらも久々の実戦を前に表情が堅い。これはまずい。戦場の空気に飲まれてしまっている。そんなことをヴィラールが考えていると、場違いなにやけ顔でデスパレ少尉が言った。
「大尉殿は上に行かれるつもりは?」
ヴィラールはデスパレ少尉の意図を察した。
「そうか少尉、君は新任だから知らんのか。オレが大尉に昇進して何年目か知っているか?10年だよ。ここまで来たらもう上へは行けんだろうし行くつもりもない。そしてオレは部下に抜かれるのを黙って見ていられるほど器が広くないのだ。上官を差し置いて昇進はないと思ってくれ。二階級特進など以ての外だ。兵士諸君も同様だ!抜け駆けは許さんぞ?」
ヴィラールがわざとらしい真顔でそう言うと兵たちの間から笑いが漏れた。多少なりとも緊張を崩すことに成功したらしい。
「そいつは困りますねえ。軍人になった以上はせめて将官には登りたいのですが。」
したり顔でそう返すデスパレ少尉を横目で見つつ、ヴィラールは新米の部下への評価を上方修正した。
「おいおい、そりゃあお偉いさんに嫌われたオレへの当てつけかい?」
冗談で返しつつヴィラールは再び塹壕から顔を半分だけ出した。すでに帝国軍の横列は距離を半分ほどに縮めていた。まもなく射程距離に入るだろうか。ヴィラールは兵たちに着剣を命じた。ガシャガシャと小銃に銃剣をとりつける音が聞こえてくる。全員の着剣と射撃用意が完了した旨の報告を受けてヴィラールは三度塹壕から頭を出した。幸いにも砲撃から一本だけ生き残っていた幹に小銃の有効射程を示す赤いラインが塗られた大樹の間際を帝国軍歩兵が通過するのを確認するとヴィラールは声を張り上げた。
「打ち方用意!」
同様の命令を各小隊長が復唱し、兵たちが小銃を構え、狙いをつける。他中隊の籠もる左右の別の塹壕から散発的に発砲音が響いた。逸った兵が命令を待たずに発砲したらしい。帝国指揮官が何事か叫ぶと、帝国兵が一斉に突撃を開始した。すかさずヴィラールは叫んだ
「撃て!」
一線に並んだ銃列が同時に火を噴き、銃声が戦場にこだまする。かくして絶望的な戦いが始まった。
分隊=約10名 小隊=約50名 中隊=約200名 大隊=約1000名 連隊=約3000名 旅団=6000名